マクロイ、ルー・ダグラス、アメリカン・サイアナミッド及び毒ガスコネクション by Clifford Shack
アメリカン・サイアナミッド社の社長だったウィリアム・ブラウン・ベルは、彼が1903年法曹界に入ることを許可されたのち、(マクロイと)クラヴァスの事務所の同僚であった。
ベルはのちに、ジョン・J・マクロイの義理の兄弟ルイス・W・ダグラス[1894-1974]を雇った。

ダグラスは財務長官ヘンリー・モーゲンソウによる予算についてのラジオ放送での演説に反対したのち辞任したところであった。
ダグラスは、一人の「心の底からの反ユダヤ主義者」で、モーゲンソウを非難した演説の後怒り心頭状態だった。
予算紛争後、F・D・ルーズベルトは財務省の次官ディーン・アチソン[1891-1973]を首にした。
父親に宛てた書簡の中で、、ルー・ダグラスは書いた。「政権は、アチソンという本当の手腕をを失った...そして[ヘンリー] ・モゲンソウという愚かさとヘブライ人の傲慢とうぬぼれを得た。」
ダグラスは、ユダヤ人を、共産主義者と並んで、「資本主義のシステムを破壊する陰謀の一部だ」と考えていた。 一度ならず、ダグラスは、彼の友人たちに「ヘブライ人の影響」について語り、ユダヤ人種に通ずるニューディール政策の過ちを非難した: 「それ[政府]がなした悪いことほとんどは、そこに跡づけることができる...」
ルー・ダグラスは、フェルプスドッジの銅資産の相続人で、彼の義理の(兄)弟マクロイがそうしたように、続けて、外交問題評議会(CFR)のディレクターになった。(訳注:フェルプスドッジ社は2007年より、Freeport-McMoRan Copper & Gold、略すとフリーポート社となっています。これは、重要なポイントですね)
ダグラスは、ルーズベルト政権を辞職した後、彼の義理の兄弟の[ジンサーの]家で、マクロイとともに数週間を過ごした。
その後、 ( 1934年10月に)、ヨーロッパに渡航し、ロンドン、パリ、ブリュッセル、フィレンツェ、ローマ、イタリアの丘の町を訪問した。
ウィリアム・B・ベルやその他のサイアナミッド社の代表達とのいくつかの会談後、帰国するや、ダグラスは同社の副社長兼ディレクターを務めることに合意した。
(訳注:一般のユダヤ人が利用されていた構図が見えてくる)
パラマウント・ピクチャーズからより多くの報酬を提案される一方、ダグラスは、彼は「活動末端にいる種の人々には満足」できないだろうと決心した。
父親への書簡の中で、彼はサイアナミッドを「クリーン」で成長している、上品なクエーカーによって率いられた企業であると説明した。ベルはダグラスにその仕事を提供した。彼まだ、FDRの予算ディレクターだったのだが。
私にとってアメリカン・サイアナミッド社についてたいそう興味深かったことは、ラウル・ヒルベルクの本「欧州のユダヤ人の破壊」から学んだひとつの事実であった。
アウシュビッツのガス室で使用されていた毒ガスは、その商品名がチクロンBという、殺虫剤だったということだ。 (訳注:なんに使っていたにせよこういう繋がりはあったわけだ。アウシュビッツでの毒ガス室はよくわからないわけだが、同じくポーランドのマイダネク強制収容所では、実際にガス室があったらしい。マイダネクのものを見れば、「アウシュビッツにもあったが、ドイツ軍撤退時に破壊された」との説も、本当である可能性もある)

A stockpile of Zyklon-B poison gas pellets found at Majdanek death camp in 1944.



そのチクロンは、2つの会社によって作られていた: デッサウアー・ヴェルケとコリンのカリベルケである。イー・ゲー・ファルベンの工場(ウェルディンゲン)はチクロン用の安定化剤を生産していた。そのガスの販売はデゲッシュ社によって支配されていた。デゲッシュ社は1929年時点で、アメリカ企業サイアナミッドと世界市場を二分していた。
イー・ゲー・ファルベン社はデゲッシュ社の42.5%を所有していた。
私にとって、さらにほかに興味深かったのは、ルイス・ダグラスの伝記からの以下の抜き出しであった。
元記事は
20.McCloy, Lew Douglas,American Cyanimid(American Cyanamid ?) & The Poison Gas Connection
http://www.geocities.com/cliff_shack/mary/mary20.html

by oninomae | 2008-06-01 01:09 | イルミナティ