日本の行った戦争とは結局何であったのか 1
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist1_2_5.htm より その1
マルクス・レーニン主義は、共産主義の拡大に貢献するいかなる侵略も「正義」であり「聖なる戦争」であると定義している。
共産主義がロシアから満州、朝鮮を通じて南下膨張をもくろみ、中国においても毛沢東に指導された共産党が、蒋介石の国民党軍と内戦を繰り広げつつも(中国内戦の犠牲者は100万人を超えると言う)成長しつつあった状況を認識しなければ、我々の祖先が抱いた「危機感」は到底理解できない。
明治新政府が驚くほどスムーズに誕生したのは、欧米列強の侵略に対する「危機感」が、国を一つにしたからである。(引用注:結局は、クラウンに使い回されたわけですが) 明治時代に日本がとった国策は、めざましい東方膨張をつづけたロシアの南下防止と黒船以来の米英等西欧列強と対等に渡り合う為、まず急速に国家体力(経済・軍事)強化する事に比重が置かれていた。当時の日本には、隣国中国が欧米列強に侵食される有り様をまのあたりにし、「もし亜細亜の地図から中国が消えたらなら、日本以外の世界は全て白人の所有に帰する。その次は日本である。」という危機感があった。それを防ぐには、中国に改革をもとめ日中が共同で強い亜細亜を作る必要があると言う考えがあった。(小寺謙吉著、「大亜細亜主義論」)

〈中国地図:ニコライエフスク港、通州、蘆溝橋、上海、南京等、事件上重要な大陸の都市の位置を示す〉
大正6年(1917年)、レーニンに指導されたロシア革命の成功は、列国に強い脅威を与えた(引用注:クラウンは喜んだ)。新政権に反対するチェコスロバキア軍がシベリアに追い詰められた為、日本は大正7(1918)年8月、米英と共にシベリアに出兵するが、このあたりから日本の対ロシア政策は、「防共」の性格を持つようになる。

(注) 尼港(ニコライエフスク港)事件[1920]について: 現行の歴史教科書には、史実の一面しか伝えず結果として子供たちに偏った歴史観を植え付ける記述が多い。その典型の一つがシベリア出兵に関する記述である。 「中学社会 歴史」(教育出版)には、「世界をゆるがした10日間」と副題をつけてロシア革命を賛美する一方、「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」(下線筆者)と説明し、日本の立場を一方的に悪く子供たちに教えている。このような説明だけを聞いていれば、日本は全くの悪者にしか思われない。そしてそもそもなぜ各国がシベリアに派兵したのか、またなぜ日本がそこに軍を駐留させる必要があったのか、そして日本居留民が多数虐殺された尼港事件について、全く説明が無い。尼港事件における我が軍の奮戦は、書けばそれだけで一冊の本になるほどだが、誌面の制約上要点のみ記述する。 (大正10年、半島新聞社がまとめた「大戦終結世界改造史」の中にこの事件に関する陸海軍全戦死者376名の名簿と、共産パルチザンによって殺害された700名近いの日本人居留民に関する詳しい記録がある。) 追記参照:尼港事件を忘れるな!

まず現行教科書における根本的な事実誤認であるが、「共産主義革命によってロシア全体が直ちに自由と希望に満ちた国家になった」かのような理解は全く事実に反する。現実には、ロシア政府が流血の革命によって転覆し、地方に至ってはまさに無政府状態が出現した。 多数の囚人が送られていたシベリアでは、(欠落?)あったのが牢から出され、これが凶悪な共産パルチザンを形成するに至った。シベリア方面では、まだ(保守派である)ロシア極東総督、ロザノフ中将始めコルチャック提督などが革命派勢力(共産パルチザン)と戦っていた。革命派は、外国勢力追放を叫び各地で外国人の襲撃事件を起こした。
日本側からすれば、革命派勢力に対抗する「友好穏健な政権」がシベリアに生まれる事は、極東の平和と日本居留民の安全みならず、日本の安全を守る利益につながるものであった。地理上シベリアは、北海道樺太に直結しているからである。
残念ながら大正9年、オムスクにあった穏健派政府は共産過激派の攻撃を受けて崩壊し、これに伴ってアメリカ、イギリスが撤兵してしまった。そのため均衡を保っていた、日本の防衛線が極度の戦力不足となり、補充の為やむなく第12師団を派兵せざるを得なくなったのがシベリア出兵の実状である。
大正9年(1920年)1月29日、ロシア極東の尼港(ニコライエフスク)市(樺太とシベリアとの接点にあたる)は、トリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンに包囲された。当時、ここには約1万5千人のロシア人一般市民、約1000人の中国人、約500人の朝鮮人、及び約700人の日本人が住んでいた。またここを守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊と無線電信隊の40名、それから保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ぶ)合計しても約500名のみであった。
共産パルチザンは、策を用いて和睦すると見せかけ市内に入るやいなや、このロシア白衛軍の将兵を捕らえて殺害し、合わせて一般市民の中から「有産智識階級」とユダヤ人を選んで虐殺をはじめた。共産パルチザンは、黒龍江の結氷を破り、有産智識階級を殲滅する為、銃剣で突き刺して次々と凍る流れに人々を放り込んだ。これによって「有産智識階級」とユダヤ人約2,500人が惨殺された。 (引用注:共産主義者でないユダヤ人も殺された)
我が日本守備隊は、これを黙視できぬとして共産パルチザンに抗議したが入れられず、敵は逆に守備隊の武装解除を要求してきた。敵は多勢をもって日本守備隊を侮蔑していた。 仮に武装解除に応じても、無抵抗で虐殺されるのは誰の目にも明らかであった。やむなく石川少佐以下、約400名の日本守備隊と在留邦人50名の義勇軍は、生死をかけて、数の上では10倍に勝る共産パルチザンに対して市街戦の火ぶたを切った。この戦闘は筆舌に尽くしがたい。追い詰められた日本側は、石田領事以下数十人が燃え上がる日本領事館と運命を共にした。日本守備隊は、河本中尉以下121人の兵士が3月17日まで頑強に抵抗したが、敵は再び策を労して、「山田旅団長の停戦命令」を偽造した。河本中尉は、「停戦命令に従わなかった事が他日国際上の問題となることを心配し」これを受け入れた。
ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。
残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。 この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。
以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。
以上のとおり、日本守備隊はいたずらに撤退を引き伸ばしたのではない。撤退するにも撤退できなかったのである。冬のシベリアは海が凍る為、小樽からの救援部隊も容易に近づけず、陸上からの救援も40日を要したと言う。
これだけ多数の日本人が共産党のパルチザンに殺害された事件は、「一大国辱」として全国諸新聞に報道されていたにもかかわらず、現行の歴史教科書がこの事件に全く触れずに日本の立場のみを悪くするような記述に終始するのは、教科書の執筆者が「共産主義にひとかたならぬ共感、あるいは好意を抱いている」からではないだろうか。
前述の通り、当時派兵したのは日本だけでなく、各国が共産主義の拡大に脅威を感じていたのであり、どこの政府も現行教科書が記述するような「共産主義革命」を歓迎していない。(引用注:今では言うまでも無いが、これは、誰かさんたちにとっては表向き)
事実、当時レーニンの過激派政府は、列国のいずれからも承認されていない。日本は、米英と比べてロシアに対する近さが違う。シベリアの赤化は日本本土に対する直接的脅威であった。日本の安全を守ろうとした先祖の行為を、子孫である我々がなぜ責めるのか?
歴史と言うのはこのように、「立場が違えばまったく正反対の見方」ができるものである。
日本の子供が学ぶ日本の歴史教科書は、全くと言って良いほど日本の立場で書かれていない。
昭和に入ると「防共の自衛的国策」は一層顕著となる。加えて、「欧米列強(白人)の支配からアジアを解放し、日本を中心としたアジア人の共栄社会を作る」という二つ目の意義が、当時の日本の側から見れば確実に存在した。
逆にアメリカこそ、西へ西へと領土的欲望を拡大してきた歴史を持ち、その勢いで太平洋の島々を次々と植民地と化し、フィリピンにまで至った第一級の侵略国である。(引用注:米ソ挟み撃ち、日支闘争化作戦ですな) アメリカは、たまたま南北戦争という内戦の為に、他のヨーロッパ列強よりも中国の分割争いに出遅れた。その為時を同じくして、太平洋を挟んで頭角を顕わしつつあった黄色人種の国、日本が、邪魔で仕方がなくなったのである。アメリカは、当時も今も「自国の国益を最優先させる自己中心的な国」に変わりなく、むしろアメリカのほうが、日本を政治的に孤立させ、経済的に封鎖し、人種的に差別することによって戦争に追い込んだと言う証拠は、いくらでも挙げることができる。(注)

(注)オレンジ計画[War Plan Orange](対日戦争に関するシュミレーションは、日露戦争の直後からすでに準備されていた)、土地所有禁止法、排日移民法、アメリカの工作による日英同盟の破棄、ABCD包囲網など。 最後には、ハル・ノート[Hull note]のような日本がとても飲めない無理難題をわざと突きつけた。こんなものを突きつけられたら、バチカンのような小国でさえ銃を取って立ち上がっただろうと言われる。ちなみにハル・ノートについて、東京裁判における当時の東郷外相の宣誓供述書にこうある。 「我々は、アメリカは明らかに平和解決の為の合意に達する望みも意思も持っていないと感じた。けだしこの文章は、平和の代償として日本がアメリカの立場に全面的に降伏する事を要求するものであることは、我々にも明らかであり、アメリカ側にも明らかであったに違いない。(中略)この挑戦に対抗し、我々自らを護る唯一の残された道は、戦争であった。」
終戦後まもなく(1947年)出版された「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」によると、

ワシントン中枢から現地司令官宛ての電報で、「先に仕掛けさせよ、それまで手出しはするな」と記された公文書が存在する。また、1940年10月7日の日付のある、海軍情報部極東課長の報告書に、「日本を公然たる戦争行為に誘い込む」とあり、結果から見るとアメリカの方こそ、日本を戦争に巻きこむ機会を覗っていたことは、明らかである。

こう言う事実を書けない事が、「アメリカの作った」日本の教科書の限界であろう。この点も教科書問題の重要なポイントのひとつである。(注)

(注)日中戦争についても、これに類する誤解がある。一般には、日本が中国を侵略したとしか理解されていないのではないか。一昔前の歴史解説書には、「日本の軍部が、蘆溝橋(北京の郊外)における軍事衝突を利用して、戦線を中国全土に拡大した」と異口同音に書いてある。この銃弾は、「日本側から発射された」と言うのが戦後の定説であった。理由は、後に触れるが「支那事変は、全て日本軍の陰謀で起こされた」と言う判決が東京裁判で下ったからである。しかし、真相は全く違う事が、さまざまな資料から明らかにっており、定説はすでに入れ替わったと言って良い。(田原総一郎氏も、「現在では、中国側の発砲と言うことが定着している」と述べている。)

詳細は他の章に譲るが、昭和12[1937]年7月7日午後10時、最初数発の銃弾が、蘆溝橋付近に駐屯していた日本軍の中隊に撃ち込まれた。(正式な部隊名は、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊、中隊長・清水節郎大尉)この時日本側は、中国側に軍使を派遣することで全く応戦していない。翌8日午前4時に再び発砲があったが、この時も事件の拡大を恐れた日本側は直ちに応戦していない。すると午前5時、中国側が本格的に攻撃を開始したというのが真相である。少なくとも、日本側は、最初に攻撃を受けてから6時間以上も一発も応射していない。しかも、両軍衝突後、わずか4日目に現地で協定を結び事態を収拾している。
日本側がしかけたものでは無いと言うもう一つの根拠は、当時北京周辺に駐留していた日本軍は5千人程度であり、しかも、その配置は蘆溝橋に備えたものではなかった。これに対して、宋哲元率いる中国第29軍は、少なくともその10倍の人員を擁しており、日本側があらかじめ計画して発砲事件を起こしたとは、とても考えにくいことである。(にもかかわらず、東京裁判で、一方的に日本に責任を転嫁する結論が出されたのは、どのような根拠があったのだろう?また、戦後の学者が、この判決を好んで流用したのはなぜだろうか?読者の皆さんにもお考え頂きたい。)
蘆溝橋の軍事衝突を日中の全面戦争に拡大したのは、実は蒋介石である。7月7日、当初、北支(北京を中心とする中国北部)で起こった小規模な軍事衝突は、8月13日、蒋介石が数万の国民党軍を蘆溝橋と全く関係無い上海に集結させ、日本人租界にいた居留民を包囲したことから中支(上海、南京を中心とする中国中央部)に全面展開することとなった。

当時上海には、日本だけでなく欧米諸国がそれぞれ租界を持ち、その中で居留を認められており(フランス租界が最も高級地)、自国民を護る軍隊の駐留も認められていた(最大の居留者はアメリカ人で居留民約4000人)。蒋介石には、敢えて戦場を上海に移すことにより、欧米諸国の関心を呼ぶ意図があったと推測される。
中国側の記録では、日本人居留区を包囲した国民党軍兵士は8万人とされており、攻撃を受けた上海の日本側は、当初わずか3000人の海軍陸戦隊のみで充分な装備がなかった(注)そのため、内地に援軍を求めざるを得なかったのである。(読者は、8万人の中国軍に包囲され、殲滅される立場に立たされた人々の恐怖を理解しなければならない。)
故に、当初北支事変と呼ばれた紛争も、支那事変(すなわち全面戦争)と改称せざるを得なくなったのが実情である。蒋介石は、上海に戦線を拡大するにあたり、日本と全面戦争を構える事を公言しており、(「抗戦中の全将兵に告げる書」他による)したがって、日中の全面戦争は、日本の軍部だけが好んで構えた事ではないことを記憶されたい。
(注)上海戦に参加した中国軍(国民党軍)は、チェコ製機関銃,ドイツ製高射砲、迫撃砲、野砲、重砲等の兵器と砲弾を豊富に持っており、日本将兵の証言にも「中国兵の去った後にはザルでかかえるほどの弾が落ちていた」とある。
関連
ベラルーシ訪問記
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/52d3640070198bf9393312e74c11f8d1
そもそも、第一次大戦後にドイツ・日本・フィンランドなどの枢軸国で軍国主義が起きたのは、ソ連の革命に対する正常な反応である(引用注:イルミナティの狙い通りでもあったが)。ロシア革命はハザール系のユダヤ人がウォール街のユダヤ人の支援を受けてロシアの国を乗っ取り、ロシア皇帝一族を虐殺し、ロシアやウクライナの富農や知識人を強制収容所に送って大虐殺したというユダヤ革命である。
ドイツや日本はこの共産主義革命の悲惨さを理解した上で、ロシア人を救うために独ソ戦争やノモンハン事件を起こしたのである。また、ドイツがユダヤ人を迫害したのは、東欧のハザール系ユダヤ人がロシア革命の主導者であったからである。私の認識する限り、枢軸国こそ正義であり、連合国は犯罪組織そのものである。
ソビエトのユダヤ支配は1953年に第二次大戦の英雄であったジューコフ元帥がクーデターを起こしてベリヤとカガノビッチを逮捕したことで終焉する。これはジューコフの最大の業績であろう。そして、ジューコフの最大の失敗は、ロシア民族を犯罪民族であるハザール系ユダヤ人から救おうとしたナチスドイツを滅ぼしてしまったこと、同様にロシア民族を助けようとした日本をノモンハン事件で倒してしまったことであると私は考えている。ジューコフはロシアの最大の敵であるユダヤ人の手先になって、自らの味方を滅ぼしてしまったのだ。
アルバート・パイクの世界操作計画
http://satehate.exblog.jp/6982937/
「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。 そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」

「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。 その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」


by oninomae | 2011-09-18 14:43 | 歴史・歴史詐欺捏造