シティバンク/アスター/モーゼス・テイラー/ロックフェラー/ジェームズ・スティルマン by E・マリンズ
シティバンク/アスター/モーゼス・テイラー/ロックフェラー/ジェームズ・スティルマン by ユースタス・マリンズ
1812年にナショナル・シティ・バンクは、免許の期限が切れて消滅した合衆国銀行が業務を行なってきたその同じ場所でシティバンクとして業務を開始した。その多くが同じ株主であり、いまや彼らは合法的なアメリカの免許のもとで機能しはじめた。
1800年代の初期、シティバンクと関連したもっとも有名な人物はモーゼス・テイラー[1806-1882]であった。

テイラーの父は、アスター[ジョン・ジェイコブ・~、1763-1848、ドイツ生まれの毛皮商人.資本家、From humble origins in Germany, he emigrated to London and then to America following the American Revolutionary War. ]が購入者であるという事実を隠しながらアスター家の利益のために不動産を買う雇われた秘密代理人であった。
この方法で、アスターはたくさんの農場およびマンハッタンの将来性のある価値の高い多数の不動産を買うことに成功した。アスターの資金は毛皮の取引によるものであるという世評が立ったが、多くの資料は、彼もまた外国の財閥の代理人をしていたことを示している。

アスターは独立戦争前後の期間、英国に情報を提供し、開拓地にそって定住したアメリカ人たちをインディアンを煽動して攻撃し、殺すことと引き替えに、かなりの報酬を受け取ったとラルーシュは書いている(『麻薬株式会社』)。

支払いは現金ではなく、英国の対中国アヘン貿易の一定パーセンテージが与えられた。この有利なコネクションからの収入がアスター家の富の基礎となったのである。
父とアスター家とのコネクションのおかげで、若いモーゼス・テイラーが15歳で銀行の見習いとしての仕事を見つけることは容易であった。本書に登場する人物たちと同様、多くのアメリカ人が突然の信用収縮に見舞われ、破産しているときに、彼は最大の機会を見いだした。1837年にニューヨークの半数以上の企業が倒産した恐慌時に、彼は富を2倍にした。
1855年、彼はシティバンクの頭取になった。1857年の恐慌時にシティバンクは、多くの競争相手の倒産により利益を享受した。
ジョージ・ピーボディやジュニアス・モルガンのように、テイラーは投げ売りした株式を買い上げる際限のない資金源をもっていたようだ。デラウェア・ラカワナ鉄道の株式を一株5ドルでほとんど買ってしまい、7年後に240ドルで売った。モーゼス・テイラーはいまや5000万ドルの資産家となった。
1861年8月、南北戦争の開始と同時に、テイラーは連邦政府[北軍の政府]に資金を調達するための貸付委員会の委員長に指名された。
戦争の資金を調達するために、委員会は政府に500万ドルを12%の金利で提供するといって、リンカーン[エイブラハム・~、1809-65、第16代大統領]にショックを与えた。
リンカーンはそれを断り、合衆国財務省を通じて金に裏づけられた有名な「グリーンバック」[裏が緑色の法定紙幣]を発行して戦費を調達した。
(引用注:それでも)テイラーは戦争中に富を増やしつづけ、晩年に若いジェームズ・スティルマン[1850-1918]が彼の子分となった。1882年にモーゼス・テイラーは亡くなり、7000万ドルを残した。
1882年5月24日付けのニューヨーク・タイムズ紙は次のように述べている。モーゼス・テイラーは、1861年にはニューヨーク市の連合銀行(Associated Banks)の貸付委貝会の委員長であった。彼には2億ドル相当の有価証券が委託された。1861年に政府白身が戦争を遂行する手段を有していることを発見したのは、おそらく他のだれでもない彼のせいである。
彼の義理の息子パーシー・パインが跡目を継いでシティ・バンクの頭取となり、その時点でシティバンクはナショナル・シティ・バンクと改称した。パインは身体障害者であったために、銀行での役割を十分に果たすことができなかった。資本金のほとんどがモーゼス・テイラーの不動産だったので、銀行業務は9年間にわたって沈滞した。
ジョン・D・ロックフェラー[1839-1937、石油王]の兄弟であるウィリアム・ロックフェラー[1841-1922]は、その銀行の株主になっていたが、経過が気がかりであった。1891年に彼は、ジェームズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得した。


そして、その直後にナショナル・シティ・バンクはロックフェラーの石油収入の主要な貯蔵所となった。
ウィリアム・ロックフェラーの息子のウィリアムは、ジェームズ・スティルマンの娘エルシーと結婚し、ロックフェラーの別の息子のパーシーはスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
ニューヨークの銀行界の他の連中と同様、ジェームズ・スティルマンもまた英国とのコネクションをもっていた。彼の父ドン・カルロス・スティルマン[チャールズ・スティルマン1810-75]は、南北戦争時に英国の代理人および密航者としてテキサス州ブラウンズビルにやってきた。ニューヨークにおける銀行コネクションを通じて、ドン・カルロスは息子を銀行の見習いとしてはたらかせることができた。
1914年、ナショナル・シティ・バンクが新しく組織されたニューヨーク連邦準備銀行の株式の10パーセント近くを購入したとき、モーゼス・テイラーの2人の孫であるモーゼス・テイラー・パイン[1855-1921]とパーシー・パインはナショナル・シティ・バンクの1万5000株を所有しており、モーゼス・テイラーの息子のH・A・C・テイラーはナショナル・シティ・バンクの7699株を所有していた。
銀行の弁護士でシアマン・アンド・スターリング社のジョン・W・スターリングもまた、ナショナル・シティ・バンクの6000株を所有していた。
しかし、ジェームズ・スティルマンは4万7498株もしくは銀行の全株式25万株の20パーセント近くを所有していた(242-243ぺージのチャートⅠを参照:これは本で見て下さい)。
ユースタス・マリンズ 「民間が所有する中央銀行」 第6章 ロンドン・コネクション p177-180より
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by oninomae | 2008-05-10 19:27 | イルミナティ