石油とホロコースト by Clifford Shack 1
1836 ラビ・カリシャー[1795-1874]がロスチャイルド達にパレスチナへの投資をアプローチ。
ロスチャイルドは興味がなかった。(すぐにわかるように、彼らは非常に興味を示すことになる。)
1859 スエズ運河の建設が始まる。
1859 世界初の油井。ペンシルベニア州タイタスビルで掘削されたもの。
1869 スエズ運河完成。
1870 ジョン D. ロックフェラーが、スタンダード・オイルを設立。
1873 バクー(参照2)油田地帯が開発のために拓かれた。
1873 ノーベル家がロシア油田事業に参入。
1870年代 「ノーベル兄弟達がロシア帝国内の石油分配供給を支配した一方で、これらの国境を越えては、ロシアの石油は、ほとんどとるに足りないものであった。たとえば、バルト海沿岸の港に到達するということは、「2000マイルの、ロシア西部を通しての断続的な水路・鉄道輸送」を意味した。さらに悪いことに、厳しい冬の天候が、カスピ海上での灯油の出荷を10月から3月の間排除した。その結果、多くの精製業者は単に1年の半分を閉鎖した。帝国の内部でさえ手が届かなかった;ティフリス市内で、西に341マイルのバクーからよりも、8000マイル離れたアメリカから灯油を輸入するほうが安かった。」 (ヤーギン「The Prize: The Epic Quest for Oil, Money, and Power」 p.60)
1875 英国がスロスチャイルドの融資でスエズ運河を買収獲得
総理大臣のベンジャミン・ディズレーリ[1804-1881]とヴィクトリア女王 [ディズレーリはユダヤ人として生まれたが、子供の時彼の父アイザックによってバプテスマを受けた。その父は、(サバティアン・メシアのヤコブ・フランク、別名ヤコブ・フランコヴィッチ、実名リーボウッツの弟子で)よく知られたカバラ主義フランキストだった。アイザックは洗礼を与えた理由として、ユダヤ教は「ユダヤ人を人類の大家族から切り離す」とした (ブリタニカ大百科事典) 。そして彼の息子ディズレーリは、 「ユダヤ人嫌いの」隠れユダヤ人だった]
1877-1878 ロシアートルコ戦争(露土戦争)間の、ユダヤ人の兵士のために祈りをささげるサービス
露土戦争は、Batum港をロスチャイルドが強力な銀行コネクションを持つロシアに組み込むために扇動された。まもなくロスチャイルドが、ロシアの石油を極東市場に積み出すのはバトゥム(Batum)からであった。
1878ロシアに組み込まれたバトゥム(バトゥーミ)港
1881 アルフォンス・ド・ロスチャイルド[1827-1905]、
ロシアの聖ペテルブルグ帝国銀行頭取ホーレス・ド・グンツベルクと会談。
ホーレス・ド・グンツベルク
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1881 エジプト人の、英国とフランスのスエズ運河支配に対する憤りが成長し始める。
ここに描かれているのはアハメド・アラビ。彼は、その翌年の反乱をリードしてその地域の安全保障を脅かすことになる。 それ以来、スエズ運河は、もっともらしい現実になった。ヨーロッパのビジネスエリートはすぐに、その運河がまもなくヨーロッパの「頚部」になり、特別な保護が必要となるだろうことを実感するようになった。 当初は欧州軍がこの地域を守ることができた。しかし、未来は、より恒久的な解決策を求めた。
実際は、彼らは強要されることになる。
ユダヤ人は、結局のところシオン(ザイオン)に戻る。
時計の針がカチカチと音をたてていた。
軍事的なユダヤ人の植民地が確立され、戦いに備えた状態にする必要があった。その地域がエジプト人に返還される前に。それは大胆な計画だった。
しかし、どのようにユダヤ人を、植民地定住のまばらななか快適に確立された状態で、パレスチナに得るか。
紛れもない荒れ地に。
その答えは簡単だった。
テロです。
それはその時うまくいった。今日もうまく働いているように。
それは、まさに物事を動かす諜報組織の隠された世界次第である。
だまされやすい革命家ユダヤ人にツァーリを暗殺させよう。
ポグロムを推進させる。
移住は避けられない。
十分な数のユダヤ人がパレスチナに自分自身を見いだすだろう。
大いに求められている植民地を建設する骨の折れる仕事が開始されることになった。
1881 ツァーリアレクサンドル2世はl881年3月13日暗殺された。25歳のイグナシー・グリノフスキー(Ignacy Grinevitsky or Ignacy Hryniewiecki)という名のポーランド人学生によって。彼はユダヤ人だった。
このことが、ユダヤ人に対するポグロムの波を駆り立てた。
そしてこれが、大規模なユダヤ人の西方への移住へ導いた。
この結果は、パレスチナにユダヤ人の植民地を建設することに関心がある人々を利した。
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訳注:アルバート・パイク[1809-1891、ロスチャイルド代理人ゲルソン・ブライヒレーダー[1822ー1893]が資金源とか]の、ジュゼッペ・マッチーニ[1805-1872、「ナポリ」・ロスチャイルド家が資金源であろう。参考:4男カール・ロスチャイルドは1788-1855]への例の「手紙」は1871年8月15日付けであった。
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ロスチャイルド家とその同類は、ツァーリの暗殺の背後にいたのか?
うーん、このサイトで探求したように類似の国家元首暗殺にロスチャイルドが関与していた可能性を考慮すれば...アレクサンダー暗殺事件の背後のポーランドのユダヤ人学生達のまた背後に彼らがいたことは非常にありそうなことに見える。
ツァーリの息子、グンツベルクやエフリュッシのようなロスチャイルド同盟者であるロシアの銀行家の操り人形が、父親の死後すぐに帝位につけられた。
ロシアのポグロムとユダヤ人虐待がただちに始まった。それはユダヤ人達のパレスチナへの流れを保障するものであった。
これらのユダヤ人達はパレスチナの荒れ地を整備する過酷な労働で特徴づけられる。そのユダヤ人の植民地は無視されていた居住に適さない岩やほこりの地域から建設されることになった。
その西への移住は、数多くの問題をもたらし、銀行家達の新たな駆け出しのパレスチナ事業に向けての労働者の移住がもはや必要なくなるまで続くことになった。
ツァーリアレクサンドル二世。人々は、ロシアのために大いに尽くしたツァーリが革命家達の手による死に直面せねばならなかったことがいかにして可能だったか理解することができなかった。
(もちろん、彼らが知らなかったことは、その暗殺は銀行のスキームの結果だったことだ。 銀行家達はツアーリを作り、そして、もし必要とあれば、ツアーリを廃する。(あるいは、そのことに関しては、どのような政治指導者や管理者でも))
「排除、国外追放、逮捕、そして殴打が多くのユダヤ人にとって日常のものとなった。それは、下層階級だけでなく、さらには中産階級、ユダヤ人のインテリにとってもであった。アレクサンドル3世の政府はユダヤ人住民に対する戦争キャンペーンを繰り広げた・・・ユダヤ人はかりたてられ、追い立てられた。そして、移民がロマノフ王朝の恐怖専制政治からの唯一の脱出口に思われた。」-ベルル・ウエイン、「残存者の勝利」(p .1 73)
1882 パレスチナへのユダヤ人移民第1波[Aliyah]の始まり(スエズに届く範囲内にある常備軍への見込みがここに始まる)
続く
元記事は
Oil & the Holocaust
http://www.geocities.com/cliff_shack/oil_chrono.html
もとは1本の記事ですがとても長いので、この訳では、4回に分割させていただきます。
by oninomae | 2008-01-08 20:38 | ホロコースト