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冶金つながり?五月・六月の広島からの疎開。世界連邦? & 湯川秀樹 by 鬼塚英昭他

私の高校の同窓生は、広島在住の有志が中心となって『ヒロシマと広高』という同人誌を不定期に発行している。そこには「被爆前から原子爆弾の存在を知っていた」とする二人の証言がある。

一つは一九九七年八月発行のもので、同級の中野武彦君のものだ。彼は皆実町の高校の寮で朝食をとっている最中に被爆したが、全壊した食堂の残骸を押しのけて、やっとの思いではい出した。顔に深い切り傷を負っていた。その夜は近くの蓮畑で野宿したという。(被爆した夜、野宿していると)高校生の集団ができて、夜空になおも赤い炎をちらちら見せている市の中心部を見つめながら、私たちは時折元気づけに寮歌を歌っていた。ふと私は、京都帝国大学で物理学を専攻し、荒勝教室にいた義兄が、物知り顔に話していたのを思い出した。マッチ箱一個の大きさで、戦艦一隻すっ飛ばす爆弾があるんやデ。原子爆弾言うんや」

B29一機か二機の爆撃で、これほど広範囲に被害を与え得る爆弾は、原子爆弾以外にないのではないか。そのことを持ち出したが、居合わせた化学を教えるH先生は、きっぱりと否定した。

「理論的には可能じゃが、いくらアメリカだって、まだそこまではいっとらんじゃろう」

けれどもやはりあれは、世界で最初に人類の上に落された、一発の原子爆弾だったのである。

これまた呉鎮守府の三井大佐の「京大荒勝研究室(海軍)ニテ行ヒアルモ」と符合する。物理学者の間では、弁当箱とかマッチ箱とか、その大きさこそ違え原子爆弾は公然と語られていたようだ。(引用注:日本の原爆研究は理論的な話に」留まっており、実際の爆弾製造からは遠かったことがわかる)


いま一人は私の中学、高校で二年先輩の水田泰次さんだ。二〇〇〇年八月発行の同人誌の中で、やはり「広島に原爆が落とされることがわかっていた」と次のように書いている。

当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される三カ月前の一九四五年五月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行なう予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした水田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、水田さんはこう言う。

西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物理の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ」

独自ルートで考えられるのは『もはや高地なし』の一節だ。原爆投下の約半年前の一九四五年初めごろから、一部の米学者の間から「原爆使用反対」の声が出て、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所だった。アーサー・コンプトン所長を中心に政治家や軍関係者に対し、さまざまな反対運動を繰り広げたようだ。その様子は「届かなかった原爆使用反対の声」という項目で詳しく紹介されている(同書一一一ぺージから一一九ぺージまで)。六月四日には「同研究所で対日原爆使用を阻止しようとして七人の科学者が会合を開いていた」とあるが、結局反対の声は通らなかった。

シカゴ大と京大、そして同じ冶金研究所と冶金教室。冶金つながりに不思議な符号がある。学者の間では、あの戦時中でもスイスあたりを経由して、日米間でひそかに情報を交換していたという話もある。終戦後、西村教授が亡くなったのち、水田さんは同教授のご子息に「生前、こんな話を聞いていましたか」と尋ねたところ、「そんな話は一切聞かなかった」という返事だったという。だが、水田さんは、今でも日米間の「冶金つながり」を信じている。

中条一雄 原爆は本当に8時15分に落ちたのか 第6章 原爆だと知っていた記者 p184-187より

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この本は題名より、上記の記述のほうが重いです。

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以下は、鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ 第一節 湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係 p153-162より

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私は中条一雄のこの後半部分を読んで、先輩の永田に原爆情報を伝えたのは、間接的ではあるとはいえ、間違いなく湯川秀樹であったと思うに至った。アーサー・コンプトン所長を中心に、「日本に直接、無警告による原爆投下をやめ、事前に知らせてからにしろ」という反対運動が燃え上がった(引用注:ちょっとは「科学者達」に良心があったと少しだけ安心させられます)。ジェームズ・フランクによる「フランク報告」にその内容が詳しく書かれている。しかし、私は本書が莫大な頁数になるゆえに、学者たちの反対運動に触れなかった。これらの運動は、結局、原爆製造・投下の最高責任者スティムソン陸軍長官によって潰されるのである。

中条一雄は「シカゴ大学と京大、そして同じ冶金研究所と冶金教室・・・」と書いているが、シ力ゴ大学の冶金研究所は、「原爆研究所」とは表現できないとのことからきた偽名である。イギリスの原子力委員会が「管合金」という言葉を使ったのと同様の偽名である。京都大学は、このシカゴの冶金という言葉に倣った可能が高いと私は思っている。

湯川秀樹は戦争が終了してから三年たった一九四八年に『原子と人間』という本を出版している。その中に「アメリカ日記」が入っている。一九三九年十月三日の日記を見ることにしよう(英文の部分は私が和訳した)。

  十月三日(火)晴 稍々寒し(シカゴ)
 午後零時三十分汽車はシカゴ・セントラル駅着、船山氏の自動車で直ちにクォーディラングル・ヒルに向ふ。船山氏は私が昨日帰って来るかと思って迎へに行ったり、又コンプトン氏はディナーを途中で打切ってスティーブンス・ホテルヘ行ったりした由。
 一時十分過ぎホールに行くとコンプトン氏は既に待って居られて昼食を共にする。実に親切な、真面目な、頼もしい人である。丁度食堂にはデンプスター博士、マルキン博士、アリソン博士も居て一緒に賑やかに話する。それからコンプトン氏の案内でシェーンその他の人のやっているバルーンにカウンターを乗せて飛ばす実験装置を見せて貰う。バルーンはうすいゴムで二二粁(最高)迄上る由。シェーンの最近の実験法は既にピス・レビュー(九月一五日)に発表されて居るが、ソフト・コンポーネント(柔核力)が最高の度合いになる高さまで中性子によって作られる強分子は柔核力に比例して増す。これを中性子がフォトンであるとするとよく了解できる。・・・

湯川秀樹はコンプトンの案内で各種の実験装置を見て回る。そして、二〇人ばかりの関係者が集まった会議室で講演をする。その内容を翻訳して伝える技術を私は持たないので以下は省略する。

私はこのときから、湯川のコンプトンや他の学者たちとの交流が始まったとみている。

渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』に戻ろう。

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渡部は「軍の機密に属することでもあり、早計に外部に洩らしてはならぬ」と書いているが、私が調べた範囲内で、日本の原子物理学の理論面での研究では、ある分野(中間子理論)では世界的水準に達してはいたと思えるが、どうも納得がいかない。日本の原爆研究で、アメリカにとって役に立ったものがあるとは思えない。

有馬哲夫が「月刊現代」(二〇〇八年一月号)で、「元CIA長官A・ダレスの『原爆投下阻止工作』の全貌」という記事を発表している。その中に、次のような文章がある。

  たしかにバーグは、ハイゼンベルクが一九四四年のクリスマスにスイスのチューリッヒにやってきて講演することを突き止め、現地に入り実際にそれを聴いている。だが、彼が一二月三〇日に本部に送った報告書には、ナチス側の潜在的原爆開発者としてハイゼンベルク配下の科学者の名前があげられているだけだ。ちなみにそこには「キクチ(菊他正当時大阪帝大教授)」、「ユカワ(湯川秀樹、当時東京(ママ)帝大教授)」の名前も言及されている。

私は、トマス・パワーズの『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』(一九九四年)を読み、ハイゼンベルクがたしかに、一九四四年のクリスマスにスイスのチューリッヒで講演をしている事実を確認した。

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しかし、このハイゼンベルクの生涯を追求した本の中に日本人の二人の原子物理学者の名前を発見できなかった。それだけではない。私はこの本を読み、ドイツの原爆は、他の本に書かれているのとは異なり、未完成であった、と思った。だから、私はドイツの原爆製造についてほんの少ししか書かなかったのである。

それでも、湯川秀樹には疑問が残る。ノーベル物理学賞受賞の理由は、彼の「中間子理論」による。この理論は仁科芳雄とその弟子たちが湯川秀樹に先んじて構想し、理論化しつつあったものであった。たしかに小沼進二編『湯川秀樹日記』(二〇〇七年)を読むと、湯川秀樹の中間子理論への情熱のすごさがうかがえる。
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彼は仁科芳雄たちに先んじて英文で書き発表した。アメリカの物理学者は彼を自国に迎えた。全米各地の大学で湯川は歓迎される。その様子を彼は「アメリカ日記」の中に書いている。

湯川は日本海軍の依頼を受けて、原爆研究に着手した京都大学の荒勝教授のもとで、理論面での原爆開発に協力している。私はこの理論面での原爆研究のデータがシカゴ大学のコンプトン研究所に何らかのルートで流れ、その見返りとして、広島に原爆を落とすというアメリカの極秘情報がコンプトン博士から湯川秀樹のもとへ伝わったと信じている。

小畑弘道の『被爆動員学徒の生きた時代』(二〇〇七年)から引用する。
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湯川秀樹が登場する。

  ところで、同じ市内にあった学校でも、農村部に疎開をしていて難を逃れたところもある。陸軍広島幼年学校と広島高等師範附属中学校である。
 前者は、将校生徒を育成する目的で全国六ヵ所に開設された学校で、広島幼年学校(「広幼」)は、一八九七年(明治三〇)に開校された。〔中略〕疎開は六月に行われ、四九期生と四七期生が高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に、また四八期生が甲奴郡上下町(府中市)に移住していた。生徒の総勢は六七〇名ほどであった。なお、疎開のことを陸幼では「転営」と言っていた。

「幼年学校」といっても、現在の中学一年から高校生にあたる生徒たちであった。彼らは、第二総軍の畑元帥の命を受けて六月に「転営」となった。「六月」に注目したい。広島に原爆が投下することがほぼ決定したときである。畑元帥のおかげで彼ら六七〇名は助かったが、広島高等師範附属中学を除いた学校の子供たちは、強制疎開という名の駆り出しを受けて死んでいったのである。ここにも畑元帥の奸計が読み取れよう。 続きを引用する。

  一方、広島高師附属中学校は千田町(現在の広島大学千田キャンパス付近)にあり、ここも爆心地から一・五キロであり、疎開をしていなかったら大きな犠牲が避けられなかったところである。附属中学の一年生一二〇人は賀茂郡原村(現在の東広島市)へ、二年生一二〇人は豊田郡戸野村(東広島市)、また科学学級は比婆郡東城町(庄原市)へと疎開した。疎開の名目は、一応「農村動員」としていた。このうち科学学級というのは、四四年二月にスタートした理数系に秀でた生徒を集めたもので、全国では東京、京都と広島にあった。戦況が厳しさを増すなかで、いわば速成で科学者の卵を養成しようとしたもので、湯川秀樹博士らの進言と軍の後押しで創設されたものである。生徒たちは動員に出ることなく、ずっと授業を続けていた。

私はこの小畑弘道が淡々と書く文章を読みつつ、『原爆は8時15分に落ちたのか』を読んだときと同じ思いを抱いた。「湯川秀樹は原爆投下について事前に知っていた」と。

そしてまた次のようにも思った。「彼は間違いなく、日本の原爆研究のデータをコンプトン研究所に流し続けていた」と。そしてまた次のように思った。「少なくとも仁科芳雄と2人で受賞するべきノーベル賞が、湯川秀樹単独の受賞になった」と。

馬場重徳(科学者)の「仁科芳雄功績調書」(一九四六年二月十一日の文化勲章授章のための功績調書として作成されたもの。日付不明)の中に「量子論に関する業績」が載っている(『仁科芳雄往復書簡集1 現代物理学の開拓』二〇〇六年)。

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  殊に阪大の湯川博士の中間子理論には当初より多くの関心を示した。この理論は昭和十二年、宇宙線中に予言されていた新粒子が発見されるに及んで、世界の学界の注目の的となったが、仁科博士は或いは研究室における宇宙線の実験的研究を以て協力し、或いは、関西と東京との理論的物理学者の会合を屡々主催するなど凡ゆる援助を惜まず、湯川博士の理論の完成に尽力した。

ロバート・K・ウェルコックスの『ジャパン・シークレット・ウォー』(一九九五年)がアメリカで出版された。
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あたかも、日本が本格的に原爆製造に着手しているかのごとくに書いているが、丁寧に読むと、その製造がマンハッタン計画に比して、全くの初歩的なものであったことが分かるのである。次のように湯川秀樹について書いている。

  荒勝は才能のある研究者のグループを持っていた。特に、一九四九年にノーベル物理学賞を貰った湯川秀樹がそのグループの中にいた。湯川は一九三九年以降、核分裂によるエネルギーの計算をし続けていた。湯川は世界での理論物理学の分野で有名な一人であった。荒勝はそんな湯川を彼の意のままに使ったのである。

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ウェルコックスの本の中に、海軍が京都大学の荒勝研究室に与えた研究費は一五〇〇ドルであったと書かれている。マンハッタン計画は二〇億ドル以上の金が使われた。この点から見ても日本の原爆製造物語は書く気にもなれない。しかし、戦後、湯川は原爆研究に関係したとは一切語っていない。彼は都合の悪いことはすべて封じ込めてしまった。

この頂の終わりに、湯川の戦後の活動について書いておきたい。

湯川は、朝永振一郎、坂田昌一との共著『核時代を超える』(一九六八年)の中で次のように書いている。

  世界平和を念願する人たちの活動の仕方は多種多様であった。しかし、それらの人々の出発点は同じだった。原爆投下、それからまた水爆実験があたえたショックは強烈であった。核兵器を廃絶し戦争を廃絶しなければ、人類の前途は暗黒だと直覚したのである。非常に多くの人々に共通するこの直覚を、最も簡明率直に表現したのが一九五五年のラッセル・アインシュタイン宣言であった。それは人類の良心の叫びであると同時に、新時代に処すべき人間の良識の具現でもあった。この宣言は、その最後において世界の科学者および一般の人たちに次の決議に署名するように呼びかけた。
 「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしていくという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的手段をみいだすよう勧告する」
 このラッセル・アインシュタイン宣言の呼びかけは無駄ではなかった。当時ほとんど不可能と思われていた東西両陣営の自然科学者の討議の揚が出現した。それが一九七五年の第一回パグウオッシュ会議であったのである。

カナダにあるパグウォッシュという名のホテルは、「死の武器商人」であるサイラス・イートンが持ち主である。
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この会議は、朝鮮半島、ヴェトナム戦争で武器を売りまくり、巨万の富をつくった男が主催した会議である。


この会議の最後には巧妙な〔仕掛け〕があった。それはアイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンを、会議が「次期アメリカ大統領にふさわしい」と宣言したことである。

J・F・ケネディは核実験反対を唱えていた。ニクソンは核実験継続を唱えていた。バグウォッシュ会議は続けられていくが、その費用は、あの原爆を広島と長崎に落とした連中が出し続けたものであった。

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同じ湯川、絹永、坂田共著の『平和時代を創造するために』(一九六三年)の中で湯川は次のように書いている。

  それなら、その他の条件とは何か、また最終目標は何かという点になると、ラッセル・アインシュタイン宣言は、はっきりしたことは何もいっていない。ラッセルもアインシュタインも共に早くから世界連邦主義者であったから、おそらく両氏とも心の中では、最終目標として世界連邦のイメージを描いていたと思う。しかし多くの科学者の賛成を得るためには、そこまで飛躍しない方がよいだろうと判断したのであろう。私自身も世界連邦の理想には以前から大いに共鳴しているが、科学者の会議でそれをはっきりとだしてよいかどうかについては、いろいろと問題があったと思う。

この本は一九六三年に出版された。湯川は生涯、世界連邦主義者として活躍した。

私はこの世界連邦主義を唱えた連中が、国際金融寡頭勢力から操られた人々であることを研究し尽くしている。その詳細は省くが、バートランド・ラッセルも、アルバート・アインシュタインも、原爆を日本に落とした金融寡頭勢力、ロックフェラー、モルガン・・・等の"雇い犬"であったと書いておく

世界を一つの政府が支配するという思想ほどに恐怖に満ちた思想はない。原爆を落とした奴らは、この思想を平和思想という。私は平和とか平和主義とかいう言葉を嫌悪する。この西洋からたれ流された「ピース」を拒否する。私たちは汚れちまった「平和」という言葉に代わる、新しい思想を打ち立てて、世界連邦主義者たちに立ち向かわねばならない

湯川は自分が原爆製造に関わったことをすっかり忘却し、ひたすら壇上から、平和主義と世界連邦を唱えた。

広島と長崎で死んでいった人々よ、広島と長崎で被爆し苦しみの中に生きていく人々よ、汚れちまった「平和」という言葉に代わる、ほんとうに美しい言葉を生き残った私たちに教えてほしい。あなたたちが心の中で叫び続けた言葉をこの私に教えてほしい。私は今から、新しく、美しい言葉を探す旅に出よう。


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結局、一部の人間たちにはずいぶん前からわかっていた広島への原爆投下は、一般人にも一般軍人にも伝えられることはなかった。それどころか軍人にも学徒にも動員がかけられていた

「科学者」なるもの(特に日本の)について言えば、大いなる「専門馬鹿」で騙されやすく踊らされやすいのであろう。

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by oninomae | 2008-09-22 20:42 | ホロコースト  

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