台湾人が見た終戦直後の朝鮮人 台湾人SAI KONSAN
先の、
現実にオウム真理教とロシア政府との仲を取り持った人物は、加藤六月、草川昭三、後に山口敏夫が関っている。この三人の政治家のなかで、とくに熱心だったのが草川昭三である。では、草川昭三とはどんな人物なのか。
草川昭三昭和三年生まれ。名古屋第一工芸高卒。愛知県選出の衆議院議員。最初は民社党から出馬、後に公明党となる。当選七回。 早くから在日朝鮮人の差別問題に取り組み、公明党のなかでも朝鮮半島に明るい人物とされる。
に関して、その前段階を思い出しておかねばならないと思います。(よくご存じの方も多いかと思いますが、意外と知られていなかったりもするので、載せておきます。こういうものは、自分でタイプう打ちしなくても検索で出てくる便利な時代となりました、今のところですが)
台湾人が見た終戦直後の朝鮮人 台湾人SAI KONSANの著書
http://nandakorea.sakura.ne.jp/frame.html の一部
「台湾人と日本精神」 ~日本人よ胸を張りなさい~ から抜粋。※著者は岐阜の航空学校に所属していた。
◆1945年8月15日・・・
1945年8月15日、日本は敗戦した。
山奥での作業中に年輩の日本兵(教官)が「負けた!」と隊からの伝令を話したまま、呆然と立っていた。
我々(台湾人生徒)は何が起こったのか全く分からなかった。
(中略)
しかし隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを表現していた。しばらくして、敗戦の事実が我々、台湾人生徒にも正式に伝達された。悔しさと無念の気持でいっぱいになり、溢れる涙で頬を濡らした事を鮮明に覚えている。無性に悔しかった。他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
しかし、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、衣服倉庫を集団で強奪していた。滅茶苦茶な暴虐・強奪の有様だった。
我々は複雑な心境でそれを眺めていた。
(中略)
敗戦は、それまで1つだった国民を3つの国民に分けてしまったのだ。
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◆1945年8月17日・・・
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で武装解除が始まり、日本人は復員する事が決定した。
(中略)
しかし日本人がいなくなると、武器倉庫や飛行機etcの警備が出来ない。そこで連合軍が来るまでの約2ヶ月間、「学校・練習場・格納倉庫・武器倉庫・飛行機」etc・・・全ての軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守る事になったのだ。
「朝鮮人は信用できない。だから君達(台湾人)が守ってほしい」・・・そう言い残して日本人上官は去った。
台湾人生徒はこれまでの経験に照合し、了解した。
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◆帰国の為に汽車で日本の九州へ・・・
急な日本の敗戦で、私は心の切り替えが出来なかった。日本兵の軍服で汽車に乗っていた私は、周囲からは敗戦で消沈した日本人に見えたのだろう。
8月15日から急に横暴になった朝鮮人に嫌がらせされた。座席に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれた。取り返そうとすると、「お前はなんだ!朝鮮人を侮蔑したな!降りて来い!」と、たちまち数人に囲まれてしまった。
一人と多数・・・勝てない・・・。
「ごめんなさい。私の勘違いでした」と謝り、ピンチを逃れる事しか出来なかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間・・・朝鮮人は執拗に私と日本人乗客を苛め続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、「次の駅で窓から降りろ!」と命令し、苛めていた。朝鮮人の酷すぎる情けない行為を、私は内臓が沸騰するような怒りを感じながら眺めていた。
黙って見ているしか出来なかったのだ・・・。
(中略)
佐世保のキャンプで私は面白い場面に遭遇した。
あの朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章を着けた我々にお世辞を言いながら擦り寄ってきたのだ!それは中華民国が連合軍の一員であったからだ。
弱者には傲慢で、強者には媚びる・・・。 そんな朝鮮人の極端な習性を私は目撃したのだった。
しかし、大国の狭間で生存しなければならなかった環境が、そうした民族性を育んだのだから、今更、それを責めても仕方が無いだろう・・・。
おまけ
直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、 「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。 朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
(愛すべきニッポンの隣人達から)
++
こんなことは多数あったことを、いまや若者も知っておくべきでしょう。
私はアジアの友好を願って、なるべくこういう話を蒸し返さないように控えてきたのだが、最近、特に3.11以来、それは間違いだったと思わざるを得なくなってしまった。
http://www2.atwiki.jp/soka_gakkai/pages/30.html
また、学会員は学会の敵には容赦しません。以前、言論妨害事件において出版を妨害された学会についての本である”創価学会を斬る”の著者である藤原弘達氏が亡くなられたときの話ですが、
氏の葬式の日には学会員からなんとダンボール2箱分もの”祝電”が送られてきました。一般常識ではちょっと考えられないことですね。
この故人の葬式に祝電を送るような会員の存在を許す(もしくは学会の指導なのか)団体の考え方が正しいのか疑問です。また、その考え方を折伏という形で強引に押し付けてくるのはトラブル以外の何者でもないのではないでしょうか?
by oninomae | 2011-09-01 20:36 | 歴史・歴史詐欺捏造