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ルイ・ロスチャイルド男爵の逮捕  by Clifford Shack

また、ちょっと昔の「NAZI」に戻ってみましょう。

ルイ・ロスチャイルド男爵の逮捕  by Clifford Shack

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ヒトラーは、ドイツの災難がユダヤ人の国際的銀行家に起因すると非難した。当然のことながら、彼は、ロスチャイルド家に対する特別の憎しみを持ち続けた。かれらが、首魁のユダヤ人国際銀行家だったために。 1938年、ドイツ軍はオーストリア国境を越えた。 ヒトラーがついにロスチャイルド家ウィーン支店長のルイ男爵を逮捕する機会を得たときのヒトラーの喜びは想像を絶する。

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男爵は、耳を引っ張られ彼の邸宅から引きずり出されたか?慈悲を求めて、蹴ったり叫んだりしながら?

彼は殴られたか?

ロスチャイルドは、単にその場で撃ち殺されただけだったか?あるいは、単に最寄りの強制収容所にさっさと連れ去られたのか?そこで彼は、なんらかの身の毛もよだつ、ゆっくりとした、拷問的な、言いようのない死に遭遇したのか?


からかってるの? ヒトラーはなぜそれを行ったのだろうか? 彼はロスチャイルド一族を愛していた! 彼は、身も心もかれらに仕えていた! 「大うそ」民話に疑問を投げかける時である。

かつてアドルフ・ヒトラーは言った。「嘘が大きければ大きいほど、人びとはよりいっそうそれを信じるだろう。

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その嘘を解明するため、次の突飛な質問を考えてみよう。 (訳注:今では日本でもあまり突飛とは思われなくなってきただろうが)

ロスチャイルド一族は、実際にヒトラーの秘密のスポンサーだったのか?

ヒトラーは、ロスチャイルド家の秘密の非嫡出の息子だったのか?

ヒトラーは実際に、ロスチャイルド銀行のウィーン支店のかつての頭取、サロモン・マイヤー・ロスチャイルド男爵の孫だったのか?

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もし本当なら、ヒトラーとルイ男爵はいとこだということになる。

この隠された関係は、ゲシュタポの「ショーとしての」ルイ・ロスチャイルド男爵逮捕を、確実に軟化させただろう。 以下に、その興味深い逮捕の説明がある:


ロスチャイルド家 :家族の肖像   フレデリック・モートン著
第9章 ヒトラー対ロスチャイルド からの抜粋

・・・ドイツ軍は国境に集結しつつあった。男爵のような地位にある人は、多くが旅に出ることに心をひかれていた。弟のオイゲンは、自分のパリの邸宅に移り、兄のアルフォンスはスイス国境を行ったり来たりしていた。しかしルイは、オーストリアの首都に腰をすえていた。

静かに、彼は運命のマントを、元気よく自分の肩にかけていた。彼の秘書たちは、レン通りの事務所の絹ばりの部屋で、せっせと働いていた。いささか説明しかねるのだが、銀行は従来にまして活気にあふれていたことは事実である。水曜日ごとに、ウィーンの美術史館評議員が、男爵邸の朝食会にやって来て、男爵と二人でまだ一種のセミナーのようなものを開いていた。金曜日の朝には、毎週、興味ある新種を持って、植物園から教授が現れ、議論をしていた。日曜日ごとに解剖学研究所所長が、図表と本を持ってやって来た。週に二回は、リピッツァー種の立派な馬に乗っていた。競馬クラブの友人たちは納得しなかったけれど、毎日はいつもと変りなく過ぎて行った。ユダヤ人資本家の見本であるオーストリア・ロスチャイルド家の当主として、ロスチャイルドはヒトラー総統の嫌悪おくあたわざるところだった。何故彼はじっととどまっていなければならないのだろう?何故こんな危険地帯で敵の目標になろうとするのだろう?

彼の頑固さには、もっともらしい二つの理由が数えあげられる。そのいずれもが王朝的な理由だった。一つの理由は、ルイの事務所で音もなく運ぱれている秘密を守ることであり、秘密が明らかになるのは、数ヵ月経ってからのことだった。もう一つは明らかに公的な理由だった。一族の当主として、ルイはオーストリアの注目の的だった。逃げ出しそうな気配だけでも、すでに不安定となっている国家という船を、一層危なくすることになったろう。(いままでに数々の例にお目にかかっている通り)ロスチャイルド家の家長とは、第一に原則であり、人間であることは二の次なのである。

男爵の胸中にある冷静な完全主義の下で、原則は凍りついて信条となっていた。彼は国境近くに出かけることもなかった。オーストリア首相が、ベルヒテスガーデンの山荘にいるヒトラーのもとに呼びつけられたとき、ルイはオーストリア・アルプスでスキーを楽しむため、ウィーンを離れていた。一九三八年三月一日、フランス・ロスチャイルド家からの緊急警報を持った急使が、キッツビューヘルの宿のドアーを叩いたが、男爵はあわててチューリヒに向けて出発するようなことはしなかった。スキーをはずすと、それからウィーンにもどった。三月十日、木曜日、最後の警報がスイスから発信された。翌朝ドイツ軍は怒濤のように国境を越えた。国家という船は沈没した。原則の存在も、もはや国家を救うことはできなかった。土曜日の午後、ルイは従者のエドゥアールを乗せ、自分で車を運転してウィーン空港に向かった。二人の訪問先きは、表向きイタリアにいる男爵のポロ・チームのところだった。飛行機にごく近いバリケードで、SS(ナチス総統親衛隊)の一将校が男爵を見つけ、そのパスポートを押収した。従者が後日思い出して話しているのによると、
「それから、家にもどって待っていた」
長く待つことはなかった。その日の夕方、ロスチャイルド家の大邸宅の前にも、数百軒のユダヤ人の家と同じように、カギ十字の腕章をつけた男二人が現れた。

しかし執事は、逮捕というようなぷしつけなことに我慢がならなかったのだろう。まず男爵が在宅かどうか調べ、二分後に来訪者に告げた。
「男爵はご不在でございます」
エチケットの待ち伏せをうけて、肝をつぶした二人の刺客は、最初口ごもっていたが、そのうちに夜の闇の中に身を引いて行った。

だが、日曜日、二人は鉄兜に身を固めた命知らず六人を連れ、二度と上流社会のわなにかからぬよう、全員ピストルを構えてやって来た。今度は男爵が古参の二人を引見した。ちょうど時分どきだった。昼食をすませてからという条件で、同行してくれという要求を受入れた。鉄兜をかぷった者たちの間で、こそこそと話し合いがつづき、結局、
「よろしい、食事をとれ」
ということになった。

男爵としての豪勢をきわめた食事も、これが最後だった。食卓からニメートル足らずのところで、ギャソグどもはピストルをもてあそんでいたが、執事はおもむろに頭を下げた。お料理のソースの香が部屋いっぱいにただよった。男爵はゆっくりと食事をすませ、いつものように果物のあとでフィンガーボールを使い、さし出された綾織りの新しいナプキンでいつもと変ることなく手をぬぐった。それから食後の煙草を味わい、心臓の薬をのみ、翌日のメニューに目を通して、やおらピストルに会釈して出かけて行った。

その夜おそくなって、男爵は帰宅できないと判った。そこで未明に、従僕のエドゥアールは、特別製のベッドのシーツ、化粧用具一式、注意深く選んだ外出着と室内着、美術史と植物学の本数冊要するに、ちょっと厄介な週末のご招待をうけたときの身廻り品一式を揃え、紋章入りのピッグスキンの鞄につめて、すぐ警察本部に提出した。警察ではみんな大笑いで、従僕を追い帰した。

ところが、従僕のしたことから、ナチスの警察署長は、この逮捕者について一層興味をそそられることになった。ルイに対する最初の尋問は、わからぬでもないが、好奇心をただ満足させるだけのものだった。
「さて、そうすると貴方がロスチャイルドですね。正確なところ、貴方はどのくらいの金持ちですか?」
もし会計係全員を集め、世界の商品、証券市場についての最新報告をそろえてくれたら、数日の作業で適当な回答ができるでしょう、とルイは答えた。
「結構、結構、では貴方の大邸宅はいくらくらいの値打ちで?」
ロスチャイルドは、この詮索好きの紳士に、いつものようにちょっと面白そうに目をやって、
「ウィーソの大聖堂は、いくらの値打ちがありますか?」
きわめて適切な回答だった。
「問題外のことだ!」
署長は叫んだ。署長の見解からすると、自分が間違うことなど、まずなかった。

警備員が男爵を地下留置場にぶち込んだ。ルイは偶然同房となった共産党指導者との間に、砂嚢を運んで積み上げた。後日ルイはこの時のことを思い浮かべ、「われわれは、どちらかというとよい扱いをうけた。ここが世界で一番階級のない地下室であることで、二人の意見は一致した」と語っている。

さらに尋常でないことが次々と起こった。スイスにいるロスチャイルド家の支配人のところに、変な手紙が届けられた。筆者は、ウィーンのナチス警察と極めて親しい中欧の一流売春婦三人で、自分たち三人が身代金の交渉の仲介者になるという申し出だった。尋常ならざる交渉事には、昔から熟練しているロスチャイルド家である。それにしても余りに突然のことだった。しかしもし事態の進展上どうしても避け得ぬのなら、こんな相手でも妥協したことだろう。

ゲーリソグが「ハロー」という

四月末になって、ベルリンがこの逮捕者の重要性について、注意を払いはじめた。一夜、ルイは共座党員と砂嚢に別れを告げ、ウィーンのゲシュタポ本部に移され、罷免されたオーストリア首相の隣りの独房に入れられた。ルイの件は、地方警察の段階から、第三帝国の陰謀家の最高集団の手に移されたのである。いまや二十四人の警備つきだった。警備員は長靴をはき、ベルトをつけた「私設近衛兵」のようなものだった。ルイはひげをのばし、教授然として、地質学と杣物学を驚備員に講義した。そのため警備貝は無礼な言行をつつしむようになった。

高級売春婦につづいて、新しい使者がスイスに現れた。オットー・ウェーバーといい、ヘルマン・ゲーリングの私設顧問を勤めているグリッツバッハ構士の「同僚」であると名乗った。ここに至って誰が呼びかけをしているのかが、次第に明らかとなり、警戒はきびしいけれども、条件も徐徐にはっきりして来た。ゲーリソグ元帥の骨折に対して、元帥に二十万ドルが贈られること。ドイツ帝国がオーストリア・ロスチャイルド家の全残存資産、特にチェコにある中欧最大の鉄・石炭産出地のヴィトコヴィッツを入手すること。この二点が実行されるなら、男爵は釈放されるというのだ。

これは苛酷な条件だった。世界史上最高の身代金だった。しかしチューリヒとパリにあって交渉をしていたオイゲンとアルフォンスは、急所となる切札を持っていた。ヴィトコヴィッツは、オーストリア・ロスチャイルド家の所有となっているけれども、不思議なある魔術によって、英国の所有物と変っていた。一九三八年の開戦前に、ゲーリングの毒牙を逃れるため、手をうってあったというわけだ。

一九三六年から三七年にかけて――おそきに失するその直前に--レオの事務所を中心に、綱渡りのような秘策がめぐらされた。レオナード・ケージンクという老獪な銀行支配人の協力のもと、ルイは時価約五百万ポンドのヴィトコヴィッツを英国国旗で包んでしまったのだ。ロスチャイルド家に伝わる最高級の伝説の中でも、これはスリルと冒険に満ちた物語だった。

ルイ・ロスチャイルドは、どういうふうにやったのだろう?その地下工作は絶対的な一事実をスタートとした。このような巨大な規模を持つ工場の場合、政府最上層の合意なくしては、国籍変更は不可能だった。ヴィトコヴィッツがオーストリアの管理下にあることは、ウィーンがドイツの支配下に入ったとき、チェコに危険をおよぼすものである--一九三六年、まずチェコ首相が用心深い説得をうけ、納得させられた。同時に、オーストリア首相は、別の極秘の筋から次のよう通知を受けた。ヴィトコヴィッツがオーストリア国籍者の所有である限り、反オーストリア・反ドイツ的似向を持つチェコ当局が接収するだろうというのだ。こうしてウィーン、プラハの両政府当局は、相反する理由から、国籍の変更に同意を与えた。

次の問越は移籍そのものである--金融・法律上の、複雑かつ洗練された術策を行使することだった。ロスチャイルドはヴィトコヴィッツの大株主だが、独占しているわけではない。この事実をうまく利用することである。オーストリア系ユダヤ人の名門で、フォン・グートマンという名の一族が、少数株主だった。最近、大不況に悩まされ、負債処理のためにグートマソ一族は、保有株を手放さざるを得なかった。このためには、ヴィトコヴィッツの会社構成を改める必要があった。この再編成という見せかけの下で、数百万ドルの企業が、ついでに国籍変更をしたのだった。

しかしながらこの手品も、さらにそれ以上の用心なくしては、効果は無に等しかった。もしルイが、ロスチャイルド家の保有株を面接、英国籍の持株会社に引渡したなら、戦争が起こったとき、英国の「敵性国との通商禁止法」によって、ドイツに汚染された財産として没収を免れないだろう。一九三〇年代の平和時において、この点を見通したルイは、まずスイス、オランダの金融市場にちょっと廻り道させることとした。この二国は、第二次大戦中、中立国か、あるいは連合国となるはずであり、最終的な移籍はこの両国から行なわれた。

ヴィトコヴィッツはアライアンス保険会社の子会社となった。しかしアライアンス保険は、かつてもそうだったし、現在もまた、英国の法律の下に登記され、英国政府の保護をうける会社である。しかもヴィトコヴィッツを同社に売却したロスチャイルド家が、ほとんど丸抱えにしているロンドンの有名企業である。もちろんここが、事件全体のヤマであり、おもしろさでもある。

ナポレオンも、ピスマルクも、ロスチャイルドに対抗したが、空しかった。一番とはいわないが、ゲーリングは、確かに一族にとって手強い相手だったが、彼もそれだけのものだった。ドイツ帝国元帥ゲーリングも、ユダヤ人の陰謀だけでなく、ゲルマン民族の同志を前にしては、退却せざるを得なかった。ここでハインリヒ・ヒムラーが、無理矢理割り込みを開始したのだ。

ヒムラーが「ハロー」という

一九三九年初頭、ゲーリングの手先きオットー・ウェーパーが逮捕された。ナチスがロスチャイルド家からの戦利品をめぐり、共倒れの恐れのある衝突をさけようとしていることは明らかだった。ベルリンは総司令官を更迭した。ゲーリソグよりむしろヒムラーが、ドイツ側の身代金交渉の推進者のようにみえた。裁判官の異動ぐらいで動じることのない一族は、自分たちの条件を頑としてひっこめなかった。オーストリアにあるロスチャイルド家の通常の資産は、すべてルイの身柄の安全と交換されるが、ヴィトコヴィッツの管理権は、ルイ釈放後において、三百万ポンドで譲渡されるというのだった。

ベルリンは怒り狂い、脅迫した。実際、チェコ略奪後、ドイツ軍はヴィトコヴィッツを占領した。しかしドイツ人とヴィトコヴィッツの法的所有者の間には、英国国旗と国際法がまだ立ちはだかっており、ドイツの法律家も認めざるを得ぬところだった。

そこで調子を変え、新しい試みがなされた。ナチスの新聞が、ロスチャイルド一族を人類の敵として、いぶり出しにかかっている一方で、ルイの独房では奇妙な事件が起こった。ドアが開いて、ハイソリヒ・ヒムラーが姿を見せ、男爵に朝の挨拶をした。そして煙草をさし出し、何か欲しいものはないかとか、不平はないかなどと尋ねた。それから、どんなつまらぬことでも、両者の間にあるくい違いは、大物対大物として解決をはかろうといい出した。

男爵は生涯を通じて愛煙家だったけれども、ちょうどその時には、煙草を欲しいとは思わなかった。そのうけ答えは、普段よりもずっとそっけなかった。男爵は心配そうな男の顔を、冷たくじっと見つめていた。後になって男爵は、
「あの男は、ものもらいができていて、それをかくそうと努力していた」
といっている。ヒムラーは頭を下げて出て行ったが、それでも、ヴィトコヴィッツに対するロスチャイルド家の主張には、いささかの変化もなかった。

それからはがらんとしたルイの独房に、ご機嫌とりがつづいた。ヒムラーが出て行って一時間後に、ルイを警備する「近衛兵」の一隊が、ルイ十四世風の大きな柱時計を背負い、よろめきながら入って来た。ルイ十五世風の対になった大花瓶の片われ一つが運び込まれた。さらに留置場の簡易ベッドに、オレンジ色の厚いベルベットの力ーテンがかけられ、その上に色とりどりのクッションがおかれた。最後にはラジオを持ち込んだが、その台の部分には、絹のひだ飾りが、周りに縫いつけてあった。

ロスチャイルドを、自宅にでもいるような気分にさせようと、ヒムラーはしたのだ。それだけの効果はあった。醜悪きわまりない品々と向かい合いながら、何週間も冷静さを保ちつづけたルイも、とうとうかんしゃくを爆発させたのだ。
「それはクラカウの女郎屋のようだった!」
その後数年、ルイはこの思い出を何度かくり返して口にしたが、ルイには珍しい感嘆詞つきの発言だった。

男爵自ら、飾りをとったラジオは別にして、囚人の方が頑張るので、けぱけぱしい品はすべて撤去された。おそらくこの大失敗で、SSもあきらめる気になったに違いない。数日たった夜の十一時ごろ、ルイの警備担当責任者が、ロスチャイルド家の条件は受諾され、男爵は釈放されると発表した。

ルイは、お別れにあたって、獄吏たちを大あわてさせたが、これがSSへの返礼だったのだろう。友人の何人かに起きてもらうにはおそ過ぎるし、特に使用人たちはすでに床についているといって、朝になってから釈放されるよう、男爵は希望した。ゲシュタポの書類の中には、夜間宿泊申請の前例など、どこにもなかったので、ベルリンに長距離電話をかけ、協議しなければならなかった。ゲシュタポ本部でのルイの最後の夜は、無料サービスだった。数日して、ルイ男爵はスイスに着いた。それから二ヵ月後の一九三七年七月、ドイツ帝国は二百九十万ポンドでヴィトコヴィッツ買収の契約をした。

第二次大戦がその直後に勃発したため、この契約はとうとう履行されなかった。しかし専門的立場からいうと、ヴィトコヴィッツに対する英国の所有権は、今日においても適法とされている。政権の座についたチェコ共産党は、ヴィトコヴィッツを国有化した。しかし一九五三年、英国とチェコとの間で調印された通商協定の一条項には、接収された英国国民の資産に対する賠償請求は完全に履行される、とうたっている。接収資産の中では、ヴィトコヴィッツが一番高価だった。チェコ政府はこれを了解し、英国議会は、(アライアンス保険のような)英国の法人代理人が、(現在アメリカの市民権を持っているが、元オーストリア国籍のロスチャイルドのような)英国国籍以外の所有者のために、賠償を集めることを許す法律を通過させた。

いまなお世界最大の資本家の名をいただくロスチャイルド一族は、今日でも、共産党政府から賠償をうけとっており、最終的には総額百万ポンドに達するだろう。

竜が殺された後も、ルイは物語の王子のような生涯を送った。ウィーンの男爵はヤンキーの名士となり(もう地下鉄に乗ることもなく)、上品な独身者も、おそまきながら幸福な夫となった。一九四六年、オーストリア貴族のなかでも、最も魅力ある女性の一人である伯爵家のヒルダ・フォン・アウエルスペルクと結婚した。

ナチス崩壊直後の食糧不足の時期に、二人はオーストリアを訪間した。男爵がもどって来たという噂は、あっという問に拡がり、ホテルの外には人垣ができ、ロスチャイルドに食糧を乞うた。気前よくルイは群衆にパンを与え、オーストリアに残した財産をオーストリア政府に寄贈した。オーストリアは寄贈の付帯条件をうけ入れて特別法を制定、ロスチャイルド家の資産を、国家管理の巨額の年金基金とした。この年金によって、かつてのルイの公私両面での使用人全員が、退職公務員に支給されるのと同じ保証と収入をもらっている。

それからルイは、米国バーモント州イースト・バーナードにある自分の広大な農場に帰った。ニューイングランドの高地は、アルプスの記憶を呼び起こし、バーモント州の州民の口数少ない辛辣さが、彼の気性にぴったりだった。弟のオイゲン男爵(六二年現在存命中であり、英国の舞台女優ジーン・スチュアートの夫君)は、ロングアイランドにある自分の別荘から、再三ここを訪問している。男爵夫人ヒルダは、この地に美しい庭園をしつらえ、ルイのお気に召すかどうかさだかではなかったが、家庭的な家も建てた。その家は彼のお気に召したようで、晩年の数年間、ロスチャイルドの親戚がここに集まり、野外でポルカに似たダンスなど踊ると、かつてウィーンの劇場の平土間でワルツを踊ったときのあの冷たい優雅さで、男爵も見よう見まねで踊っていた。七十代になって、雲ひとつない紺青のカリプ海の空の下、モンテゴ湾で水泳中に亡くなったが、それは大貴族にふさわしい最期だった。 [引用終わり]

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元記事は
The Arrest of Baron Louis Rothschild
http://www.geocities.com/cliff_shack/rothschild_arrest.html


引用部は、高橋富保氏の訳を使わせていただきました。(フレデリック・モートン著 高橋富保訳「ロスチャイルド王国」新潮選書 1975.10)

おまけ

ロスチャイルド物語 (第30回) 4章 富の行方(3) フランス占領とロスチャイルド 池内 紀
http://www.toyokeizai.net/online/magazine/story04/index.php?kiji_no=43


 エリーとアラン・ロスチャイルドはフランス軍兵士として対ドイツ戦線に加わり、捕虜となって捕虜収容所に送られた。収容所事務官はドイツ語読みのロートシルトや英語読みのロスチャイルドはともかくとして、フランス語読みのロッチルドには不慣れだったらしく、ユダヤ人とはみなされなかったようである。

 ギュイ、フィリップ、ジェームス、クロードはド・ゴール将軍指揮下の自由フランス軍に入り、のちにフランス国民解放委員会に所属した。自由フランス軍の財務に関して、少なからずロスチャイルド家の支援があったと思われる。
 強制収容所に送られた者もいた。フィリップ・ロスチャイルドの妻エリーザベトは密告にあって逮捕され、ラーベンスブリック強制収容所へ送られ、そこで死んだ。

ヒトラーの、ロスチャイルド家との秘密の関係を理解する by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/7969830/


考えてみなさい・・・ヒトラーは国際ユダヤ人銀行家を誰にせよ誰か殺しましたか?
答えはノーだ。
1つもありません。

・・フランス・ロスチャイルドの疎遠になった別居の妻の場合というのはある。「なぜドイツ人が私を害さねばならないの?」 1940年に彼女は夫に尋ねた。「私は古いフランスの家の出なのよ。」ロスチャイルド家の名前と縁を切っていて(前代未聞!)、彼女のもとの貴族の称号に戻っているにもかかわらず、彼女は1944年ゲシュタポに逮捕されラベンスブルックへの最後の輸送で送られ、彼女はそこで残忍に殺害された・・・ ] (さてはて:なぜだろう

by oninomae | 2008-04-07 00:23 | イルミナティ  

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