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じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖 肥田舜太郎 (中)

じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(中) 2012年10月8日  肥田舜太郎 2012年10月14日 22時00分00秒
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/7acdc80616c1d892a60b7e7bf3522b57 より講演本文転載

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被爆はしたけれど、ピカで焼き殺されず、家は潰れかかったけれども、ぺシャンコにならなかったので助かりました。そこで子どもを立たせました。6歳の男の子でした。泥をはらって心臓の音を聞こうとする。聴診器がないので自分の耳を胸につけて音を聞いたら聞こえない。耳にも泥が詰まっていました。それをとったら音が聞こえた。

おじいさんが一人で留守番をしていました。すぐに病院に帰らねばと思いましたが、これをおじいさんに伝えなくてはいけない。おじいさんに大きな声で「子どもはここにいるよ、元気で心配ないよ、俺は病院に帰るよ」と叫びました。聞こえたかどうか分からないから、赤ん坊の顔をピシャっとたたいて、ワーと泣かせて、それで病院に向かいました。

村は800戸ぐらいの家だった。村の人は全部、家を出てきていましたが、何が起こった分からない。いきなり村にゴーっ戸いう風が吹いて、そうなってしまった。その中を自転車に乗って、走って広島に帰りました。

そのさなかに初めて被爆者に会いました。とっても怖かったのを覚えています。当時は自動車がないのです。自転車を飛ばしていて気をつけなければならないのは荷車なのです。自動車のように向こうがよけてくれない。こっちがよけないと真っ直ぐにくる。 それが曲がり角からでてこないか気をつけていたら、向こうから上から下まで真っ黒な人が歩いてくる。着ているものがボロなのです。足が見えないボロを着ている。それが向こうから来る。

だんだん近くにくると、目がお饅頭のようになっている。鼻がない。全部口になっている。唇が焼けて腫れていたのです。怖いのです。それが手を前に出して歩いてくる。こっちは自転車ですから近づくと、ウッウッと言いながらこちらにくる。どうみても人間なのです。

そばに近づいて「助けて」としがみつかれたら怖い。なので自転車を降りて後ずさりしました。そうしたら自転車にぶつかって倒れた。「ああ、ごめんなさい」と助けようとしたら、身体が全部焼けていて触るところがない。体中にガラスも刺さっている。触れるところがない。

死にかかった人だから、どこかに触って励ましてやりたいのだけれど、触るところがない。それで「もう少ししたら村がある。そこまでいって助けてもらいなさい」と言いました。そうしたらそこで痙攣を起こして死んでしまいました。これが僕がみた最初の焼け死んだ方でした。

亡くなった人は仕方がない。自分は病院に行こうと手をあわせて自転車に乗ったら、向こうから同じような人が道いっぱいにやってくる。みんな焼けただれている。その中を「すいません、私は広島に行きますから」なんて言えるはずがない。それで道の下に流れている大田川に飛び込みました。腰ぐらいまででした。それで川の中を広島に向かって歩いていった。

大田川が7本に分かれて、そこに橋がかかっていて、広島にいく。どの川を通っても広島の市内に入れる。一番左の川に入って、すぐ右の土手を登れば病院があると知っていました。ところが進んでいくと真っ黒な煙が立っている。それが川の上を這ってくる。火事が起こっているのです。火事の場合はたくさん燃えると暴風のような風が吹く。川の水がすくい上げられる。

それでも「いかなきゃ」と思いました。軍人ですから。それで左の川に入って、初めての橋を越えて、上がって、病院があると思った。ところが燃えている家がある。そこから人が川に飛び込んでくるのです。男も女も飛び込んでくる。私の頭の上から落ちてくる。川は浅いので先に落ちた人がそこで死んでいる。その上に人が落ちて、跳ねて、私の周りにドボンと落ちる。それで川を向こう岸に逃げていく。

私は川を上がろうとしたけれど、上からどんどん落ちてくるので上がれない。ただ飛び込んで死んでいるのを見ている。そのとき、私は医者でありながら何もできない。聴診器もない。でもここで人を助けなけりゃいけないと思った。しかし自分には何もできない。そのとき「お前はここで何ができるのか、何もできないではないか。お前は村に帰って人を助けろ」という理屈がひらめきました。

でもその場で人がどんどん死ぬので、「さようなら」という勇気が出ない。それで長い間そこにいました。でもそこいても何もできない。最後に「さようなら」とおがんで川を反対にさかのぼって村に戻りました。

帰ってとても驚きました。村に入る道はそういう人がいっぱいいる。村の入り口が狭いから何人もそこで死んでいる。それを乗り越えて人が入っていく。みんな裸です。私は軍の靴を履いている。なかなか人を踏めない。やっとのことで村に入りました。ちょっといくと小学校があった。その広い校庭に全部人が寝転がっている。何人かが座っている。生きている人は動いている。動かない人は死んでいました。

村の人がいないかと見たら誰もいなかったのですが、よく見ると校舎のそばに数人いて、私を見て走ってきました。「なんとかしてつかあさい」という。私一人では何にもできない。これから何万人が来る。みんながこれを面倒みるしかない。

村の中で働ける人間は、朝5時に広島に招集されて、アメリカ軍との市街戦にそなえて、建物を壊すことに行っているとのことでした。残っているのは、じいさまとばあさま、小学生だけだった。動ける人間はおらん。でも「あんたらがみるしかない。生きている人間には米を食わせろ。俺がハンコをつくから軍隊のものを出せ」と言って、おむすびをたくさん作った。

でも僕らの大失敗で、おむすびを食べられる人は誰もいない。それでまたおむすびを集めて、お粥にした。小学生の男の子がそれを持ち、女の子がシャモジを持って、寝ている顔に上から入れた。でも女の子が怖がってしまった。顔が見れないのです。「ぼやぼやしないで入れろ」と叫んで食べさせました。

6日に6000人、7日に12000人、8日が22000人、9日が27000人が村にやってきた。正確ではないですが村の人がつけていた。とにかくどんどん流れ込んでくる。中には元気がよくて、さらに奥の村まで逃げる人もいる。そこには列車が走っていたので、それに乗って、山陰地方まで逃げた人、京都や九州に逃げた人がいた。でも後から後から来るので村は超満員だった。

そんな中で僕たちは最初の3日間は死んだ人間を確認しました。死んだという確認だけを仕事にした。死んだら焼いて骨にする。名前が分かれば家族に渡す。「先生が何で死んだか言ってくれ」という。そんなことまったくわからない。人間が大火傷したときに、全身の3分の1以上が焼けていたら助けられないと習っていた。どれをみても半分以上焼けている。大変なことでした。

ちょうど4日目の朝、はじめて火傷以外で死ぬ被爆者をみはじめた。はじめは5、6人の医者が診ていた。4日目に九州から応援の医師や衛生兵がきた。医者も20数名いて総勢100名を越えていた。みんな白い服をきて一人ひとり見てくれた。その中で40度の発熱をする人間をいっぱいみた。

内科で40度の熱はまず診たことがない。マラリアでたまにある。でも焼けている被爆者で40度はなんでか分からない。常識では一番高い熱を出すのは扁桃腺で39度8分ぐらいはでる。みんな扁桃腺が腫れたのではと確かめようとした。

みんな横を向いて寝ている。上を向くと心臓が苦しい。僕はひざまづいているから上からみると横顔しかみえない。自分が横になって顔を近づけて口の中を見るしかない。一人二人みて扁桃腺が腫れていればみんなそうだと思った。でも口の中がとても臭い。息が止まりそうになります。腐っている臭いなのです。本人は生きているのに口の中が腐っている。

鼻と口から血が出ました。すごく残虐ですね。火傷していたのに血がでる。目からもタラタラ血が出る。こんなことはみたことがない。40度の熱が出て、血が出て、口が腐っている。それで我慢してやっとのことで一人の口の中をみたら、全部が真っ黒けになっている。

それがすごい臭いを発していてみていられない。この人がなぜ生きているのに腐り始めたのか分からない。何が起こっているのか考える。そうするとその人が苦しがって、ムシロの上で身をよじる。それでなぜかみな、必ず頭を触る。そうすると髪の毛がすっと抜けてしまう。手で触った所がスルっと抜ける。とれたあとは真っ白になっている。毛根細胞まで一緒にとれて青くならない。こんな毛の抜け方はみたことがなかった。

男は髪の毛が抜けても不思議に思う力もない。女性がこれをやると、死にかかっている人が、手をあげて「私の髪が」と大きな声で泣き出す。初めて見ました。ものなんか言えるはずもないのに泣く。それが原爆にやられたあとの特殊症状です

放射線の影響の急性症状では、まず高い熱が出る、まぶたから出血する、頭の毛が抜ける。患者から教わったのですが、周りに寝ているものが、自分の肘のう裏っかわを指す。動作で教える。そこで見ると、焼けてない白い側に紫色の斑点が20も30も出ている。鉛筆の頭ではんこをつけたようなものがついている。

学校にいるときに、内科の年をとった先生が、「ここにいるものは、これからたくさん医師になるだろうが、これを診ることがあるのは諸君の中の半分ぐらいだろう」と言ったことを思い出しました。それは血液の病気で入院した患者が悪くなり、危篤になり、あと2、3日というときに、この斑点が出てくるのです。

先生が言ったのがそれだなと思ったけれど、なぜそれが起こるか分からない。これらが放射能の急性症状なのです。これがみんな出て死ぬのが当時の経験でした。大学で生徒に教える教科書にそれらが今でも書いてあります。でもこれを現実にみた教授は一人もいません。そういうことで、私は、日本中の医者、世界中の医者の中で、急性症状で死んだ人をいっぱい診たのでそのことが分かった。

その次に不思議なことは、一緒に寝ているなかで「軍医殿、わしはピカにはあっとりません」というのがいた。「なんでここにいるんだ」と腹が立っていいました。

福山という町があります。新幹線が広島に入ってはじめに止まるところです。その町にいた兵隊だった。だから原爆にあってない。お昼に隊長さんが命令を受けて、広島市に救援に行った。トラックに乗せて、ずっと手前でとまって、兵隊は駆け足でスコップなどを持って、倒れている者や、家に挟まっている者を助けた。

それで当日と翌日、丸二日働いたカンパンを食べ、水は市内の水道を飲んだ。それで被曝してしまって、9日の朝、気を失って倒れた。疲労と脱水の症状だった。仲間の医者がびっくりして抱き起こした。それでかついて村まできて、被爆者の塊の中に置いていってしまった。そこに置いておけばいつか医者がくるだろう、そのときに本人が言えばいいとなった。

それで私がそこに行ったら足をひっぱった。私は「何でこんなところにいるんだ」と違う所に行ってしまった。3日後にまたそこに行った。それで「あの兵隊はどうした」と聞いたら「死にました」という。「なんであれが死ぬんだ、被爆もしてないのに」。なんで死んだのか僕にも分からない。そうしたらここで死んでいく被爆した人間と同じ症状だったという。目から血がでて、口が腐って、頭の毛が抜けて、斑点が出て死んだ。

「なぜだ」。本能的に思ったのは、この病気は伝染るということでした。常識的にはそうしか思えない。でもそういったら大騒ぎになる。それで他の医師に聞くと、みんな同じものをみたという。それでこれは伝染る病気かもしれないといった。それまでも診てきたので、一番、伝染病が怖かった。

その日、院長が帰ってきたので話をした。もしそうなら、村の人を含めて、ここに来た人間がみんな伝染ってしまっている。調べろという。遺体の一つを解剖して腸の中を調べた。伝染病なら必ず所見があるはずだ。怖くてね。

兵隊の元気の良かったものの死骸を村の中に運んだ。電気をつけられない。兵隊に洋服をもたして、ろうそくをもたして、お腹をきって水で洗う。いっぱいバケツで水をもたして、腸をひっぱりだして、ろうそくの中でみる。そうしたら伝染病ではないことが分かった。それで伝染病ではないということで対応しようとなった。

ところがどんどん被爆をしてないというのが後から逃げてきた。死ぬまでいくのは少ないのだけれど、死ぬ直前の症状が出る。広島にやっと入って、自分の家がどこかわからないなかでやっと探しあてて、家族がどうなったかというと骨もない。どこに行って死んだのか。

子どもはそれぞれの学校にいた。だからそこに歩いていって探した。そこらへんにいた家族から、「その子どもならうちの子の同級生と一緒だったから良く知っているよ。西の方に逃げて、そこでそのクラスの子はみんな死んだ」とか聞く。彼は、何日も家族を訪ねて町の中を歩いた。それで数日後にかったるいという症状が出て動けなくなる。

症状を聞くとかったるいというだけだ。町で家族を探したら、今日はもう起き上がって歩けない。初めて「ぶらぶら病」の症状を聞いたときに聞いたのは「かったるい」でした。間接的に後から入って被曝した症状はかったるい、働けないでした。勤めている人も、ある日急に職場に行けなくなった。「ぶらぶら病」の症状は一人ひとり、みな違うのです。


続く

by oninomae | 2012-10-18 20:09 | 放射能・ラジオハザード  

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