今では、鮮人が暴れおったことは、内緒の話になっておるようぢやがな
http://mirror.jijisama.org/page1.htm より その1
鮮人という呼称
92 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/05/30(火) 19:06
(略)
戦争前のことぢゃよ。昔のことぢゃ。 (朝鮮人の半島人に対し、台湾人は本島人、旧来の日本人は内地人といった)
戦中は内鮮一体
101 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/05/31(水) 22:24
(略)
その前にの、わしらにとってはあたりまえすぎて、いちいち念をおすようなことではないのぢゃが、お若い方が勘違いをされておるといかんで、言っておくことがある。 戦前、戦中のことぢや。 日本はの、支那とずっと戦争をしておったでの。味方の支那人もおるにはおったが、皆は支那は敵国と考えておったのぢゃ。 逆にの、朝鮮は日本の内での、鮮人は日本国民であったのぢゃ。
ま、皆が皆、心のそこからそう思うていたかはともかくの、「内鮮一体」というての、差別してはいかんというのが世間の建て前での、裏にまわってはともかく、表向きでは鮮人を差別することはまかりならんことだったのぢゃ。
ぢやから、支那人のことを「ちゃん」とか「ちゃんちゃん」と呼んでも咎められるこたはなかったでの、ま、さすがに「ちゃんころ」 となるといささか下品と顔をしかめられたが。
102 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/05/31(水) 22:25
それにくらべて、鮮人を堂々と「よぼ」などと呼ぶことはがらの悪い連中ならいざ知らず、一般人にはできかねることでの、面と向かえば「朝鮮の人」やら「半島出身者」などと言い回しておったものぢゃ。
紙の上では、やはり朝鮮人とも書いたが、鮮人と書くことも多かったの。別にだれもそれがいかんなどと思ってはおらんかったし、苦情など聞いたこともないの。 はて、話が長くなったの。年寄りは夜が早いで、戦後の話はまたつづきぢゃ。
戦勝国民と自称
105 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/01(木) 20:30
さての、どこまで話したかの、おおそうぢゃ、戦後のことぢゃ。
戦争に負けての、日本人がぺしゃんこになっておった時のことぢゃて、ことに都会では焼け跡に食べるものも満足にないありさまで、人のこころもすさんでおったものぢゃ。
渋谷あたりでは、支那人や台湾人が自分たちは戦勝国民じゃというて、暴れまわっておってな、鉄砲やら機関銃を持ち出して、日本の法律など知らんなどといいおって、えらい威勢ぢゃった。 (渋谷事件) もともとやくざな支那人どもだけが騒いでおったもので、蒋介石の軍隊が日本にはこないということがはっきりしたらば、そのうちにおとなしゅうなったの。
ま、日本人から見れば蒋介石の軍隊に負けたつもりはないが、たしかに戦争をしておった相手ぢゃし、その連合軍仲間の米国にとことん負けたのぢゃから、支那人どもが戦勝国民というてもあながち嘘というものでもなかったでの。 それでの、支那の政府が言うには、これからは支那とは呼んでくれるな、中国と呼んでくれということでの。
日本が負けた後も、蒋介石軍は日本人にそれほどむごいことはせんで、あっさり国に帰してくれたもので、その恩義もあっての、そういうことならばお安い御用、ということになったのぢゃ。 (昭和21年6月外務次官が新聞社、出版社、大学等に対して「支那」という名称の使用をさけるよう通達した)
広島や岡山の連中は驚いたろうがの。
もちろん、裏ではともかく、表立って「ちゃん」などと呼ぶのはもってのほかの御法度ぢゃ。
106 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/01(木) 20:34
さて、これを見ていた鮮人がの、自分達も敗戦国の国民ではない、戦勝国民だといいだしたのぢゃ。
これにはみなあきれかえったが、なんの言うだけではない、数をたのんで支那人同様に暴れ放題、それどころか、支那人どもがおとなしくなった後もずっとやりたい放題ぢゃった。
ずいぶんと嫌がられ、恐れられたものぢゃ。
それでもって、支那人を支那人と呼ばずに中国人と呼ぶということなら、自分等も鮮人やら半島人などとは呼ぶなということになっての、なにやらみょうな理屈を言い出しよった。
本当は朝鮮人と呼ばせずに、ほかの名前がよかったのぢゃろうが、あいにくと、まだそれに代わる国の名前はなかったでの。
後になっての、南鮮が韓国になった時には、今度はあらためて朝鮮人と呼ばずに韓国人と呼んでくれということになったが、北鮮は相変わらず国の名前が朝鮮のままぢゃから、そのあとは混乱するばかりぢゃった。
三国人は戦後の言葉
(略)
さて、そうぢゃったかの、GHQというのは連合軍の総司令部のことぢゃから、たとえ、進駐したのが英国軍であってもGHQの管轄下に違いはないかもしれんがの。
したが、ぢぢの言っておるのはそのことではないでの。
それまで、この日本で「中国」「中国人」というたら、自分達の住んでおる土地や自分達のことだと思いこんでおった広島やら岡山のもんが、支那や支那人といっしょにされしもうたで、さぞ驚いたろうと、いやいや、ただの冗談ぢゃよ、ぢゃが本当のことぢゃ。 ぢゃがな、皆がそう呼ぶようになって、もう50年以上にもなるとな、たれも不思議に思わんようになるものぢゃ。
逆に、ぢぢのようにいまだに支那人などと言うておるほうが、ボケた年寄りということぢゃろうて。 言葉というものは、そうやって変わっていくものぢゃの。
112 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/03(土) 20:16
さてと、鮮人が、自分達は日本人ではない、戦勝国民ぢゃから、日本の法律など守ることはないなどと、あばれ放題で、恐れられておったこと、鮮人や半島人などと呼ぶなと言い出し、はては朝鮮人とも呼ぶなと言い出した、というところまでは話したの。
鮮人どもの名誉のために、本当の事を言うとくとな、そんなとんでもない事はいわんで、当時は敗戦国民の日本人になってしもうた鮮人もちゃんとおったのぢゃよ。
戦前に内地に来ておったのは、徴用動員やら食い詰め組やらで流れてきておった鮮人ばかりではないでの。もっと立派な職業についておったものも、数は少ないがおったのぢゃ。
いまでは、当時の内地の鮮人が何か無学な貧乏人ばかりであったように思われているがの、官吏というてもわからなければ、帝大を出て国の省庁に勤める公務員などもおったのぢゃ。 そうした人はの、自分は朝鮮出身の日本人だからとさっさと国籍を日本人に切り替えおっての、そのまま勤めておったのぢゃよ。
そのほかの鮮人ぢゃて、昭和も23年になるまでは、そもそも朝鮮人の国などないのぢゃから、国籍も日本のままだったのぢゃ。
113 名前: これもぢゃ 投稿日: 2000/06/03(土) 20:17
鮮人が、自分達は日本人ではない、戦勝国民(だれも認めてくれんもので、次には解放国民などと言っておったの)ぢゃなどと言い出さねば、帰国するもの以外はそのまま日本国籍になったのぢゃろうが、なにせ、自分達で違う違うと言い張っておったでの。
さて、そうなると、今度は日本人のほうが「朝鮮人」などという言葉などはまっぴらという気分での、しばらくは「三国人」などという言葉を使うようになったのぢゃ。
「三国人」というのはの、米英やらロシアやらの「戦勝国民」でも日本の「敗戦国民」でもない連中という意味での、台湾や朝鮮の連中を言っておったものでの、もともとは悪い意味などないて。
ただの、昭和23年になって韓国やら北朝鮮やらが国を作り、韓国系の朝鮮人が、これからは朝鮮人と呼ぶななどと言い出しよったのでの、戦争に勝ったわけでもないのに、人の弱り目につけこんで威張り散らすものどもという意味も込めて、朝鮮人を「三国人」と呼んだのもたしかぢゃて。
それがしばらくたつと、悪い意味だけが残ったということぢゃろうの。
さて、「ちょん」の話もしておきたいのぢゃが、年寄りは夜が早いで、それはまたこの次ということにしようの。
共産党と鮮人暴動
118 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/04(日) 21:33
(略)
さてと、戦後しばらくのことまで話したの。終戦後の鮮人のことを話すには、共産党のことも言っておかんとその後のことがわからんでの。 ちと面倒な話になるのぢゃが、ま、ついでぢゃからお話しておこうか。
戦争に負けて、進駐軍の天下になるとな、これまでお国にさからう非国民だのアカだのと罵られおった共産党がな、わが世の春とばかりに羽振りをきかせはじめたのぢゃよ。 悪く言うものはロシアの手先ぢゃ、中共のスパイぢゃなどといっておったがな。 ま、ずんと後になって、本当にその頃はロシアの言うとおりに活動しておったことがわっかたのぢゃが。
で、この共産党に鮮人どもがすっかりとかぶれおってな、元々のところ9分どおりが南鮮出身のくせに、逆にほとんどの者が共産党とロシアが占領した北鮮を支持しおったのぢゃ。 (昭和20年10月共産党色の強い団体であった朝連(在日本朝鮮人連盟)結成)


アメリカとロシアの仲がおかしくなって、共産党が進駐軍から見放されると、浮かれ気分で共産党に入った日本人は潮が引くようにやめていったがな、北鮮を支持した鮮人はごっそりと残ったのぢゃよ。(昭和24年、破防法の前身である「団体等規制令」により朝連が解散)
120 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/04(日) 21:39
朝鮮で戦争が始まったときには、共産党は非合法での、講和条約が成って、日本が独立を回復した頃に、共産党があれこれと暴動をおこしたのぢゃ。 (朝鮮戦争昭和25-28年、サンフランシスコ講和条約発効27年)(26年民戦(在日本朝鮮統一民主戦線)結成、日本革命をめざし反米闘争を行う)
大きなもので、血のメーデー、吹田事件、大須事件などというのがあっての、どれも鮮人が先頭になって暴れたものぢゃ。 (いずれも昭和27年)

今では、鮮人が暴れおったことは、内緒の話になっておるようぢやがな。なになに、そのころの新聞をみれば一目でわかることぢゃよ。
この時に捕まった鮮人を南鮮に送り返す、強制送還するぞと、日本の警察が鮮人の団体、今の朝鮮総連をおどしての、強制送還をせんかわりに、二度と鮮人は日本の政治に口を出さんことで手打ちになったのぢゃ。
なんせ、日本でなら懲役の3月の1年ので済むことが、当時の南鮮に送り返されれば、そのまま銃殺ぢゃて、鮮人の主だったものも、驚いたろうて。
そのあと、鮮人の共産党員は日本の共産党を抜けての、北鮮の共産党、労働党かの、ま、同じことぢゃが、そこに入ることになったのぢゃ。 (昭和30年、日本共産党下の民戦を解散し朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)を結成)
これが、終戦から昭和の30年から少し前までの話ぢゃ。
ちと、話がまわりくどくなったが、これを話しておかんと、この後の帰国船さわぎのわけがわからんでの。








南鮮と暴力団
124 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/05(月) 19:22
(略)
さてと、脱線ついでぢゃ、共産党にかぶれんぢゃった鮮人どものことも話して置こうの。
鮮人というのは、どうも極端に走る僻があるようでの。アカと言っても分からなければ、共産主義に行かなかった連中は反共主義といってな、今の右翼にいったのぢゃ。ま、大まかなところ、そのころは共産党支持の北鮮組が8割に右翼支持の南鮮組が2割というところかの。
前にも言うたが、内地におった鮮人の9割5分以上、ほとんどは、もともと南鮮の出身ぢゃよ。
そりゃ、本当に共産党員やら右翼ぢゃったものの数はそんなにおおいわけではないで、旗色というか、おお分けしてのことぢゃ。 本当のところでは日和見というか、どちらでもないものもおったろうが、どちらでも良いと言えば両方からいぢめられたでの。
南鮮組が少なかったのはな、終戦後しばらくは南鮮に帰ることは簡単ぢゃったで、みなそっと帰ってみて、こりゃ駄目だと思うたものが日本に残るか、戻ってきたのでの、本当に故郷が恋しい連中はさっさと帰国してしまっておった、ということもあるのぢゃよ。
なにせ、戦後の半年で200万人からいた鮮人がどんどん帰国してじきに60万人ほどまでに減ってしまったくらいぢゃからの。
125 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/05(月) 19:23
なんのなんの、帰れん理由など、暮らし向き以外にあるわけもないのぢゃて。
さて、この少数派の南鮮組はどうかというと、これも日本人には評判が悪かったのぢゃ。 なぜと言うてな、ヤクザというか暴力団が多かったのぢゃよ。日本人でも暴力団と右翼の二足のわらじというのがおおいのぢゃが、鮮人の右翼はことにそうでの。

一時は日本のヤクザや暴力団の半分とは行かぬが、三人に一人は鮮人だったのぢゃよ。今ではどうかの。


それとな、南鮮、いやもう韓国ぢゃが、その大統領になった李承晩というのが日本嫌いでの、

朝鮮近くで漁をする日本の漁船をどんどん捕まえて、帰そうとせんで、日本人はみな腹を立てておったでな、自然と日本におる韓国派の鮮人も白い目で見られておった。 (昭和27年領海外に「李承晩ライン」設定)




さて、そんなわけで、昭和の30年頃には、鮮人はどちらも日本人から嫌われておったのぢゃが、なに、鮮人が暴れたことなどすぐ忘れてしまうのが日本人の良いところでな、それに、詳しいことなど知らんから、共産党支持の北鮮組を北鮮の出身者と勘違いしてしもうてな、故郷に帰るに帰れん気の毒な連中とまで思った日本人も多かったのぢゃ。
なんの、大いに勘違いなのぢゃが、鮮人どもは自分に都合のよい勘違いには口をつぐんでおるでな。ま、こりゃ、鮮人だけのことではないぢゃろうが。

Franziska Donner was born in the municipality of Inzersdorf, which would be incorporated into Vienna in 1938. She worked at the League of Nations in Geneva as an interpreter, diplomat, and hostess.
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李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に影響を与えている。


by oninomae | 2011-09-16 19:57 | 歴史・歴史詐欺捏造