コンゴ謀略:ルムンバ暗殺 by ジョン・コールマン
300人委員会は、常にあらゆる国の天然資源を支配しようと活動している。その立場はH・G・ウェルズやバートランド・ラッセル卿が繰り返し述べてきた。この姿勢がどこよりも強く実行に移されたのが、コンゴと南アフリ力だった。
ベルギー領コンゴとして知られたこの広大な国は、アフリカ第二の大国であり、数十年にわたって銅、亜鉛、錫、ゴム、象牙といった天然資源やカカオ、コーヒー、椰子油などの農産物を情け容赦なく搾り取られていた。ベルギー王レオポルドニ世はたびたび、「コンゴで価値あるものはすべて自分のものである」、と語っていた。確かにこれは正しかった。なにしろベルギー政府は、コンゴ国内の鉄道、鉱山、精錬所、力力オと椰子油の大農場、工場、ホテルなどすべてをダミー企業を通じて運営していたのだから。こういった企業は国王レオポルドニ世、つまるところは300人委員会が責任を持っていた。それが300人委員会の最上の政策だったのだ。
コンゴの労働者にはほとんど賃金はなく、手に入るものは無料の住居と医療手当と衣服というかたちがほとんどだった。300人委員会の政策、そのすべてが脅威に曝されたのは、パトリス・ルムンバ[Patrice Lumumba: 1925.7.2–1961.1.17]という名の野心に燃える政治指導者が、1959年にベルギーによるコンゴ支配に反対する民族主義政党の結成を宣言した時だった。

ベルギー当局はルムンバに「共産主義者」というレッテルをはり、国家の繁栄にとって危険であるとした。ルムンバは逮捕され、やがて釈放された。だが実際にはルムンバには共産主義との関連はなく、コンゴ国民の生活向上のために努力していただけだったのだ。
1960年ルムンバが、ベルギーからの独立を要求したことから大規模な暴動が起こった。ルムンバは国際連合と合衆国に援助を求めたが、これは拒否された。ルムンバは米国務省から「マルキストのような言い回しをもてあそぶ男」と言われたが、国務省がその主張の証拠を提出することはなかった、ルムンバの驚くべき弁舌の才能がコンゴ国民に強い印象を与えていた。そこで300人委員会は、いよいよルムンバを放ってはおけないと、注目し始めるようになった。
1960年8月、犯罪歴のあるふたりのCIA局員がアレン・ダレスから、「3ヵ月以内にルムンバを殺害せよ」という命令を受けた。
ルムンバの弁舌の才能はコンゴからのCIAレポートにも特筆され、併せてそのレポートには、「共産主義と繋がっている疑いあり」と書かれていた。翌月、CIAは細菌学者のジョゼフ・シュナイダーを、ルムンバ暗殺用の殺人ウイルスの小瓶が入った外交官郵袋とともにコンゴに送り込んだ。ダレスは、アイゼンハワーと相談したうえでルムンバ抹殺の命令を下したが、シュナイダーの運んだウィルスが使われることはなかった。ルムンバが常にその居場所を変えていたからだ。
情報活動を監督する上院委員会(フランク・チャーチ議長)は、「CIAがルムンバの死を望む分子と連絡を取っている」と報告した。チャーチ報告によると、それはベルギー政府高官らしかった。
生命の危険を感じたルムンバは国際連合に保護を求めたがそれも拒絶された。いやそれどころか国際連合によって自宅に軟禁されてしまったのである。
しかし彼は弟が手配した車で何とか脱出し、妻と子どもひとりを連れて、支持の高いスタンレーヴィルへと逃げ込んだ。
CIAの1960年の報告には、CIAがコンゴ軍に適切な道路封鎖の場所や方法を教えてルムンバ再逮捕を援助した様子が記されている。彼の捜査を監督したのは300人委員会が指名した傀儡指導者、ジョーゼフ・モブツという男だった。ルムンバは、モブツの放った面々によって1960年12月1日に捉えられ、1961年1月17日まで拘留された。
1961年2月12日モブツは、ルムンバは拘留されていた遠隔地の建物から逃走し、彼を恨んでいた部族の者に殺されたと発表した。
だがCIAのジョン・シックウェルは、死体の処理が決まるまでのあいだ「CIAの局員がルムンバの死体を車のトランクに積んで走り回っていた」、と発言した。
正確に何があったのかは一切明らかにされていない。しかし国際連合の報告では、ベルギーの二人の傭兵、ホイガン大佐とガット大尉が殺したことになっている。米司法省は、“ルムンバ殺害にCIAが関与したことを証明するものはない”と結論し、調査を打ち切った。
続・300人委員会 欺瞞の外交 by ジョン・コールマン 第10章 300人委員会暗殺局を解剖する より
(p315-318 からの抜粋)




同 「欺瞞の外交」 イントロダクション 私の大切な読者に(1999年) より 冒頭部分 p14-17抜粋
●フリーメーソンも300人委員会の細胞の1つにすぎない
私が本書をしたためたのは1993年だ。しかし現在1999年の時点で、この導入部をつけ加えておくことは意味があるだろう。
私は長く諜報の社会に生きてきた。この冷徹な世界では、物事を鵜呑みにするようなことでは生きていけない。この教訓は私の骨の髄までしみ込んでいる。またこの社会は一つの情報を確認するために、途方もなく地味で根気のいる、しかも時には命さえ危険に曝してまでの作業を必要とする世界なのだ。しかしこの慎重さは私のもう一つの社会、つまり学問の分野においても重要なものである。
だからこの本を手にする方は、安心してくださっていい。なぜなら時に世間をにぎわすような、ニセ情報は一切含んでいないのだから。私が発表する文章に、個人的な感情や主観は入れていない。ここに記した事物はすべてウラをとった現実である。ただ辛いのは、この現実が余りにも凄絶なものであるということなのだが・・・
このような私の作業の副産物は、今まで常に嘲笑と憎悪に満ちた攻撃の連続であった。しかし私の心の支えとなったのは、家族と少数ながらの真実を熱望する読者である。彼らの暖かい眼差しとその期待に、私は『300人委員会」以来、再び応えたいのである。
私自身のことから始めよう。
私は、1935年英国に生まれた。やがて西アフリカのアンゴラで諜報機関の将校として激務をこなす毎日を送ることになった。しかし、かの地で一連の「機密文書」に遭遇したのである。これら超極秘文書類の内容は、後に私が世間に公表することになる「300人委員会」のさまざまな謀略を描き出して余りあるものであった。
その時私は固く心に誓ったのだ「英米両国政府を支配管理する、この超権力機構を闇の世界から陽の当たる世界へと引きずり出してやる」、と。しかし必然的に、その後の私の人生は苦難と困窮、忌まわしい脅迫を日常とする圧力に満ちたものとなった。
1969年にはアメリカに移住した。しかし私を取り巻く悪意に満ちた状況は、まったく変わることはなかった。ただ、この地であらためて思い知らされたのは(実はどこの国もそう変わらないのだろうが)、国民の多くがローマクラブ、ドイツ・マーシャル財団、円卓会議、フェビアン社会主義者、ヴェネチアの黒い貴族、地獄の業火クラブ、マルタ騎士団等の、真の使命どころかその名前すらもほとんど知っていないという現実であった。
その理由は、当然といえば当然かもしれない。「いつも真実を国民に知らせるのが自分たちの使命」などと言うマスコミもまた、彼らと同じ穴のムジナだったからである。彼らが、「これらの組織が三〇〇人委員会の下部組織であり、日々このような謀略を行なっている」などとわれわれに伝えるはずは絶対にないのだから。
しかし、読者の中には「自分はマスコミで働いているが、そんな話は聞いたことがない」と、反論される向きもあろう。私はその方には「あなたの言葉が真実であるなら、それはまだあなたが残念ながら(!?)『メディアの中枢」にまで到達なさっていないからです」とお答えしたいと思う。
つまり、そのような方々はまだ巨大情報機関の手足にすぎないのである。これらの組織では、中枢つまり頭脳と手足との差は隔絶しているという現実があることを、まずわれわれは認めなければならないのである。歴然としたヒエラルキーがそこにある。
これは何もマスコミに限ったことではない。「平和友好団体」をよそおったフリーメーソンやロータリークラブなどでも同様である。上位の者は下位の者を掌握できるが、下位の者には上位の真意や奥の院など到底伺い知ることはできないのである。
さて近年では私以外の国際問題研究者たちも、王立国際問題研究所(RIIA)や外交問題評議会(CFR)、日米欧三極委員会(TC)、ビルダーバーグ・クラブなどに触れて、著作を次々と発表し始めるようになった。ただ、それらの研究成果の多くは、これらの国際的組織が単独で謀略を行なっているかのような内容なのである。このレベルではとても真相解明にはおぽつかない。
これらは独立した組織ではない。300人委員会という「頭脳」の下、磨きぬかれ整備された命令指揮系統に貫かれているのだ。それぞれがバラバラで、自由気ままに行動しているわけではないのである。
本書で私は国際的な謀略を次々と指摘し、また真相究明のメスを入れている、それらの謀略が堂々と、そして着々と日々実行に移され、これら組織間では何ら利害の衝突が起こらない現実を、彼ら研究者たちはどのように答えるつもりなのだろうか。
新版 300人委員会[上] 支配される世界 ジョン・コ-ルマン ・太田龍 成甲書房 2008/07出版
新版 300人委員会[下] 陰謀中枢の正体 ジョン・コ-ルマン ・太田龍
成甲書房 2008/07出版
by oninomae | 2008-04-10 20:12 | 政治詐欺・政治紛争