ピーボディに気に入られたジュニアス・S・モルガン→ジョン・P・モルガン by ユースタス・マリンズ
ロンドンに到着した直後、ジョ-ジ・ピーボディ[1795-1869]-はしわがれ声のネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵[1777-1836]とともに聴衆のまえに呼びだされたことに驚いた。




ロスチャイルドがピーボディに飾り気のないことばで話したことは、ロンドンの貴族の多くはロスチャイルドをあからさまに嫌い、彼の招待を断ったということだった。
彼は、穏やかな性格の人間であるピーボディが、近いうちにロンドンの話題となるような宴会を開く気前のよいホストとしての立場を確立するよう提案した。ロスチャイルドはもちろんその全費用を負担するつもりであった。ピーボディは提案を受け入れ、たちまちロンドンのもっとも人気のあるホストとして知られるようになった。
彼が毎年行うアメリカ独立記念日を祝う7月4日の夕食会は、英国貴族にはとてつもない人気となり、その一滴までもがロスチャイルドによって支払われていることに気がつかないまま、ピーボディのワインを飲み、ロスチャイルドの粗雑さとひどいマナーに対して冗談を飛ばしながらお互い大いに楽しんだ。
ロンドンでもっとも人気のあるほすとが商売人としても非常に成功したことは驚くほどのことではない。陰で彼をサポートしていたロスチャイルド家にとっては、とくにそうであった。

ピーボディはしばしば50万ポンドの資本を手にして、きわめて抜け目なく大西洋の両岸で売買を行った。
彼のアメリカの代理店は、ジョン・ピアモント・モルガンの父親であるジュニアス・S・モルガン[1813-90]が代表をつとめるビープ・モルガン商会というボストンの会社であった。

ピーボディは結婚しなかったので、後継者がいなかった。そして彼は、背が高くてハンサムなジュニアス・モルガンに非常に好ましい印象を受けたのである。
ピーボディは、1845年にジョ-ジ・ピーボディ商会のパートナーとしてロンドンで自分と一緒にやらないかとモルガンを説得した。
1860年にニューヨークのダンカン・シャーマンの会社は、見習い生としてジョン・ピアモント・モルガン[1837-1913]を受け入れた。

彼は商売にはそれほど身を入れず、1864年にダンカン・シャーマンがモルガンの息子をパートナーにすることを断ったとき、父親は憤激した。
彼は即座にある計画に着手し、ダンカン・シャーマンの最上席従業員であるチャールズ・H・ダブニーにジョン・ピアモント・モルガンの新会社であるダブニー・モルガン商会に参加しないかと説得した。バンカーズ・マガジンの1864年12月号は、ピーボディはダンカン・シャーマンから彼の預金を引き出し、他の会社にも同じことを期待した、と書いている。もちろん、ピーボディの預金がダブニー・モルガン商会へ移ったのは当然である。
●金融恐慌の申し子ジョン・ピアモント・モルガンの誕生
ジョン・ピアモント・モルガンは、最初の合衆国の金融恐慌の真っ只中の1837年に生まれた。意味深長なことであるが、この恐慌はモルガンがのちに提携するロスチャイルド家によって引き起こされたのである。
1836年、合衆国第二銀行の免許を更新するよう説得を試みていた銀行家たちの戦術に激怒したアンドリュー・ジャクソン大統領は次のようにいった。(引用注:泥棒が泥棒に怒っているわけではあるが)
「お前たちは悪の塊だ。お前たちをぶちのめしてやる、神の力で永久にぶちのめしてやる。もし国民がわが国の貨幣銀行制度の追い剥ぎ不法行為を理解したなら、夜明け前に革命が起こっていたであろう」
ニコラス・ピドルが合衆国銀行の頭取であったが、

ジェームス・ド・ロスチャイルド男爵[1792-1868]がこの中央銀行の筆頭株主であったことはよく知られている。

ジャクソンは合衆国銀行の免許更新を拒否していたが、1835年に入る数ヶ月まえに、ロスチャイルド家が1835年1月1日に国務省の金融代理店としてのベアリングの会社の地位を奪うという形で、合衆国政府との関係を固めてしまったことに、ジャクソンはたぶん気づいていなかったのであろう。
著名な銀行家であるヘンリー・クルーズは『ウォール街の28年』(アーヴィング社、ニューヨーク、1888年、157ページ)という本のなかで、合衆国第二銀行の免許が1836年に終了したために1837年の恐慌は仕組まれた、と述べている。
ジャクソン大統領は合衆国第二銀行から政府資金をすばやく引きだしただけでなく、1000万ドルのこの資金を州の銀行に預金した。クルーズは、その直接の結果としてわが国は大いなる繁栄を享受しはじめたといっている。
この突然の資金の流れはただちに国家経済の拡大の引き金となり、政府は国の全債務を返済し、財務省に5000万ドルの黒字を残したのである。
ヨーロッパの金融業者たちには、この状況に対する解決策があった。
「ある日、イングランド銀行が合衆国に関連するすべての証券を投げ出したときに1837年の恐慌はさらに悪化した」とクルーズはつけ加えている。
当然のことであるが、イングランド銀行はネイサン・マイヤー・ロスチャイルドの名前と同意語であった。
なぜ、ある日、イングランド銀行は合衆国に関連する証券を「投げ出した」のであろう?
すなわち、なぜ合衆国に基礎をおく証券、債権あるいはその他の金融証券を引き受けたり、割り引いたりすることを拒否したのであろう。
この行為の目的は、合衆国に急激な金融恐慌をひき起こし、信用の完全な収縮を誘発し、これ以上の株式や債券の発行をおさえ、合衆国の証券を現金化しようとしていた人びとを破滅させることにあった。
このような金融恐慌の状況のなかで、ジョン・ピアモント・モルガンは世界に登場したのである。
ユースタス・マリンズ 「民間が所有する中央銀行」 p143-146より
by oninomae | 2008-03-13 22:36 | イルミナティ