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ミサイル商売

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うまいんかなー。



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参考

ロンドンは、コーカサスで第三次世界大戦の引きがねを引こうとしている(EIR)と。世界情勢のこの核心に日本民族有志は意識を集中すべき。 太田龍

更新 平成20年08月22日00時01分 平成二十年(二〇〇八年)八月二十一日(木) (第二千五百二十一回)

○「EIR」誌二〇〇八年八月十五日号、七十二頁「論説」
 「ジョージ・ソロスとロンドンの第三次世界大戦」

○この重要な論説は、 ブリテンの工作員(エージェント)、ジョージ・ソロスが、ロンドンの手先と成ってコーカサスで第三次世界大戦の引きがねを引こうとして居る。と、警告する。

○一九一四年=大正三年。 第壱次世界大戦が始まりつつあったとき、日本人の中で、ユダヤによって世界大戦が準備されて居る、と言うことに気付いたものは、上から下まで、右から左まで、唯の一人もいない。 

○辛うじて、のちの四王天延孝中将が、少佐の時代、第一次世界大戦期、フランス軍の観戦武官として、ドイツ軍との戦争に従軍して居たとき、
 
○同僚のフランス軍士官たちから、
 
  「これはユダヤが背後で動かして居る戦争である」
  「ユダヤは、この世界大戦を通じて、ユダヤの世界支配を推進しつつある」
 
 と聞かされた。

○との趣旨のことを、「四王天延孝回顧録」(みすず書房)の中で書いて居る。

○つまり、日本で、最初にこの第一次大戦の真相に気付いた人物は、四王天延孝(のちの陸軍中将)である。

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○四王天少将は、大正末~昭和初年には、既に、国際ユダヤによって、次の世界大戦は準備されつつある、と、公然、警告し始めていた。
 
○しかし、この四王天少将(のちに中将)は、陸軍上層部によって、 追放された。


○四王天延孝を追放したこの「陸軍上層部」とは、「四王天回顧録」によれば、 上原勇作陸軍元帥である。

上原勇作元帥は、若い頃、フランス留学中、フリーメーソンに加盟している、 と言はれている。

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○落合莞爾氏が「月刊ニューリーダー」に連載中の論文によれば、

○明治初年以後、左英ワンワールド秘密結社は、極秘のうちに、薩摩武士のトップクラスを直系のエージェントとして取り込み、

○日本の国家中枢と国策を動かした、と言ふ。

○そして、この系列は、大正、昭和初期に於ては、上原勇作(陸軍大臣、陸軍参謀総長など歴任、陸軍元帥)引き継がれた、と。

○上原勇作元帥[1856.12.6-1933.11.8]は、満州事変[1931.9.18-1933.5.31]前後には、死去した。

○そのあとは、不明である。

○第二次世界大戦は一九三九年に開始された。

○この時期には、第一次大戦前とは異なり、少数とは言え、断乎として、反ユダヤ反フリーメーソンと戦う思想戦線が確立され、

○死力を尽して日本国民に、ユダヤが、第二次世界大戦を演出しつつある!! と、警告した。
 
○今、まぎれもなく、イルミナティ世界権力によって、第三次世界大戦が演出 されようとしているとき、

○状況はどうなのか!!

○我々は、死力を尽して日本国民に対して、イルミナティ世界権力が全人類を第三次世界大戦に狩り立てつつある!! と警告しなければならない。

 (了)

上原勇作陸軍元帥直属の陸軍特務、吉薗周蔵の手記に注目する(落合莞爾「ニューリーダー」誌連載) 太田龍

投稿 平成16年02月28日00時42分 平成十六年(二〇〇四年)二月二十七日(金) (第八百六十七回)

○月刊「ニューリーダー」誌に、落合莞爾氏の「陸軍特務吉薗周蔵の「手記」が連載されて居り、平成十六年三月号で、九十七回目。

○「吉薗」の「薗」は、滅多に使われない漢字で、その読み方が分らない。○一応、薗(その)、吉薗(よしぞの)、と読んで置く。○筆者は、この連載を、途中から読み始めて居るので、この吉薗周蔵、と言う人物の素性が分らない。

○平成十六年三月号(「ニューリーダー」)の第九十七回目によると、

 周蔵の祖母、三居こと吉薗ギンズルが、昭和六年、九十一歳で亡くなった。このギンズルは、天保十二年(西暦一八四一年)生れ、そして、このギンズル女は、元帥上原勇作の叔母にあたる、とある。

○上原勇作陸軍元帥は、薩摩藩の最後の大物、として知られて居り、大正昭和初期、日本陸軍、ひいては日本の国家中枢の実力者の一人。

○吉薗周蔵は、この上原陸軍元帥直属の「陸軍特務」であったと言う。

○この関係は、吉薗周蔵が、上原の親戚であったことに由来するものであったわけだ。○吉薗ギンズルは、薩摩武士、四位次兵衛の娘に生まれ、宮崎の郷士吉薗家の養女に入り、京都で、下級公家、堤哲長の子、林次郎を生む。 林次郎の長男が、周蔵。○ギンズルが上原勇作の叔母、とあるが、そのギンズルが世話をして、吉薗周蔵は、上原元帥の特命を帯びて、大正昭和前期、秘密諜報工作活動に従事して居た、と言うことである。

○その吉薗周蔵は、死後、克明な日記を残した。

○周蔵の死後、遺族がそれを大切に保管して居り、落合莞爾と言うひとが、吉薗家の許可を得てそれを閲覧し、それをもとに、「ニューリーダー」誌に長期連載中、と言う次第である。

○これで、吉薗周蔵と上原元帥との長期に亘って続いた特別な関係の意味と根拠が、腑に落ちた。

○吉薗周蔵と言う人物のこうした役割からすれば、その名前その業績が、全く、人目に触れず、知られることもなく、まして公式の歴史、マスコミ報道には、全く登場して来なかったのも、当然であろう。

○注目すべきことは、落合莞爾氏が、吉薗周蔵手記にもとづいて、上原勇作陸軍元帥は、ユダヤ陣営の人物であることは疑いの余地なし、そして、米国留学時に、フリーメーソンに入会加盟して居たことも確実である、として居られる、その説である。

○改めて、この「陸軍特務吉薗(よしぞの)周蔵」問題に焦点を当てる必要を認める。

 (了)

上原勇作 大正~昭和の日本を裏から操った男
http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/uehara.htm


●軍部や政治の表舞台にほとんど出てこない上原勇作ですが、周蔵手記によると大正~昭和にかけて軍部を裏から操っていたのが表向きは「昼行灯」を装い回りを欺いていた上原勇作であった事が明らかになりました。

●また、大正政変の時には親密であった田中義一/宇垣一成との確執がやがて昭和になってからの統制派、皇道派の抗争へと繋がっている事も明らかになりました。

●上原勇作の配下としては、石光真臣[1870-1937]、真清[1868-1942]兄弟、甘粕正彦[1891-1945]、貴志彌次郎、久原房之助[1869-1965](引用注:2,26事件時、社会大衆党や共産主義者に資金提供したと言われている)など多数いますが、いずれも上原派とはされていなかった面々です。これも歴史を裏読みする上で興味深いことです。

(記述内容は、基本的に「ニューリーダー」の落合莞爾氏の記載によります)

1.略歴
2.二個師団増師問題
3.アヘンで肺壊疽を克服する
4.シーメンス事件
5.甘粕事件
6.シベリア金塊 (1) (2)
7.ユダヤ - フリーメンソン
8.中野正剛のシベリア出兵軍事費不正の糾弾
9. 張作霖爆殺
(1)一番困るのは田中義一
(2)広がる上原不信と藤田嗣治の帰国
(3)貴志彌次郎の苦悩


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 読書日記
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-2.html


(16)より

 吉薗家の伝承では、上原元帥は横浜正金銀行にも特殊な権力を持っていた。それが陸軍大将・荒木貞夫に受け継がれたようで、大戦が始まり為替が不自由になった中、フランス再渡航を希望する薩摩次郎八に頼まれた吉薗周蔵が、荒木閣下に頼んで為替を入手した、との記述がある。

 『横浜正金銀行史』は、「顧ふに本行は大隈侯の懇切な指導の下に、13年2月28日を以て世に生まれたのであるが、翌14年から15年に亘る財界の不振に際し、当局者の措置が宜しきを得なかったので、資本金半額以上の欠損を来たし、殆ど破綻に瀕したのを、松方侯の懇篤周到な指導の下に九死に一生を得て、今日の盛大を見るべき基礎を固めたのである。故に本行歴代の当局者は、大隈侯を生の母とし、松方侯を再生の恩ある養育の母として常に敬意を表し、尚今後も永くその恩を忘れぬであろう」として、大隈と松方の恩を挙げるが、西南戦争前後の財政を担ったのは、確かに大隈と松方であったから、当時誕生した同行が2人の世話になったのも当然である。鍋島藩士の大隈は、明治元年1月に徴士参与職・外国事務局判事に挙げられ、外国官副知事から会計官副知事に転じた。2年7月の官制改定で、会計官の後身大蔵省の大輔となった大隈は、民部・大蔵両方の事実上の統合を献言し、自ら民部大輔兼大蔵大輔として内省を取り仕切った。3年7月、両省は再び分離し、大隈は大蔵大輔専任となり9月には参議に補されたが、4年7月の官制改定に際し、大蔵省を大久保井上コンビに譲った。

by oninomae | 2008-08-21 20:57 | 戦争詐欺・紛争  

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