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ドクター・ジュノーの懸命なる闘い 鬼塚英昭

ドクター・ジュノーの懸命なる闘い

私は前項の中で、日本政府が「ポツダム宣言の条件につき受諾を申し入れる一方、スイス政府を通じ原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛ての抗議文を提出した」と書いた。

国内では八月十五日までは新型爆弾としか新聞に書かせなかった国家が、スイス政府を通じ、「原爆使用は国際法違反である」とアメリカ政府に通達したのは、御前会議が大きく混乱し、天皇の裁断を得たうえでの妥協的なる措置であったのかもしれない。この後、終戦の詔書で天皇が原爆について触れるが、国家として、原爆の道義性を触れることはなくなっていく。

このスイス政府を通じての「原爆使用は国際法違反である」が海外で大きな反響を呼ぶのである。しかし、このことも日本国民は一切知らされることはなかった。

その一例は「日本に対する原爆攻撃は、残虐非情な殺人」(八月十日付、イブニング・スター紙)である。

中島竜美の雑誌論文「〈ヒロシマ〉その磐りは深く被爆国政府の責任の原点を衝く」(一九八五年)から引用する。ドクター・マルセル・ジュノー[Marcel Junod]が描かれている。私がこのジュノー博士を知るようになったのは中島のこの評論を読んだのが最初である。

  日本国内では戦争終結など思いもよらず、人びとは新型爆弾へのいいしれぬ恐怖心をつのらせていたころ、短波放送で世界のニュースをキャッチしていた人たちがいた。日本在住の数少ない外国人グループがそれである。
  八月一〇日夕刻、焼野原の東京をたって軽井沢に向かう一台の自動車があった。
  赤十字国際委員会駐日主席代表マルセル・ジュノー博士を迎えた日本派遣員の人たちだ。ジュノー博士は、捕虜の身体保全と傷病兵の救護を目的として、戦火の旧満州・新京(現在の長春)を日本軍機で脱出、前日羽田に着いたばかりであった。
  翌朝、静かな森の中の日本家屋で目を覚ましたジュノー博士は、日本のお手伝いさんから一通の電文を手渡された。派遣員の秘書の一人カムラー氏からである。
  「親愛なるジュノー博士、BBCは今夜(注・八月一〇日)、日本のポツダム宣言受諾を報じました。遂に平和が来ました。人びとはトラファルガー広場で踊っています」 (『ドクター・ジュノーの戦い』マルセル・ジュノー著、丸山幹正訳)

  ジュノー博士はこのときまで、日本への原爆投下について何も知らなかったが、その後かかわりをもつようになる広島での動きは、また後で述べるとして、米軍が「八月一〇日をもって事実上の戦争終結」としている、もう一つの証拠を紹介しよう。
  それは、アメリカの原爆製造を担ってきた、マンハッタン計画の動きである。大統領直属のマンハッタン管区代表・グローブズ少将が、そのころテニヤンで原爆投下部隊の指揮をとっていた副官のファーレル准将に、原爆兵器の効果を調べるための調査団結成を命じたのが八月一〇日(現地時間)であった。
  その後、"マンハッタン管区調査団"は、ファーレル准将以下五〇人からのメンバーで結成され、日本上陸の機会をうかがうことになる。この調査団は、後につくられる米太平洋陸軍軍医団や、米海軍技術団、および米戦略爆撃調査団等調査グループの先達として、占領下の日本政府と接触していくのである。

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日本は八月十五日を一応、終戦(敗戦)とする。しかし、欧米では、日本が無条件降伏を受諾した八月十日を終戦とするのが普通のようである。すでに八月十日に、アメリカの日本に対する終戦工作が始まる。そのとき、日本政府がスイス政府を通じて「アメリカの原爆投下は国際法違反」という電報をアメリカ政府に打電したことが、マンハッタン管区調査団の派遣となったのである。 フーアレルの調査団が「広島と長崎に残留放射はなし」の結論を出したのは、原爆投下による世界中の世論を抑えるためであった。日本政府は沈黙を守るようになっていく。

マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』(一九八一年。スイスでの原書出版は一九四七年)から引用する。

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(原題は第三の戦士」、英訳版は「武器なき戦士」)
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  広島と長崎に二発の原子爆弾が投下されてから三週間が過ぎていたが、破壊された街と数知れぬ犠牲者の運命について、事実上まだ何もわかっていなかった。アメリカのラジオ放送は、この新兵器の準備とその途方もない威力について大々的に報じていたが、原子爆弾の破壊作用についての情報は恐ろしい予言の他何もなかった。
  「七十年間、市街は放射能で汚染され、すべての生きものは生存不可能であろう」 (引用注:これ自体は大げさであったが、「復興」は「死ぬべき者たちが死んでいった」後のことである)


この予言ないし風聞は、長崎よりも広島で広く流布していく。この予言を打ち消すべく、ファレル准将やローレンス記者が論陣をはるのである。続けて彼の本を読んでみよう。

  アメリカのジャーナリストが一人、飛行機で広島に近づき取材に成功したのを私は知っていたが、彼の報告は直ちに発禁処分を受けた。爆弾炸裂後、米軍偵察機が何度も街の上空を飛んでいたが、その恐るべき破壊力のデータは、軍上層部と科学者の手中にあった。
  日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせるため、数日間原爆の破壊力について大きく報道していたが、それが一切禁止された後は、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった。



この間の状況も一部書いた。八月二十三日付の読売新聞は「死傷十九万を超ゆ、原子爆弾の残虐」との題で、広島と長崎の真相に迫る記事を載せている。

日本の言論機関がアメリカの原爆を非難し続けたのは一ヵ月にも満たない。九月十五日付の朝日新聞は、当時新党結成に動いていた鳩山一郎に一問一答をし、発禁処分となった。

「・・・"正義な力なり"を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして羅災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を素直に披瀝し、日本の民主主義復興、国際貿易加人が米国の利益・世界の福祉と相反せぬ事実を認識せしむることに努力の根幹を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行わしむるごとく力を致さねばならぬ」

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まさに正論である。これはプレス・コードの出る前である。敗者の正論は勝者にとっては常に脅威となる。鳩山一郎は公職追放され、あのヨハンセン・グループの醜怪なる人物の吉田茂が首相になっていく。吉田は戦前から戦後、そして生涯にわたってアメリカの原爆投下を陰から支援し続けたからである。

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ジュノー博士の本をさらに読み続けよう。

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  広島の住民にとって、この突然の惨劇が何を意味するか我々にわかり始めたのは、日本の津々浦々に広まって行った人々の口承による情報からであった。我々の秘書の一人でノハラという二世の日本人が、時々我々に日本人の間でどんな話が交わされているかあらまし語ってくれた。多くの避難者が家族のもとへ逃れている。彼らの情報は信じられない程悲惨である穏やかな空から突如として目もくらむ閃光が放たれ、地震などとは比較にならない程超現実的な現象が起きた。それは熱風と烈火の台風ともいうべきで、突如として地表を一掃したかと思うと後に火の海を残した。
  誰も死者の数を知らなかった。五万だという者もいるし、二十万だと主張する者もいる。負傷者の数もそれと同数だという。負傷を免れたかに見える人々も、突然奇妙で不可解な症状を呈し、毎日数千人が死亡している。



ジュノー博士は、「九月一日になって始めて外務省は私に、原爆炸裂後の広島の写真数枚を見せた」と書いている。「・・・烈火に打ちのめされハンセン氏病の如き生存者の唇からまだ死の絶叫が聞えてくる」とジュノー博士は書いている。続けて読んでみよう。

  九月二日午前八時、日本の警官が、まだ東京の検閲査証が押されていない電報の写しを、我々の鳥居坂の別荘に持って来た。ビルフィンガーが八月三十日広島に到着し、次のような報告を送って来たのである
  「・・・恐るべき惨状・・・町の九〇%壊滅・・・全病院は倒壊又は大損害を被る。仮設二病院視察、惨状は筆舌に尽し難し・・・爆弾の威力は凄絶不可思議也・・・回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す・・・一〇万以上の負傷者が未だ市周辺の仮設病院にあって器材・包帯・医薬品の完全な欠乏状態にあり:::連合軍上層部からの特命を重大要求として求め、直ちに街の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし・・・緊急用品次の如し、大量の包帯・綿・火傷用軟膏・スルファミド・血漿及び輸血用器材・・・緊急行動を要す・・・」


ジュノー博士はこの電文を手にして、マッカーサーがいた横浜商工会議所に出向いていく。フイッチ将軍たちに面会する。四人の将官が協議し、「これをお借りします。マッカーサー将軍に見せたいのです」とジュノー博士に言った。続けて読むことにしよう。

  その五日後の九月七日、私はサムズ大佐の呼び出しを受けて再び横浜に行った。
  「米軍が直接救援活動を組織することは出来ません」彼が言った。「しかしマッカーサー将軍は、十五トンの医薬品と医療器材をあなたに提供することに同意しました。その分配方法については、赤十字の管理と責任に委ねます
  そして最後につけ加えた。
  「調査委員会は明日広島に発ちます。その飛行機にあなたの座席を用意してあります」



ジュノー博士は九月八日、ニューマン将軍、ウィルソン大佐、それに原爆製造の技術者の一人、物理学者モリソンと同乗した。広島から二十五キロ離れた岩国に着陸した。「他の五機も近くに整列した。すぐに十五トンの医療品が降ろされた。私はその管理を、日本人の海軍大佐に委ねた」とジュノー博士は書いている。ジュノー博士一行は宮島に宿泊する。続けて読んでみよう。
  
  日本の学者が二人我々に加わった医師の本橋博士と東京帝国大学の最も主要外科医の一人都築正男教授である。
  都築教授は、きらきらと光る知性的な眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈ともいえる言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。
  「広島:・・・ひどいもんだ・・・私にはわかっていた。二十二年も前に・・・」

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『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」には都築教授についての説明が付されている。

「原爆投下の二十二年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的に全く生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、充分な論拠を与えるものである」


都築教授は八月二十九日に、陸軍軍医学校、理化学研究所らのメンバーとともに広島に向かった。陸軍病院宇品分院に救護所を開設、軍人軍属中心の被爆者医療と併せて、研究調査機関として体制を整えていった。


ジュノー博士の本を読み続けてみよう。広島が描かれている。九月九日早朝二人の日本人通訳がついた。一人はカナダ生まれの伊藤嬢、もう一人はアメリカ生活二十年のジャーナリストであった。伊藤嬢とジャーナリストは広島の惨状を訴え続ける。ここでは省略する。

  都築教授は我々を先導しながら、皆に聞こえるよう大声で話した。激しい興奮のため、言葉はとぎれた。
  「心を開かねばならない・・・すべてを理解しなければ・・・」
  彼は壁の残骸を示したが、それは地面すれすれに十五乃至二十メートルも続いていた。
  「諸君、ここは病院のあった所です・・・ベッド数二百・・・医師八人:::看護婦二十人:::患者もろとも全滅です・・・まあいい!構うことはない!・・・原爆めが!」
  時々私には言葉の終わりしか聞き取れなかった。
  「心を開いて・・・言う事はたくさんあります・・・次に移りましょう::-」
  「ここでは銀行が半壊しています。原爆投下後二日して他の街から行員が来て、その夜、金属のレールに掛った絹の力ーテンの部屋で泊まったのです。二人とも貧血で倒れました」
  アメリカ人の物理学者たちがノートを取り、放射能が消えたことを確認するため、検出器を設置している間、都築博士は医師を連れて病院を回った。そこでは恐るべき惨状が我々を待っていた。



この「アメリカの物理学者」たちが、マンハッタン管区調査団のメンバーである。ジュノー博士は「放射能が消えたことを確認するため」と、見事に彼らの隠謀を暴いている。彼らの調査書が公式のアメリカ政府の報告書となっていくのである。彼らはマッカーサーには内密に広島に入ったのである。

マッカーサーの承諾した調査団は、司令部軍部医務顧問A・オーターソン軍医大佐の提出した上申書にもとづき、米軍総司令部軍医総監B・デニット准将による調査団であり、彼らとジュノーは一緒の飛行機で広島へ向かったのである。マッカーサーは、原爆被害の調査を調査団に命じていた。彼は真相を知ろうとしていた。そして薬品や用具を飛行機五機分も送りつけていたのである。

ジュノー博士の心の叫びが聞こえてくる文章が続いている。

  最初に訪れた仮設病院は、半壊した校舎の内に設置されていた。地面に八十人の負傷者が横たわっていたが、彼らを雨や夜の冷気から守るものは何もなかった。蝿が何匹となく群をなしてむき出しの傷口にたかっていた。薬のびんが数個棚の上に散らばっていた。包帯は粗末な布で代用していた。五、六人の看護婦に出来る手当てはこれだけであったが、それには、二十人余りの十二才から十五才位の少女が協力していた。
  都築教授は、血だらけの人々の前で身をかがめた。彼は意識の朦鹿とした婦人を示したが、顔は熱波に打たれて焼けただれていた。
  「血液感染だ・・・白血球がほとんど消滅している・・・ガンマー線だ・・・防ぎようもない・・・今晩か明日死ぬだろう・・・原爆めが!」[中略]
  彼の声はますます大きくなった。
  「この人々は・・・すべて死の宣告を受けた!この人は壊疽性咽頭炎、この人は高度の白血球減少症だ。ほとんどの患者には輸血が不可能だ。血管が破れる・・・」
  我々は庭の奥にある小屋に行った。ホルムアルデヒドのガスで目がしみた。都築教授はおおいを取ると、ほとんど炭化した死体が二体横たわっていた。
  「我々は心を開かねばならない!」
  彼の言葉を聞いていると、我々は大実験室にいて、モルモットの代わりに何千もの人間を解剖しているのではないかと錯覚する程であった。解剖された器官や、組織学的切開、臨床的、病理解剖学的実験結果から作成された統計表などを彼が我々に示したのは、正に彼の情熱的な科学的探究心のゆえであった。
  「顕微鏡で見ると、高度の充血から筋肉萎縮や変質に至るまで、すべての点について観察出来る。死因は白血球減少及び通常の併発症-細菌感染・敗血症など-を伴う高度の再生不良性貧血と思われる」
  都築教授は私の方を向いた。彼は広汎な出血の見られる脳髄を手にすると、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言った。


「昨日はウサギだった・・・今日は日本人だ・・・」

***
   
  調査委員会は原爆の破壊調査を継続するため長崎に向かった。私は運んで来た医薬晶の分配を指揮するため広島に残った。
  私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た。
  崩れかかった駅の正面には、大時計の針が爆裂によって八時十五分を示したまま止まっていた。
  新時代の到来が時計の上に記録されたのは、人類史上これが初めてであった。
  この証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか…



ここで、広島でのジュノー博士のルポは終わっている。彼は、アメリカの捕虜を本国に送還させたこと、彼の友人のヴィッシャi博士夫婦がボルネオで殺害されたこと・・・を書くが、広島・長崎のことには一切触れていない。

「我々の飛行機が羽田飛行場に着陸してから四カ月が経過し、日本における私の任務も終わりに近づいた」と書く。そしてまた、「私が東京をたつ数日前の感謝祭の日の朝、対外関係を担当しているアメリカの将校ベイカー陸軍代将が私に、マッカーサー将軍が国際赤十字派遣団を歓迎したい意向であると伝えた」と書いている。では、マッカーサーがジュノーたち国際赤十字派遣団を迎えて語った言葉を、ジュノーの本から引用する

  「人命と人血の至高の価値が忘れられている。しかも人の尊厳までも」
  「武力は人間の問題の解決にはなり得ない。武力は無力である。それは最後の極め手にはなり得ない・・・私のようなプロの殺戮者がこういうと奇妙でしょうが」
  「現在の武器と、開発中の武器とで、新たに戦争が起これば、価値あるものは何一つ残らないだろう」
  「余りにも多くのものが失われた。肉体の消耗は余りにも大きく、ここ二十年か二十五年は次の大戦は起こり得ないだろう。しかしそれから後はどうなるのか。我々が人類を人類自体から守るため、全力を尽くさなければどうなるのか」
  マッカーサーは仕事のあることを告げに来た将校を、既に二度も追い払っていた。彼は二十分も話し続けていたが、その声は一層切迫したものとなった。
  「赤十字は控え目すぎる。影に隠れすぎている。その活動は負傷者を救助したり、物質的援助を組織するだけに限定されるべきではない。目的が限定されすぎている。もっと積極的になるべきだ・・・」
  そして彼は現実主義者らしく、最後を次のように締めくくった。
  「唯一の問題は、この考えを弁護し、この信条を流布するに足る手段を投入出来るかどうかを算定するだけである・・・資金はあるか・・・人材はあるかを」



「あの証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか」を最後に、ジュノー博士は広島・長崎の文字さえ書かないのである。何があったのか?

訳者は「増補版に寄せて」(一九九一年)の中で、「一九七八年九月十六日、日本の新聞は『ジュノー博士が原爆投下後の広島、長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した』という内容のニュースを社会面トップで報じた。私は訳者あとがきに書いたように、翌年九月にジュネーブ入りした。その時に面会したミシェル・テステュ博士には、この報道の事実関係も質した」と書いている。

訳者丸山幹正はジュネーブで多くの関係者に会う。しかし、米軍が関与したことを証明するような資料を発見できなかった。

しかし、この謎に挑んだ大佐古一郎によって、あらぬことが明らかにされるのである。


鬼塚英昭 原爆の秘密 国内編 第五章 見棄てられた被爆者たち p216-229より

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消費増税法案を閣議決定=14年8%、1510%に―首相「今国会成立に全力」 2012年330日(金)10:05 (時事通信)
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-120330X584.html

予定通りカルトしている。

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2015年で西暦が終わる。
世界大統領が誕生する。

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/4e300d75f3073de4d87017043753afc7

東京都の石原慎太郎知事、国民新党の亀井静香代表、民主党の小沢一郎元代表、みんなの党の渡辺喜美代表、大阪市の橋下徹市長、名古屋市の河村たかし市長が、政界再編・連立政権の準備運動に入った

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by oninomae | 2012-03-30 20:20 | ホロコースト  

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