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迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち 鬼塚英昭

迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち

広島の原爆による死傷者は何人なのか。この単純な質問に正確に答は出ていない。私はあるデータ(「第四章」一七三~四頁参照)を書いた。しかし、志水清編『原爆爆心地』(一九六九年)には、「アメリカでは、今なお前述の広島県警調査による死者七万八一五〇人、あるいは行方不明を加えた九万二一三三人という数字が、しばしば権威ある報告にも引用されている」と書かれている。この本にはまた次のような文章がある。

  広島の平和公園に行った人なら、埴輪をかたどった原爆慰霊碑を知らない人はない。しかし、これと比べると公園の北のはずれの「原爆犠牲者供養塔」は、あまりポピュラーな存在ではなかった。この供養塔の芝生で囲まれた土まんじゅうの地下安置所には、一二万から一三万と推定される無縁仏の骨が、ひきとり手もないままに眠っている。このうち名前がわかっているものは二三五五人。あとは、氏名も性別も、死んだ場所さえわからない状態になっている。
  これら名も知れない犠牲者を、広島市が供養することになったのは、原爆が落とされた時から一年たった昭和二一年の夏だった。墓碑銘は、アメリカの占領政策をはばかって、原子爆弾の文字は伏せ、「広島市戦災死役者供養塔」とし、納骨堂とは名ばかりのバラック建ての小屋に遺骨が安置された。



このまんじゅう塚の十二万から十三万の死者たちは、名前が確認されないという理由で死者数にも入れられていない。

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二一世紀のこの世にも、無縁仏は、その空白を埋めてもらっていない。そしてまた、多くの被爆患者たちが日本赤十字社により見殺しにされた。日本赤十字社の総裁・高松宮は一存でジュノー博士の申し込みを拒否したのではなかったかと私は確信する。その兄の天皇裕仁と熟慮して、ジュノー博士の申し出を拒否したのである。

原爆で生き残った者たちにも地獄が待っていた。

朝日新聞社編『原爆・五〇〇人の証言』(一九六七年)から引用する。

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「あれから二二年、さまざまに、被爆者たちは生きぬいていた。-たとえば、広島市観音町、爆心からほんの二キロ足らずの自宅で被爆したMさん夫婦が語る二十二年はこうだ」の中に次なる話がのっている。

  学校中が避難者で埋まっていました。そして、教室に横たわる血だらけの人、髪がすっかりなくなった人、片手がもげた人、が次々に死んで行きました。水が欲しいと、たったいままであえいでいたけが人が、いつの間にか静かになる。兵隊が来てだまって担架で外に運び出す。そんなのを見ても無感覚です。隣に横たわっていた全身火ぶくれのおじさんは夜中に警察官を呼んで、遺産のこと、家財の始末を家族に伝えるように頼み、半身をだき起してもらったあと、天皇陛下万歳を三唱して息を引きとりました。何百人ものけが人が、うめいている夜の校舎にノドからしぼり出すような、万歳の絶叫だけは恐ろしかった。ほとんど、顔も見分けられないほどひどい火傷を負って冷たくなった母親の乳首をいつまでも、しゃぶりつづけて泣く赤ん坊もいました。


この話はMさんの奥さんが語ったものである。Mさんの奥さんは、地獄の底で"天皇陛下万歳"を聞いたのである。この死にゆく人は、死の間際に、天皇は何者なのかを知って叫んだのである。だから「ノドからしぼり出すような、万歳の絶叫だけは恐ろしかった」のである。

私は数多くの原爆の本をひたすらに読んできた。さながら夢遊病者のように読んできた。心の整理のつかないままに、毎日毎日、一日中といっていいほどに原爆が頭から離れなくなった。多くの死者が私に書かせているとの錯覚に心を奪われつつ書いている。そして、この原爆の話をどこかで終了しなければいけないと悩みつつ書いている。

天皇が私の心にへばりついている。

二〇〇七年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(二〇〇三年)を読んだ。

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この本の「あとがき」の最後に、住所と電話番号が書かれていた。プロフィールも書かれていた。一九二一年山口市下松市生まれと書かれていた。「生きているのだろうか?」と思った。ある日、電話をした。はっきりとした声の持ち主だった。彼はこう私に語った。

「そうか、原爆の本を書いているのか。明日の昼ごろか、よし、黄色い傘を玄関の前においておく。ドアを開けて入ってくれ・・・」

私が彼に会いたかったのは、彼の本を読んで、こんなに真剣に原爆と格闘している人はいない、と思ったからである。電話した翌日私は彼に会った。

私は彼の本の中で「衝撃を受けた一人の女性」がいた。それは、「原爆乙女の怒り『私には強姦してくれる男もいないの』」の中で書かれている女性であった。次のように書かれていた。ダイジェストする。

一九五五年五月、長谷川幸子さん(仮名)をはじめ二十五名の原爆乙女が太平洋を渡ってケロイドの植皮手術のために渡米した。広島と長崎で被爆し、顔面などに醜いケロイドの痕を残した若い女性たちだった。福島は書いている。

「長谷川幸子さんを知ったのは、ビキニ水域における米国の水爆実験に抗議し、実験水域にヨットを乗り入れて抗議した米国人物理学者、アーノルド・レイノルズ博士とバーバラ・レイノルズが広島に移住し、『ワールド・フレンドシップ・センター』を開設(一九六五年)したのを取材に行ったときだった。センターは海外から広島に立ち寄る外国人のガイドや、レイノルズ夫妻を中心にした日本における国際的な平和運動の拠点で、長谷川さんはバーバラの通訳兼アシスタントだった」

その彼女と福島の間に友情が芽生える。

「お父さんが、もし幸子と結婚する男がいたら、家も建ててやる、何でもしてやると言っているのに、こんな顔では縁談がないの」

と青春の悩みを率直に福島に語るようになる。

彼は次のように書いている。

  八月が来ると彼女はいつも語った。「私は八月六日が大嫌い。毎年各社のカメラマンが『ちよつとお願いします』と言ってパチパチこの顔を撮って晒し者にし、六日が過ぎれば使い捨てです。もういいかげんにしてよと言いたくなりますが、この顔が役に立てばと我慢してきましたがもう嫌です」。そんな話を聞くと余計に写したいとは言えなくなったが、ある日、ついに取り返しのつかない過ちを犯してしまった。

福島はある日、一人のカメラマンの撮影に応じた彼女が不愉快な目に遭わされたので一杯飲んで夕食でも食べませんか」と誘った。幸子さんは、「まだ先ほどの出来事にこだわり、ときどき指ひだ先でケロイドの襲を伝って流れる涙を押さえながら話し始めた」と福島は書いている。福島は幸子さんとネオン街に出る。

福島は書いている。「幸子さんの顔を写させて」と言いながら前に回ってカメラを構えた。この場面を私はどうして忘れえようか。

  その瞬間、彼女の足がアスファルトに釘づけになり、瞬きもせず僕の顔を睨みつけた。怒りに震えた両手が僕の胸倉を掴んで激しく揺さぶりながら叫んだ。「福島さん、あなたという人は」
  後の言葉は途切れてすぐに声にはならなかった。胸倉を掴んだ手が激しく震え、間近に迫ったケロイドの顔に焦げた臭い匂いを感じて思わず後ずさりした。「写させて」と言っただけなのに彼女がなぜ激しく怒り出したかわからなかった。その当惑に、彼女は血を吐くような激しい言葉を叩きつけた。


私はここに書くのもつらい。ただ、次の言葉をのこし彼女は福島の前から姿を消したのである。そして、福島が電話して詫びようとしても電話口にも出なかったのである。

  「・・・こんな顔になって私には結婚してくれる人もいないのよ。子どもが好きだから、お母さんに抱かれた赤ちゃんに思わず声をかけるの、そのたびに何が起きると思う。どの赤ちゃんも私の顔を見たとたん、火がついたように怯えて泣き叫んでお母さんにしがみつくの。どんなに惨めな気持ちになるかあなたにはわからないでしょう」
  「よく聞いて、街を歩いていても、後ろから冷やかし半分に近付いて来た男たちが、私の顔を見たとたん、みんな声を上げて逃げるの。そのたびに死にたくなるわ。死のうとしたこともあるわ、こんな惨めな気持ちがあなたにわかるっ。福島さん、私には強姦してくれる男もいないのよ」と叫ぶと幸子さんは僕を突き放し、大声で泣きながら土曜日の夜の雑踏のなかに姿を消した。


私は、今や八十六歳になる福島菊次郎に、この幸子さんとのことを問うた。「幸子さんは福島さんに惚れていたんですね」。福島は沈黙を守り続けた。そして、ぽつりと言った。「うーん、いろんなことがあったんだ」

この『ヒロシマの嘘』の中に、アメリカが広島と長崎につくったABCC(原爆傷害調査委員会)のことが書かれている。

週刊朝日編集部編『1945-1197-アメリカとの26年』(一九七一年)から引用する。

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  ABCC〈原爆傷害調査委員会〉
  Atomic Bomb Casualty Commission--原爆傷害調査委員会。いうまでもなく、沖縄、本土の米軍基地とならぶ占領軍の遺産のひとつだ。広島市民の批判、非難の風当たりをさけて、最近では「日米対等のパートナーシップ」をいいだすなど微笑をふりまいているが、加害者による被害者の調査というその性格は変わりはない。
 ABCCさし回しの車がすっと玄関につくと、看護婦が「いらっしゃいませ」と最敬礼をする。白衣に着替えて血液検査、検便、レントゲン、聴診・・・。精密検査の合間には弁当がでるし、帰りには救急箱のおみやげまでつく。
 こういう特別な接待をうけるのは、二年に一回、ABCCで「成人健康調査」を受ける人たち。市民たちは、ある種の感情をこめて、お山(つまり、市内比治山にあるABCC)の"クイーン"とよんでいる。

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この本にはABCCの歴史が書かれている。

太平洋米軍総司令部の軍医などの主張によって、終戦後アメリカはいちはやく広島に学術調査団を送り込んだが、その調査団が継続調査の必要から広島と長崎に研究所を設立、その後一九四八年に、厚生省の国立予防研究所が協力して出来たのが現在のABCCである。だから、ABCCはいまも広島と長崎に二つあるが、調査研究の主体は広島で、規模の上からもABCCといえば広島というのが常識になっている。
  このABCCの調査については、「最初のころは被爆者の心理や感情をよく考えずにトラブルを起したことがありました。しかし、だれかがやらなければならなかったことを、終戦直後の混乱期にあれだけの規模でやったということはやはり意味があるでしょう」=原爆病院・重藤文夫院長(六七)
  「ABCCがあったからこそ終戦直後の医学の暗黒時代にも貴重な資料が保たれた。もし、その資料が日本に渡されていたとしても、その当時の日本の状態では、すぐに散逸してしまったことでしょう。また、ABCCは過去の統計調査資料なども要望に応じて快く提供してくれる」=一九七〇年春ABCCに移った元広島大原医研究所の志水清博士(六三)


この本の中にはABCCのことが詳しく書かれている。広島に住む詩人深川宗俊さんの主張が、この本に載っている。「占領軍が駐留していたころは被爆者をもてあそんでいたくせに、今になって手のひらを返したように『世界人類のため』などとゴタクを並べて協力を要請する。そもそも原爆を落とした国が被害を受けた国に乗り込んで調査研究をやるというのは、人道上許されないことではないでしょうか」

かのときの占領軍は被爆者にピストルを突きつけ、「アナタ、軍法会議ニカカッテモイイデスカ」とおどし、少女を全裸にして、体のすみずみまでライトで照らし出す。あげくの果てに恥毛の発育状態まで検査する。そのため少女は気が変になってしまった、という例も報告されている。

吉川清は『「原爆一号」といわれて』(一九八一年)の中で、ABCCの横暴に触れている。

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  ABCCの活動については、被爆者の不満や不安、疑惑と非難の声が絶えなかった。健康の不安におびえながらも、日傭いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に一日つぶすことは深刻な生活問題であった。しかも、治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった。それではモルモットではないか、というのであった。おまけに検査の結果、身体に異常をきたす者まであったのである。そして、被爆者が死んだと聞きつけると、ABCCは必ずといってよいほどにやって来ては、遺体を解剖させてくれというのだ。それは、死骸にむらがるハゲタカを思わせた。実は、その上にABCCの調査の手は、被爆していない人たちの上にまでのびていた。ある婦人は子宮組織を切り取られたといい、またある娘さんは強引な検査のために、気が狂ったというような話まで伝えられた。そのABCCは、一九五一年になると、規模を拡大し、設備を充実して、比治山の上に幾棟かのかまぼこ型の施設を作って移転したのであった。

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吉川清は被爆者組織の「原爆傷害者厚生会」を一九五一年八月二十七日につくった。この組織が、被爆者の結束をうながすことになった。

原爆投下からそれまでの六年間、被爆者は沈黙を強いられ、差別を受けて生きてきた。国家は彼らを見殺しにしていた。吉川は「原爆乙女」とともに東京に行く。なにゆえか、彼らは巣鴨拘置所を訪問することになる。彼は怒りを込めて書いている

「賀屋興宣と畑俊六が登場して、あいさつをのべた。戦争責任者としての反省も、悔恨の言葉も二人の口から聞くことができなかった」

吉川清は一九四七年、アメリカの通信社のカメラマンの要望に応じ、広島日赤病院の屋上で自らの被爆写真を撮らせた。アメリカの各紙は彼を「原爆患者第一号ヨシカワ」として報道した。吉川は「原爆第一号」と自ら名のり、被爆者の先頭に立ち、被爆者更生法のために尽力した。私はこの彼の本を読み、「よし、原爆を書こう」と思ったのである。

このABCCを告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の勇気ある写真家・福島菊次郎であった。彼は次のように書いている。

  政府は原子爆弾の被害に驚き、被爆直後に広島、長崎両市に「臨時戦災救助法」を適用した。しかし現地の惨状を無視して、わずか三ヵ月後の一一月には同法を解除して三〇万被爆者を焦土のなかに野晒しにした国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってはくれなかったのである。


天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被爆者を見捨てたことが、はっきりとここに書かれている。

福島菊次郎は、多くの原爆患者と接し、彼らの写真を撮り続け、この不条理の中からABCCが誕生してきたことを知る。そして彼はABCCの内部に潜入する。

「ABCCは、一九四八年からの二年間だけでも五五九二体の人体解剖を実施した。休日なしに稼動しても二台の解剖台で一日七体解剖したことになる。驚くべき数字ではないか」と指摘している。続けて彼は書いている。

  この時期は被爆後五年間に五万人近くの人々が何の手当てを受けることなく放射能障害で次々に死亡していった時期である戦後の荒廃とインフレのなかで葬式を出す金にも困った遺族の苦境に乗じ、謝礼程度の金で遺体を収奪し、死亡者の約半数を半強制的に解剖したのである。原爆を投下して二十数万人を惨殺したうえに、生き残って貧苦と病苦に喘いで亡くなった被爆者まで仮借なく軍事研究の生け賛にした行為は、ナチスのアウシュビッツの残虐行為を超えるものである。


福島菊次郎は大手出版社の編集部からアメリカ大使館を通して交渉してもらい、簡単な取材許可が下りたのでABCCに行きダーリング所長に面談し内部を視察し、写真を撮る。彼は解剖台まで見る。彼は書いている。

  被爆者が亡くなると黒い喪服を着て花束を持って現れ、「日米友好のために」と磐勲無礼に遺体の提供を強要するABCCの日本人職員の姿がその解剖台の背後に見え隠れして、やり場のない怒りがこみ上げてきた。解剖台に運ばれて毎日流れ作業的に行われている人体実験を想像し、独立国家とは名ばかりで、アメリカの属国であり続ける国民の悲哀と屈辱を噛みしめながら、シャッターを切り続けた。[中略]
  しかも、ペンタゴンは放射能障害の死に至る克明なデータを収集研究するために、ABCCに「原爆の徹底的な研究のために被爆者の治療をしてはならない」と禁止した内部通達まで出していたことが二〇〇二年に公表され、現在なお約一万八〇〇〇人が追跡調査対象になっていることもわかった。
  この報道をより衝撃なものにしたのは、ABCCの実態が初めて明らかになったのに、国も反核団体も被爆者も一切反応せず、抗議する姿勢も示さなかったことである。アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国は、もはや「医療行為」でもない、被爆者の遺体を切り刻まれる非人道的行為に抗議する勇気すら失ってしまったのだろうか。



読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように国家の生殺与奪の権を、誰に委ねたのか。その点に焦点を絞って私は書いてきた。

原爆はどうして、広島と長崎に落ちたのか?その問いもこの点にあるのである。日本という国はスキャンダラスな国である。そのスキャンダラスな体制を隠蔽し続ける限り、福島菊次郎が絶叫してやまぬ真実が私たちの心に突き刺さるのである。


「君、スリーマイル原発事故のことを知っているか!?」

福島菊次郎は突然、私に問いかけた。

「君、あのとき(一九六七年)、アメリカ政府が放射能予防薬五万人分を急遽現地に急送した、という臨時ニュースが流れた。私はそのニュースを聞いてピンときたんだ。広島・長崎で十万人のモルモットから抽出した放射能障害の予防薬と分かったんだ。

俺は厚生省の役人に言ったんだ。『至急米国政府と交渉しろ。予防薬をとりよせろ』。そいつは何と言ったと思うか。『国立予防医学研究所だ』というんだ。

俺はな、核禁団体、被爆者団体、そしてマスコミまで回って説いたんだ。

『てめえら命がおしくねえのか』と怒鳴ったんだ。

いいか、君、ABCCで抽出された薬はガンや発育障害を予防する薬として広くアメリカで売られているんだ。チェルノブイリ原発事故のときにも使われたんだ・・・」

福島は現在八十六歳。ガンの手術を三回もして痩せほそっている。体重三十六キロ。アパートの一室で、広島で被爆した朝鮮人の悲劇を書き続けている。視力もおとろえている。

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「君、俺は一日一日を生きている。この本を書き終えるまでは死ねないんだ。・・・また来い。ドアは開けて待っているからな」

日本人には、たまには、ごくたまには、福島菊次郎のように、会いたくてたまらない人物がいる。狭いアパートの一隅に自らが制作したという棺桶が立てられていた。


鬼塚英昭 原爆の秘密 国内編 第五章 見棄てられた被爆者たち p245-257より

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原爆の秘密 by 鬼塚英昭 を原爆ホロコースト真実の書として推す
http://satehate.exblog.jp/9318506/

日本国民は、日本政府の敗戦工作も、アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

それだけではない。広島では、原爆投下直前の八月三日ごろから、投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。

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しかも、原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。


・・・私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

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原子力防災訓練の記録
http://www.bousai.ne.jp/vis/kunren/mext/sougou/index.html

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平成22年10月21日、原発事故の防災訓練を行っていた菅直人
http://ameblo.jp/hokutonohayato/entry-11179066338.html

ワンワールド by たんぽぽ日記 + インサイダー
http://satehate.exblog.jp/16105321/

東京電力株価推移
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私たちに何も知らされないまま、放射性物質は拡散していた
http://getnews.jp/archives/113134

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人権救済機関設置法案、20日閣議決定で調整
http://kokuzou.blog135.fc2.com/blog-entry-2298.html

3.11インサイダーの追求は「人権侵害」


重大な仄めかしを発見~9.11をあからさまに見せつける~
http://daidaikonn.blog27.fc2.com/blog-entry-420.html

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by oninomae | 2012-04-03 19:44 | ホロコースト  

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