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アメリカ兵捕虜の予告 「八月六日、ヒロシマは焼け野原になる」

5 八月六日、ヒロシマは焼け野原になる

その日は、くちなしの花の強烈な香りが、まわりの木立からたちこめる、とても爽やかな日であった。

当時十二歳の少女だった木村ヨシ子さんは、あれから四十五年たった今でも、くちなしの花の香りをかぐたびにきまってあの日のことを思い出す。

当時、木村さんは、広島市の西部にある山あいの町に両親と姉二人、兄ひとりの六人家族で住んでいた。そして毎日、広島市内の女学校まで数キロある山道を歩いて通っていた。

昭和二十年七月の忘れられぬその日、木村さんの母親は、朝早くから山へラッキョウを掘りに篭を背負って出かけて行った。家には木村さんがひとり残って留守番をしていた。しばらくすると父親が、恐ろしい形相で帰ってきた。母親がいないことに気づいた父親は、激しい口調で母親の行く先を尋ねた。山へ出かけたことを伝えると「これはいかん。間に合うだろうか」と不可解なことをつぶやいて、慌てて出ていった。十二歳の少女は、何か大変なことが起こっているのを感じるだけだった。じっと家で待ち続けるうちに、兵隊が二人、家にやってきて、「山のなかへ入るので道案内してくれ」という。木村さんは、二人の兵隊と同道し、ふだんよく遊んでいる山道を奥へと入っていった。山の中を進み、やがて谷間に出たとき、なんともいえぬ異臭が不意に鼻をついた。ふと見渡すと周辺に大勢の大人が集まっている。兵隊はどんどん先へ進んで行く。遠目に一機の飛行機が横たわっているのが分かった。墜落して機首を山腹に向けた飛行機は、散乱することもなく、その原型をとどめていた。

当時、広島には、大がかりな爆撃こそなかったものの、頻繁に米軍機が来襲していた。昭和二十年七月二十六日、いつものように広島の上空に現れたアメリカ軍機のコンソリデーテッドB24、四機のうち一機が日本の対空放火によって撃墜され、広島市郊外の山中に落下した。

木村さんが見たものは、墜落したB24であったと思われる。十二歳の少女にとって、敵の飛行機を目のあたりにするのは、生まれて初めての経験であった。

「ずいぶんに大きなものだな・・・」

木村さんは恐る恐るその機体に近づいていった。機体の内部をのぞくと缶詰などが散乱するなかに搭乗員たちが横たわっていた。左手に赤い指輪をした女性とおぼしき搭乗員もいた。全員が息が絶えているようだった。木村さんは怖さも忘れ、しばらくその内部の様子に釘付けになっていた。

道案内から解放され、家にたどりついてから、どれほどの時間がたったろうか。大勢の人が、家の前を通っていく声が聞こえてきた。「なんだろうか」と表に出た木村さんは、二人の米兵を取り囲むように日本の兵隊たちが通り過ぎるのをみた。

撃墜されたB24の乗務員のうち、二人の搭乗員がパラシュートで脱出し、命をとりとめたのだ。その二人は、集まってきた警防団によって、その場で捕らえられた。そして、広島の歩兵第一補充隊から訳二十人の武装兵がすぐにトラックでかけつけ、その二人の米兵を連行した。この米兵たちのように、中国地方に来襲して、日本軍に撃墜された敵機はかなりの数にのぼり、また、捕虜になったアメリカ兵は、少なくとも二、三十人はいたと思われる。

一行は、その集落の旧家に入って行く。木村さんもその後を追って、その家の庭に入って行った。すでに大人たちが集まって、家の中の様子を真剣にうかがっている。家の中では、日本の兵隊による尋問が始まっていた。

尋問は通訳を通じて行われていた。ひとりは赤い髪、そしてもうひとりは、少し青みがかった灰色をしていた。

木村さんは、そのときにひとりの搭乗員が語った言葉を今でも忘れることができない。上手な日本語で、彼は確かにこういったのだ。

僕たちウソいわない。八月六日、ヒロシマ焼け野原になる


木村さん自身は、学校に通学する途中で被爆した。アメリカ兵捕虜の予言を聞いてから、その日、学校に行きたくなかったが、無理に自分の気持ちを抑えて出たあとのことだった。

米兵たちは、その後、爆心地に近い広島城祉にあった歩兵第一補充隊の営倉に収容された。

ここで木村さんと同様の経験をしたとの証言もある。
 
「このとき、出勤した兵士の一人である同隊医務班勤務の増本春男衛生上等兵は、その二人の捕虜の食事(米飯、ふかしじゃがいも、みそ汁)を運んだが、そのとき、腕などの擦過傷の手当(ヨーチン、塗布)もした。捕虜の二人は、航空兵とは思われないような青みがかった簡単な作業服を着ており、頭髪は茶褐色で短い兵隊刈り。一人は二十歳くらい、他の一人は二十六、七歳の若い兵隊で、何かおびえており、『おそろしい、おそろしい』という。通訳の見習士官が、『「捕虜になったから恐ろしいのか?」』とたずねると、『いや、ここにいたら死ぬるのだ。近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいては死ぬ』と答えた捕虜二人は二日間、同部隊にいて、その後は憲兵隊に渡されたようである。」(増本春男談『広島原爆戦災誌』)


(以下略)

NHK広島放送局原爆取材班 久保安夫 中村雅人 岩堀政則 『原爆搭載機「射程内二在リ」』 p87-90 より

アメリカ兵捕虜の予告 「八月六日、ヒロシマは焼け野原になる」_c0139575_2339136.jpg


++
握りつぶしたのは?

そればかりか、動員までかけている。なぜだと思いますか?

まさに原爆ホロコーストであった。

by oninomae | 2008-08-04 00:03 | ホロコースト  

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