大地震:もう一度おさらい 追加:常温核融合公開実験成功!
地震の分布。色は地表からの距離;黄:地表~地下25km、赤:地下26~75km、黒:地下76~660km
↑リヒター・スケールで震度7以上の地震の分布
大地震は足下に迫る。まったく予定通りだ。フールは救いがたいのである。
参考
日本人を皆殺しにせよ オルタ
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50571089.html
(前略)
この優生学研究所の創立者の一人、ウィリアム・ドレイパーが米国の戦争省長官=戦争の総指揮官として、広島、長崎に投下された核兵器の製造、「投下」責任者である。
ドレイパーは戦後、日米の軍事産業を「まとめ」、「日米兵器工業会」を結成し、ここが日本の自衛隊の持つ膨大な兵器、警官の持つピストル、日本への原子力発電所建設売り込みの「窓口」になる。
自衛隊という軍隊を持った日本が、中国、北朝鮮と戦争を行い、アジア人同士が大量虐殺し合い、原子力発電所が事故を起こし、日本人が大量に死ぬ事は、ドレイパーの優生学研究所にとっては、「極めて望ましい殺菌消毒」である。
いやー、気味が悪いですな。でも、本当だと思う。
時限爆弾を仕掛けられたのである。というか自己弱体化というか。大した不沈空母である。
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1850年9月12日 四川省、西昌地震、死者2万人
1923年3月24日 四川省で地震 - M 7.3、死者4,800人
1933年8月25日 四川省で地震 - M 7.4、死者6,800人
1973年2月6日 四川省、炉霍地震 - M 7.4、死者2,200人
1974年5月10日 四川省、大関地震 - M 7.1、死者1,400人
2008年5月12日 四川大地震 - M 8.0
1854年12月23日 安政東海地震(東海・東南海地震) - M 8.4、死者2千~3千人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号沈没。
1854年12月24日 安政南海地震 - M 8.4、死者千~3千人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数ヶ月間止まる。
安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で3,000回近く。
1855年11月11日 安政江戸地震 - M 6.9、死者4,700~11,000人
1923年9月1日 関東地震(大正関東地震。被害については関東大震災に記述) - M 7.9、死者・行方不明者10万5,385人(日本災害史上最大)。
1933年3月3日 昭和三陸地震 - M 8.1、大津波発生、死者・行方不明者3,064人。
1935年7月11日 静岡地震 - M 6.4、死者9人。
1974年5月9日 伊豆半島沖地震 - M 6.9、静岡県で最大震度:5、死者30人。
1978年1月14日 伊豆大島近海地震 - M 7、伊豆大島と神奈川県で最大震度:5、死者25人。
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これらのデータは、地震の年表(wiki) よりピックアップ
設計者からの諌言「浜岡原発は制御不能になる」 2005/04/15
http://www.news.janjan.jp/area/0504/0504145797/1.php
私(林信夫はペンネーム)は日本原子力事業株式会社(現・株式会社東芝)の社員として、中部電力浜岡原子力発電所2号機の設計に当たった技術者です。浜岡原発は基礎を固定する岩盤の強度が弱いという問題があり、当時、技術者たちは原子炉が地震に耐えられるようにいろいろ工夫をしましたが、いずれも耐震計算をしてみると「持たない」という結果が出たのです。それでも2号機の建設はそのまま進みそうでした。私はとても悩みました。そして、技術者の良心に従って会社を辞めました。周りの人たちへのささやかな「警告」になればと思ったからです。
それから30年余りが経ちました。今年1月には、浜岡原発の運転中止を求める署名運動が全国的に進められていることを新聞記事で知りました。中部電力が浜岡原発の大規模な補強工事をすることも新聞記事で読みました。ほんとうに恐ろしい事態が起こっているに違いありません。私はこの際、私の知っていること、私が経験したことを、すべて明らかにすることにしました。それが社会に対する私の責任と考えたからです。
2つのことを申し上げたいと思います。
第1は、浜岡2号炉の耐震計算結果は地震に耐えられなかった
第2は、直下型地震が起こると核燃料の制御ができなくなる可能性がある
ということです。
耐震計算結果は地震に耐えられなかった
私は1969年4月に東芝の子会社である日本原子力事業(株)に入社し、東芝鶴見工場で、原子炉の炉内構造物の設計に従事しました。上部・下部シュラウド(炉心隔壁)、上部・下部格子板、緊急冷却装置など核燃料を支える部分の設計です。
最初は東京電力福島原発2号炉、次に中部電力浜岡2号炉の設計を担当しました。設計者は計算担当者の指示にしたがって、炉内構造物をいくつかの部分に分け、その部分の重量など計算用のデータを提出します。そのデータに基づいて計算担当者が耐震計算をします。
浜岡2号炉の場合、設計者は100人近くいました。部門ごとの設計者代表が集められた会議の席で計算担当者から聞かされた話は「建屋と圧力容器について、いろいろ耐震補強の工夫をしてみたが、空間が狭すぎてうまく行かないので諦めた」ということでした。原子力発電所の建設は、建屋→建屋内の圧力容器→容器内のシュラウド、格子板などといった順に、安全性の許可を得ながら5、6年掛かりで進めますので、後になって補強のための空間がないとわかっても、それから広げることはできないのです。
私も私が担当していた核燃料集合体の上部の水平の位置を保持するための上部格子板の応力計算をしてみましたが、「完全につぶれる」という結果が出てしまったのです。
計算担当者の説明によると、浜岡2号炉が地震に耐えられない原因は次の2つです。
(1)岩盤の強度が弱いこと(福島は強かった)
(2)核燃料集合体の固有振動数が想定地震の周波数に近く共振し易いこと
ごまかしの再計算
そして計算担当者は、「対策」として、次の3つの方法で再計算すると述べました。
(1)岩盤の強度を測定し直したら強かったことにする(福島なみ)
(2)核燃料の固有振動数を実験値でなく米GE(ゼネラル・エレクトリック)社の推奨値を使用する
(3)建屋の建築材料の粘性を大きくとる(振動が減衰し易い)
つまりごまかしの計算をして、当初計画のまま押し通してしまうということです。
私はその直後の1972年7月に退社することにしました。会社の会議室で上司に辞意を伝えました。自分の席に戻ったときには、耐震計算結果のバインダーはなくなっていました。
私の退社後に耐震補強を行ったかどうかは私にはわかりません。しかし、浜岡1号機は配管破断事故とシュラウドの亀裂で停止中、2号機も亀裂の入ったシュラウドの交換が終わる(08年3月)まで停止と報道されています。私が設計に携わった頃から今日まで大きな地震もなかったのに、このように深刻な事態が起こっていることから推測すれば、中部電力は耐震のための設計変更はしないまま建設を進めたものと考えられます。
計算担当者が中部電力に内緒でごまかしの計算書を提出した可能性がないわけではありませんが、技術者が関係者に相談もせずに偽の計算書を出すことはまずあり得ませんから、中部電力は地震に耐えられないことを承知していたはずです。
浜岡1、2号機が造られた70年代初めには東海地震の震源域のど真ん中に位置していることがわかっていなかったという報道がよくありますが、もっと問題なのは原子力発電所立地について地盤強度の基準がなかったのではないかと思われることです。プレート境界や活断層の有無以前の問題として、なぜ、地盤強度の弱い浜岡に電発が立地したのか。基準さえあれば浜岡原発の建設は避けられたはずなのです。
退社して10年ぐらい経ったとき、大学院時代の研究会のOB会で、大手重機メーカーで原子力施設の仕事をしている後輩に会いました。「浜岡2号機は耐震が持たないので会社を辞めた」と話したところ、彼はたまたま浜岡2号機の圧力容器を担当していて「そう言われれぼあそこはちょっとした地震でもビンビン揺れます」と言っていました。これが大地震もなかったのに配管が壊れたり、シュラウドに亀裂が入った原因と思われます。
中部電力は、地盤および原子炉の建家、圧力容器、配管などに、震度計を設置して、地震時のデータを公表すべきです。そうすれば、すべてが明らかになります。公表できないとすれば、それは浜岡原発がいかに地震に弱い構造であるかを自ずと物語ることになります。
直下型地震が起こると核燃料の制御ができなくなる可能性がある
現在の原子炉の耐震計算は横波(水平方向の揺れ)に対してのみを行っています。しかし、阪神・淡路大震災のような直下型の地震では、縦波(上下方向の揺れ)も強く、建物がつぶれました。この縦波を原子炉について考えると、制御棒の挿入が不可能になり、原子炉は制御不能の状態に陥ることが考えられます。
ご存知のように、軽水炉(BWR型)原子炉の燃料集合体は使用済みになると、原子炉から引き上げられ、新しい燃料集合体に換えられます。これが簡単にできるのは、燃料が下部格子板の上に乗っているだけだからです。ただし、燃料集合体と燃料集合体の間を制御棒が動くスペースを確保するために、下部格子板の穴にはめこまれ、横方向には動かないようになっています。
メルトダウンの危険性
ここを直下型の大地震波が襲うことになると、大きな上下の振動と、水平方向の振動が同時に来ます。上下の振動が激しければ、燃料集合体は上に投げ出され、下部格子板から離れて宙に浮き、下部格子板は水平方向にも振動してますから、穴の位置がずれて穴に戻らなくなる可能性があります。したがって、強い地震を感知して、自動的に制御棒を挿入しようとしても、制御棒が核燃料集合体にぶつかったり、破損したりして、挿入できなくなる可能性があります。
原子炉が制御不能に陥れば、核反応は止まらなくなります。その後、液注、配管破断による炉内の水漏れ、緊急冷却装置の故障を経て、やがてはメルトダウン(炉心熔融)です。浜岡原発は世界に放射能を撒き散らす最悪の事態を引き起こす可能性があります。過去に設計に関わった者として、そのことを明確に申し上げます。
(林信夫)
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2008/5/23 <荒田吉明・阪大名誉教授が常温核融合の公開実験に成功されました! >
http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page284.htm
文化勲章受賞者で大阪大学名誉教授の荒田吉明先生が、本日2008/5/22(木)に固体内核融合(つまり常温核融合)の公開実験に成功されました。簡単に速報としてお伝えします。歴史的な成果といえます。
毎日、朝日、日経、日刊工業新聞、NHKなどマスコミも多数参加する中で行われた。
まず荒田記念館(大阪大学、吹田キャンパス)で40分ほど前段説明があった。これまで荒田先生の固体内核融合にいたる道のりなどが説明される。
次に、先端科学イノベーションセンターのインキュベーション棟C棟3Fにある荒田先生の実験室に皆が移動。
そこでHe4の検出と、熱エネルギーの測定が行われた。実験室は大勢の人でごったがえしの状態であった。
高分解能質量分析装置のモニターには、He4発生のスペクトルピークが明確に示されていた。
D(2)+ D(2)=He(4) + エネルギー ------①
ここで()内は質量数
He(4)の検出こそ、固体内でD(重水素)とDの核融合が起こったことを示す決定的な証拠である。
実験室の外には①式が貼られていた。
発生熱エネルギーに対応する温度差データも出力されていたが、核融合のみの余剰分がいくら出たかは後から詳しく解析しないとわからないだろう(化学熱を差し引かなければならないため)。
実験後、荒田記念館に戻り、主にマスコミ関係者による質疑応答があった(我々一般人も一緒にいた)。
記者の方々から積極的に質問が出た。難しい分野であるためか、とんちんかんな質問も含めて、何度も食い下がるように質問されていた。
常温核融合の権威である高橋亮人博士(大阪大学名誉教授)から「今回の結果は、ヘリウムがはっきり検出されたきれいなデータであったこと」が伝えられ、Congratulations!と高橋先生。拍手が沸いた。
あとで高橋先生に聞くと、①は正確ではないだろう、つまりく左辺は2個のDでなく、本当は四つのDが反応に関わっているはずとのことであった。それは、重水素がパラジウム内で正四面体の頂点に配置されたときのみ4個のDが中心点に向かって凝集し核融合が起こることを示唆する高橋理論による(TSCモデル理論)。理論面はまだまだ難しい状態であり、「しかし、たしかに起こっている!」と結果の方が先行しているのが常温核融合である。
今回の実験を簡単にいうと、パラジウム合金微細粉末に重水素D2ガスを高密度に充填 する。熱も何も加えずに充填するのである。その後、合金微細粉末の内部に侵入した重水素DがHe(4)に変化し、そのとき熱エネルギーが発生するという実験である。
非常にシンプルな実験系である。
熱もなにも加えずに重水素を充填されるだけなので、シンプルであり解析がしやすい利点がある。疑義が減る。
D2ガスとHe(4)の質量の差はわずかであるが、高分解能の質量分析装置でその差を捕らえることができる。今回、大きなHe(4)ピークのすぐ右横にD2の小ピークが出ているスペクトルを見ることができた。
これまで世界中で多くの人により、常温核融合現象が確かに起こっていることが実証されてきた。しかし、公開実験というところに、今回は大きな意味があると思う。
先生は1958年に熱核融合の公開実験に成功。50年後(2008)に今度は常温核融合の公開実験に再び成功された。
HotとCold の二つを成功されたわけで、歴史に残る偉業と言えよう。
「新エネルギー創生研究所」の創設を荒田先生は計画されている。早期の実現を希望しつつ、今回は本当に成功、おめでとうごさいました。
by oninomae | 2008-05-25 22:25 | 人工地震詐欺・地震