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北鮮帰国事業

http://mirror.jijisama.org/page1.htm より その2

北鮮帰国事業

131 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/06(火) 18:55

(略)

さて、日本が戦後の混乱から抜けての、世の中が落ち着いてくるとな、それまでなりふりかまわぬ闇商売やらで、体面を気にせにゃならん日本人の勤め人や、統制にしたがってまっとうな商売をしとった日本人にくらべて、それなりに良い暮らしをしておった鮮人どもが世の動きについていけんでな、うまくやったものも少しはおったが、おおかたの鮮人の暮らし向きは落ち込んできたのぢゃよ。

そこへもってきて、自業自得とも言えんことはないが、アカじゃの興行師じゃの裏商売じゃのを除けば、普通の日本人からは鮮人はあまり相手にされんようになっておったでな、なかなか、日本にもいづらいことになったのぢゃ。

今では考えにくいぢゃろうが、朝鮮戦争が終わって、景気が悪くなった昭和30年代の前半はの、まだ日本の国の先行きもどうなるものかわからんころでの。日本人であってもブラジルやらドミニカやらへ移民が出て行きおったのぢゃて。

さ、そこで鮮人から「祖国北朝鮮に帰国させろ」という声があがったでの。なんの、再三ゆうたことぢゃが、内地に残っておった鮮人の本当の故郷はおもに南鮮ぢゃて、こりゃ少々おかしな理屈ではあったのぢゃが、ま、その当時は共産党がまだ夢を撒いておった時期での、日本人でも左翼の連中が「労働者の祖国はソ連邦」などと本気で言うておったものぢゃて、ま、それを考えれば不思議というほどのこともないかの。

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132 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/06(火) 18:57

さて、どういうつもりぢゃったのか、北鮮のほうも、日本からの帰国を受け入れるなどと宣伝しおって、大方の日本人は大いに同情して、人道上の見地からなんとかならんものかと奔走する御仁も出てきてな、なんとか実現にまでこぎつけたのぢゃよ。 (昭和33年、金日成が帰国歓迎の演説を行う)

なにやら、日本が気に食わんと騒いでおった鮮人どもも、これでやっと落ち着き先が出来たのかと、あまり鮮人に好意的ではなかった日本人でも、大いに歓迎したものぢゃ。

そうそう、吉永小百合という女優さんがおるぢゃろ、まだ子役だったころに「キューポラのある街」という映画があっての、その中で友達の鮮人役の子が、「今度国に帰ることになったの」というのに「そう、よかったわね」と答える場面があったのう。 これが、当時の日本人の本当の気持であったの。

なに、吉永小百合を知らんとな? ふむ、原節子嬢も美しかったが、小百合さんもまたこれで、なかなかぢゃったが。ま、これはどうでも良いことかの。

この帰国事業というのは、現代史上の珍事と言われておっての、なんでまた、こんなことが起きたのか、世界中のひとが首をかしげる話ぢゃて。

なんせ、東欧やベルリンに始まって、ベトナムのなんといったかの、そうぢゃ、ボートピープルというやつまで、共産党の支配を嫌って逃げ出すひとびとはいくらでもいたが、主義にかぶれたごく少数を除けば、わざわざ家族ごと共産党支配の国に集団移住した例など他にないでの。

偽りの地上の楽園

146 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/07(水) 23:35

(略)

今となっては、なんともげせんことぢゃろうが、ま、帰国船、帰国事業を了承した日本の当局側では厄介払いと考えていたフシもないではない。なにしろ、そのころ生活保護といえば鮮人ぢゃったで、金くい虫での、政府も困っておったろうて。 (昭和30年の在日朝鮮人の生活保護率は21.4パーセント)

ぢゃが、これの実現に向けて運動やら実務やらを担ったものはな、みな善意で動いておったのぢゃよ。

とはいえ、わざわざ北鮮まで出向いたくせに、接待だけ受けて、きちんと調べもせず見当違いの提灯記事を書きまくったしようのない新聞記者はのう、鮮人どもに恨まれても仕方がないの。  ま、騙したもんも騙したもの、騙されたもんも騙されたもの、信じたもんも信じたもの、というところが公平なところぢゃろうて。

考えてみれば、冷戦の真っ最中でな、アメリカとロシアが意地をかけて、どちらの政治が良いか住み良いかというのを競っておったころぢゃ。当時はまだ韓国との国交はなかったが、アメリカや韓国の反対を抑えての政治判断ぢゃて、運動が始まったころは、だれも簡単にいくとは思っておらなんだ。よう、がんばったものぢゃ。

これが実現したのが、昭和34年の暮れのことぢゃ、鮮人がぞくぞくと新潟港から北鮮に渡っていったの。新潟までの旅費のないものには、赤十字からぢゃったか、汽車賃まで出しての。

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147 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/07(水) 23:46

なにやらに追い銭ぢゃと言いおる口の悪いものもおったが、餞別代りとみな思っておったわ。

奔走した日本人も、なかなかかなわぬことと思っておったことが実現しての、喜んで見送っておったのぢゃ。

さて、鮮人が喜んで北鮮に渡っていくのを見て、大方の日本人はこれで日本に不満の鮮人の件はすっかり片がついたと思っておったのぢゃがの。なんの、そうはいかなんだ。

結局、この帰国船というのは尻すぼみでの、10万人に少しかけるくらいの鮮人が渡ったところで、もうだれも行こうとしなくなってしまったのぢゃ。

日本人にしてみれば、不思議での、なんであれほど望んでおった北鮮への帰国をせんのぢゃろうとな。無邪気に「いつ帰国するのか」 と知り合いの鮮人にたずねた日本人も多かったのぢゃよ。

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聞かれた鮮人も返答に困っての「祖国が統一するまで帰れません」 などと苦し紛れに言っておったの。

なんの、先に行った連中からのうわさが伝わってくれば「地上の楽園」どころか「この世の地獄」というのが本当のところぢゃて、行くに行けんというのが本音ぢゃ。

本心では、これはもう日本に住むしかないと観念しておってもな、こんな国に住めるか、北鮮は楽園ぢゃとは自分達から言い出したことでの、建前ではいずれ帰国すると言いつづけ、表向きは北鮮が地上の楽園ぢゃとな、ずっとごまかしつづけたのぢゃよ。

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鮮人の傷痍軍人

157 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/08(木) 19:39

(略)

さて、鮮人の不都合ばかり言うておっては、不公平というものぢゃ。少し話が戻るが、日本人の側の不始末も言うておこうかの。 ま、日本の恥になることぢゃて、あまり大きな声ではいいたくないことぢゃがの。

戦争に負けての、なんでも悪いのは軍国主義ということで、旧軍人はすっかり悪者にされての、日本政府は抵抗したようぢゃが、進駐 軍の命令には逆らえんで、軍人恩給も取り上げて、後は自分で食べて行けとな、道端に放り出すようにしおったのぢゃ。 (引用注:OSS計画ですな)

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哀れをとどめたのは、お国のためにと出征していって、かたわになって帰ってきていた傷痍軍人ぢゃて。 なかには、本当に食い詰めてな、ついには物乞いにまでおちぶれる連中もおったのぢゃ。

負け戦をおこし、戦前戦中は威張りくさっておった職業軍人についてはの、世間の目が冷たかったのはあたりまえぢゃろうが、兵役で出ていった傷病兵になんの罪があろうか。

講和条約が成って、日本が独立を回復すると、真っ先にこの傷痍軍人や戦没軍人遺族の援護の法律をつくっての、救済にのりだしたのぢゃよ。

158 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/08(木) 19:42

さて、そこまではよいのぢゃがな、法律が出来て、それなりに暮らしがたつようになったはずなのにな、昭和30年をだいぶん過ぎても、まだ、上野やらの人出のあるところでは、白衣に陸軍の戦闘帽の姿で物乞いをしておる連中がおったのぢゃ。

ちょうど、東京オリンピックに向けて、日本の恥になるような、むさくるしいところは、今の内になおさにゃならんと、あれこれとうるさくなったころでの、いったいあれはなんぢゃということになったのぢゃ。

ま、もちろんのこと、偽者もたくさんおったのぢゃが、なんと、しらべるとな、正真正銘の鮮人の傷痍軍人もまじっておったのぢゃ。

なんともうかつなことぢゃが、法律をつくるときに、大急ぎぢゃったで、鮮人の傷痍軍人のおることを忘れておったのかの。

今ではどうか知らんが、普通に日本に帰化するためには、生業のあることが条件ぢゃったで、不自由な体では、なかなか、それも難しかったろうに。

また、うっかり名乗り出れば、鮮人仲間から日本軍の手先ぢゃったと後ろ指さされんともかぎらんものぢゃて。

大島渚というお人がおるぢゃろ。テレビに出ては、すぐ怒り出すお方ぢゃ。知らんかの?

もともと、松竹の映画監督ぢゃったが、この人もお若いころは正義感に燃えておった方での、何という題名ぢゃったか、鮮人の傷病兵のことを記録映画を撮って、テレビで放映しては、世論に訴えたのぢゃよ。 (昭和38年日本テレビ「忘れられた皇軍」)

159 名前: これもぢゃ 投稿日: 2000/06/08(木) 19:43

番組を見た人々は恥じ入っての、十何人かの、鮮人の傷痍軍人が救済を求めて、裁判を起こしたのぢゃが、戦友会やらなにやらも応援したものぢゃった。

ぢゃが、法律的にはどうにもならんことのようでの、結局はこのひとびとに急いで日本国籍を与えることで決着したのぢゃ。

そもそも、戦地におった鮮人兵士はの、みな志願兵ぢゃったで、れっきとした皇軍兵士よ。それを忘れておった日本人は薄情ものといわれてもしかたないの。

さて、この裁判を先頭になった起こしたのは石という鮮人ぢゃったが、この方はの、志願兵ではなく、たしか、南方の飛行場設営に海軍の徴用でいって負傷した軍属労務者での、事情が事情ぢゃから、鮮人仲間から日本軍の手先だったなどとは言われんですむ立場ぢゃった。

で、裁判がうまくいかんで、そのかわりの救済処置にと、ほとんどのものが帰化したときも、毅然として帰化はせんぢゃった。

こころある人々は感嘆しての、暮らし向きはたとえ生活保護に甘んじても、民族の誇りを捨てぬということぢゃろうよと、なかなか、真似のできんことぢゃと、陰でその心意気を称えたものぢゃよ。

なんぞ、知らん、それから30年ほどもたった、平成の時代になってからの、このお人がたれに担がれたか、またぞろ同じような訴訟をおこしたときにはな、昔のことを覚えてる日本人は、ちと複雑な気持ちであったのう。 (平成4年東京地裁に行政訴訟)

ま、これはまだまだ、ずっと先のことぢゃったの。


帰化者への援護

167 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/09(金) 11:24

(略)

ふむ、ぢぢはの、そろそろボケはじめておるから、詳しい日付など年表でもめくってみなければ思い出せぬがの、この傷痍軍人の援護の法律ができたのはの、講和条約が発効してGHQに気兼ねをせんでもよくなってから、1週間もたたぬうちのことぢゃったよ。

あまりにやりようが露骨なので、皆、歓迎しながらも、内心あきれたくらいぢゃからの。

ぢゃからの、このお方のいう、GHQの支配下がどうのというのはどうやら間違いぢゃの。

当時はの、鮮人が横暴を極めておっての、なにかというと生活権擁護などと言って、数をたのんで市役所や県庁に押しかけ横車を押しとおしておったころぢゃで。鮮人よけの規則がついておったかの。

ぢゃがの、昭和40年に日韓の間で条約が結ばれるすこし前のことは、きちんとおさらいをしておこうの。

日韓条約交渉で、国家間補償を行った後にはの、鮮人個人への戦前戦中の補償・援護は韓国政府が行うことになっておったでの。

正しくはの、以後、日本政府からの援護を受けようとするものは、この時に日本国籍に帰化し、以後、韓国政府からの援護を受けようとするものは、そのままで帰化しないとしたのぢゃ。


168 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/09(金) 11:28

全部で何人の傷痍軍人が帰化することになったかは知らんがの、表にでていたかぎりでは、8割から9割とな、おおかたが帰化したのぢゃよ。 この時帰化した鮮人の元皇軍兵士は、あたりまえのことぢゃが、以後は日本人として該当する援護はすべて受けられたのぢゃ。

いささか、遅れてはいたがの、日本国は鮮人の元皇軍兵士を見捨てたままであったわけではないでの。

ぢゃから、このころの関係者はこの件はもうとっくに終わったことと考えていたのぢゃよ。

鮮人の傷病兵にはなんの援護もなかったというのは、実状を知っておって、日本の国を貶めるために言うておるのか、はたまた、都合の悪いことは隠したままを信じての受け売りかの。

帰化せなんだ鮮人の元徴用軍属やらの傷病者が、この後に韓国政府からどのような補償や援護を受けたか、受けられなかったかは、韓国政府と本人の関係なのぢゃ。

>ちなみに5月の31日に国会において在日外国人
>の元軍人軍属とその遺族に対して一時金を支給
>する法律が成立ました。

そうか、そうか、それはよかったの。どうやら、韓国政府は日本に住んでおるものにはなにもせなんだようぢゃからの。

さて、昭和40年に日韓条約が成ってからのあれこれの騒動については、またこのつぎぢゃ。


永住権と国籍

193 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/10(土) 11:11

(略)

さて、昭和34年の暮れにはじまった北鮮への帰国騒ぎはの、数年もすると、どうやら北鮮が「地上の楽園」とはだいぶん話の違う様子ぢゃと知れてきての、おまけに、日本も高度経済成長の波にのりはじめたところで、在日鮮人の生活も格段に安定してきたものぢゃから、帰国船自体は細々とだいぶん後まで続いたが普通の鮮人はもうこれに乗ろうとはしなくなったのぢゃ。

昭和40年になって、日韓の条約が成っての、国交が開かれると、日本が承認する正当政府は大韓民国ということになって、その略標記は「韓国」となったのぢゃ。

この条約交渉は15年もかかったでの、数年でかたがつくと考えていた日本政府にとっては、あれこれと不都合も出てきておった。

日本に住んでおる鮮人の法的な地位などもそうぢゃった。

そこで、日韓の国交開始にともなっての、日本におる鮮人の地位に関する協定も結ばれての、以前から日本に住んでおる鮮人の永住権を法的に認めることになったのぢゃよ。

さて、この永住権の手続きには、当然のことぢゃが、韓国籍であることが前提ぢゃった

ここで、韓国の在日組織である民団と北鮮の在日組織である総連がな、もともとは一律に朝鮮籍であるものを朝鮮籍のままか韓国籍にするかで綱引きをはじめたのぢゃ。5、6年も続いたかの。

194 名前: つづきゃ 投稿日: 2000/06/10(土) 11:12

当時の組織としての実力はな、共産党の細胞組織を基盤にした総連のほうがずんと上ぢゃよ。人材も十分におったし、末端までよく管理されて、面倒見もよかったでの。

一方、民団のほうはと言えば金持ちにはゴマをすり、貧乏人には威張り散らすという、小役人を漫画にしたようなありさまぢゃった。

そうそう、ついでに言っておくとの、国交開始直後、昭和4O年当時の韓国に様子を見に行った鮮人も多いのぢゃよ。

その当時に高校生ぢゃった鮮人の記録を読むとな、京城の街は自分と同じ年代の乞食だらけで、とても帰国してなんとかやっていけるような状態ではないと書いてあるの。

すでに一財産築いているのでもなければ、韓国への帰国は無理、北鮮へ渡るのは論外、そこそこ安定しはじめた日本での生活基盤を失いたくないとなれば、自然と永住権の取得に向かうのは人情ぢゃ。

本来ならば、ほとんどの鮮人がこの時に韓国籍になり、永住権を取得しておかしくはなかったのぢゃがの、まだ、帰国船で10万人近い鮮人が北鮮に渡って人質同様になってから、何年もたってはいない時ぢゃで、親類縁者のことを気遣えば、簡単にはいかぬ事情の鮮人も少なくなかったのぢゃ。

結果として、それまで圧倒的に北鮮支持の多かった鮮人ぢゃが、永住権の手続きの締め切りまでには、半分以上が韓国籍になり、永住権を取得して逆転したのぢゃよ。

これが昭和の40年代の半ばころまでのことなのぢゃ。このころから、戦後生まれのものがそろそろ成人しはじめての、なにやらわからんことになるのぢゃが、それはまたつぎのことにしようの。

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by oninomae | 2011-09-16 20:00 | 歴史・歴史詐欺捏造  

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