ファシズム化を促進するために「教育改革」が叫ばれている 櫻井ジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201204180000/
大阪を拠点としているジャーナリスト、ジェームズ・コルベットは、支配層が社会をコントロールする手段として教育と「国家安全保障」を指摘している。洗脳と恐怖と言い換えることもできるだろう。アメリカや日本でも実際に行われている手法だ。
アメリカでは「アカ」や「テロ」など、手を変え品を変えて恐怖を煽っているが、日本も大差はない。アメリカと同じように「アカ」や「テロ」もそうだが、外交では「中国」や「北朝鮮」、経済では「財政破綻」を使っている。失業率を高めることも「恐怖政治」の定番だ。
教育の問題は本ブログでも取り上げたことがあるのだが、ここでは再度、教育について考えてみたい。
支配体制を確立する上で教育が重要な意味を持つことを明治政府も認識、1890年10月には「教育勅語」を発布している。「忠君愛国」と「儒教的道徳」を国民に植えつけ、天皇制の思想的な基盤を築くことが目的だ。こうした教育を受けた人びとが社会の中堅になるのは1920年代から30年代。「戦前レジーム」の根幹はここにある。
こうした流れの中で作り上げられたのが皇国史観。「天皇が至高の存在であることを学問の大前提」として、「天皇に忠義であったか否か、忠臣か逆臣かで人物を評価し、その人物の行動をあとづけることによって歴史物語を描写した」(本郷和人著『人物を読む 日本中世史』講談社)もので、歴史とは呼べない。

その内容は、「天皇に従属する軍部と政府が支配する日本」という構図を全ての時代に当てはめる荒唐無稽な代物なのだが、平泉澄は「悠久の歴史をもつ日本の建国のことを疑えばきりがありません」と開き直り、「信じる以外の事が日本人に出来ましょうか」(前掲書)と言う。

こうなるとカルトだ。
支配層へ盲目的に従属する人間は巨大企業にとっても魅力的らしく、丸紅元会長の鳥海巌も日の丸/君が代に反対する人間を「徹底的につぶさないと禍根が残る」と発言している。ちなみに、この鳥海は石原慎太郎東京都知事と一橋大学で同期だったという。

教育を支配の道具と考えている人間は「教育改革」を実行してきたグループの中にも存在している。その一例が教育改革国民会議で議長を務めていた江崎玲於奈。

この人物は、「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」と語っている。(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋)

教育課程審議会の会長を務めた三浦朱門は、「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。」と主張、多くの国民は「実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」としている。(前掲書) (引用注:実は自己弱体化政策の一環)

これに対し、アメリカは日本経済の強さを優秀な中小企業群にあると分析していた。無能な大企業を優秀な中小企業群が支えるという構図だ。だからこそ、1980年代にアメリカの支配層は「ケイレツ」を問題にし、中小企業群を崩壊させようとしてきたのである。そして1990年代に入ると、アメリカの思惑通り、日本の中小企業群は崩壊していく。
日本の大手メーカーで研究職やエンジニアとして働く友人に聞くと、異口同音に生産現場は崩壊寸前だという。まず、新入社員の能力が落ちていると語る。思考力、応用力が特に劣化しているようだ。
また、人員削減の影響で中堅に負担が集中して精神的にダウンする人が増え、さらに一部へ負担が集中するという悪循環に陥っているようだ。そうした状況に対する経営者の対策は中国やインドでの採用増らしい。
学校は経済状況の影響を受けるわけで、現在社会の縮図だと言えるが、その一方、学校で育った子どもが次世代の社会を形成していくことを考えると、近未来を映す鏡だとも言える。つまり、日本社会は崩壊しつつあり、ファシズム化が促進されるだろうということを学校の状況は示している。そうした中で橋下某や石原某も日米支配層の手駒として動いている。

石原慎太郎の「古代の密儀」 戦争はどうやって作られるのか たんぽぽ日記 2012年04月18日
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/10719042.html

尖閣諸島を購入すると公言した、石原・東京都知事 2012年04月18日
http://alternativereport1.seesaa.net/article/265419731.html
万一、東京都が尖閣諸島を購入した場合、島の警護は、アメリカ国防総省・ぺンタゴンの高官の「経営」する警備会社=傭兵に依頼する事が良策となる。
OECDの中で社会的公正さが22位の日本では、庶民の学力を低下させる政策を続けていて、考えない人間が増え、第一線で活躍するはずの人びとの能力低下も激しい 2011.10.31
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201110310000/
与えられた仕事はこなせても、自分で判断する能力のない人間が増えているという声をよく聞く。大手企業の研究職やエンジニアに聞くと、最近の新入社員は「使いものにならない」と厳しいことを言う人も少なくない。それで、中国やインドの若者を雇い始めているのだという。彼らを使う能力が日本の経営者にあるかどうかは疑問だが。
そうした状況を招いた原因のひとつが教育政策にあることは間違いないだろう。バーテルスマン基金が発表した今年の報告書(PDF)を見ると、日本は児童教育に対する公的な負担が少ないことがわかる。GDP(国内総生産)に占める比率で比較すると、OECD31カ国の中で日本は27位。1位のアイスランドに比べると12%、OECDの平均に比べても23%にすぎない。日本では中高一貫教育の普及の影響で受験の山場が小学校時代に訪れていることを考えると、この問題は大きい。
日本では教科書に書かれた知識を正しいと信じて記憶し、想定された正解へ早く確実に到達する能力を求めてきた歴史がある。つまり、官僚的な能力を尺度にしてきた。 後発国として先進技術をマスターすれば良かった時代ならいざ知らず、自分たちが新たな道を切り開いていかなければならない状況には対応できない人たちを作り上げてきたということだ。

判断能力が育たないような教育を政策として推進してきたのは日本政府にほかならず、大企業の経営者は政府にそうした教育を求めてきた。権力者の言うことに疑問を持たず、唯々諾々として命令に従う人間を求めてきたということだ。アドルフ・アイヒマンのような人間、権力者に言われたことを確実に実行する「スペシャリスト」あるいは「机上殺人者」を大量生産しようとしたのだ。

そのひとつの結果が東電福島第一原発の事故で明らかになっている。
要するに、日本では庶民を教育するのではなく、調教しようとしてきた。東京や大阪で選ばれている知事をみると、少なくとも都会に住む人々は教育に関心がないのか、調教が好きなのだとしか思えない。
子どもを調教するためには、その前に教師を調教する必要がある。教員免許の更新制は教師を調教する手段だ。東京都教育委員会の場合、都立高校の入学式や卒業式などで「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱するようにと教職員に対して通達を出しているが、これは江戸時代の「踏み絵」と同じこと。大阪府の場合、さらに上意下達を徹底しようとしている。

今年の6月には八重山でも教育をめぐる問題が浮上した。中学校の社会科教科書をどの出版社のものにするかということで揉め始めたのだ。事前に調査員が推薦していなかった「新しい歴史教科書を作る会」系列の育鵬社から出された教科書をごり押しする動きが表面化したのである。
この教科書を採択するため、まず八重山地区採択協議会の会長が「改革」に乗り出したことから今回の問題は始まる。中でも協議会委員の入れ替えは大きい。育鵬社の教科書を採択するためのメンバーにしたということである。
8月に非公開で行われた採択協議会の会議で歴史教科書は帝国書院が選ばれたが、公民の教科書は育鵬社が採択されている。この過程で協議会会長の玉津博克石垣市教育長は委員に対し「教科書を見なくても見たと言えばいい」と発言していたことも明らかにされている。何も考えず、育鵬社の教科書を選べということだろう。
明治以降のアジア侵略を肯定的にとらえている「自由主義史観研究会」の流れを育鵬社の教科書はくんでいる。この研究会を生み出したのが関西の「新教育懇話会」と関東の「東京教育懇話会」で、それぞれ戦前の京都学派と東大朱光会が源流。「皇国史観」が基盤になっている。
問題になっている「ゆとり教育」もこうした流れの中で出てきた。ここで言うところの「ゆとり」とは、応用だけでなく基礎も教えず、小手先のテクニック、表面的な知識を子どもに覚え込ませるという代物。「考えない庶民」を作り出すことが目的だと指摘する人もいる。

勿論、支配層の子どもが通うような学校、つまり進学校と呼ばれている国立大学の付属や私立の学校は、そうした政策のターゲットからは外れている。「愚民化教育」の対象になっているのは公立の学校だ。つまり、「ゆとり教育」とは一種のエリート教育だとも言える。
斎藤貴男さんの書いた『機会不平等』(文藝春秋、2004年)によると、「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきまよ」と教育改革国民会議で議長を務めていた江崎玲於奈さんは話していたという。
教育課程審議会の会長を務めた作家の三浦朱門さんに言わせると、「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」
ところが、日本で行ってきた「エリート教育」は庶民だけでなくエリートの能力も低下させてしまった。思考力と批判力は表裏一体の関係にあることを理解できていなかったようだ。

ちなみに、バーテルスマン基金が算出した指数によると、日本の「社会的公正さ」はOECDの中で22位。日本の下にある国は、ポルトガル、スロバキア、韓国、スペイン、アメリカ、ギリシャ、チリ、メキシコ、そしてトルコだ。日本の「エリート」たちはアメリカを手本にしているようなので、日本の社会的な公平さは、さらに悪化するということなのだろう。

橋下維新は答えではない-ハシズム新自由主義の背後
http://sekaitabi.com/hashizm.html
by oninomae | 2012-04-18 20:31 | 政治詐欺・政治紛争