「日本を今一度洗濯いたし申し候」 なぜ破壊されるのか タンポポ日記
http://blogs.dion.ne.jp/tanpopo0817/archives/cat_301111-1.html
タイトルの坂本竜馬が言ったという台詞が多用されている。先日明らかにしたが、私も竜馬と遠縁にあたるそうだが、そんなことは関係ない。
申し訳ないが、私は死んだ人より、今生きている人の方が大切だ。なぜなら、この世は死者の世界ではないからだ。
けれども、古代から現代に至るまで、何者かが現世の中に、死者の世界を持ち込んでしまった。
それが良い霊であるなら問題はないだろうが、復讐に執念を燃やしている悪しき霊である場合、この世にとんでもない悪影響を与えてしまうだろう。
特に宗教というものによって・・・
以下 ゲルハルト・ヘルム[Gerhard Herm]、「フェニキア人[Die Phönizier. Das Purpurreich der Antike、The Phoenicians: The Purple Empire of the Ancient World]」河出書房新社より抜書き

フェニキアの祭祀が西洋人の目に何か疑わしく映るのは、ギリシャ人とローマ人に受け継がれたバール=アドニスをめぐる伝説群のためよりは、ルキアノスの報告するような神殿売春と、礼拝の時にいけにえが捧げられたという噂のせいであった。
神殿売春は、今日では確証されたも同然と考えてよい。「良家の」婦人たちが神殿内で体を売るということは、古代オリエントの慣習に相応しているのだ。
―中略ー
神殿売春と公開の場での処女性の放棄とは、地中海岸とインダス河谷の間にある、オリエントのどの神殿においても行われたのだ。
神殿奴隷は、古いユダヤの礼拝堂の中ですら働き、ケデシム、すなわち聖別された人と呼ばれた。ストラボンは、カッパドキアのたった一つの町にこういう神殿売春婦が6000人もいたことを報告している。
―中略―
非難される彼らの宗教的実践の中には、すでに述べたように、神殿売春だけではなく、人身供犠も含まれていたのである。
「そして彼ら(ユダ国民)は」と、聖書(エレミア書、第7章第31節)には述べられている。
「ベン=ヒンノムの谷にトペテの供犠所を築いて、息子と娘たちを火で焼いた。私(ヤハウエ)は彼らにそうせよとも命じもせず、そんなことを考えたこともなかった」
また別の個所(列王記下、第23章第10節)にはこうある。
「彼(ユダの王ヨシュア)は、誰ももう自分の息子や娘を火に焼いてモレクに捧げることのないように、ベン=ヒンノムの谷にある炉を汚した」
―中略―
オリエントに昔から普及していた、神々に人間を捧げるという慣習に、これで強力な歯止めが施された。
もちろんユダヤ人にとっては、この慣習が超地上的な権力に対するいわば最も実質的な買収であるとして、これをやめてしまうのは、かならずしも容易ではなかったように思われる。
ともかくそれは、生命維持のために悪霊との闘争に際して、最も原初的な手段のひとつだったからである。
フェニキア人は―ビブロスフィロも確証しているが-ついにこの慣習を放棄しなかった。 発掘者たちはカルタゴで、焼いた子供の骨がいっぱい詰まった何千という骨壷と、これを埋めた場所を表示する何十本もの石柱を発見しているのである。


―中略―
「トペテ」は―と彼らはまず確認するー事実、存在した。それは野外、たいていは山の上に築かれた祭壇であった。
これはとりわけカルタゴとサルディニアのモンテ・シライ山麓とで発見されたが、古代フェニキアそのものでは見つかっていない。それでも、おそらくすでにカナン時代にはフェニキアにもあったことは確実と考えられている。
―中略ー
カルタゴの名士の名をあげると、ハスドルバル(バールが助けた)、ハンニバル(バールに愛された)、ハミルカル(バールの従者)、あるいはバトバール(バールの娘)などがある。これらの名は、敬虔主義的な感じの、確たる信仰を反映しているように思われる。
同時にこれによって、東フェニキアの神々が北アフリカで生き続けたことがはっきりと分かる。とはいっても、アフリカに渡ってから相当に変化しはじめてはいるのだが。
たとえば生き生きとしたバール=メルカルトは、きびしくておごそかなバール=ハモン[Ba'al-Hamon]に、アポロディーテの原型であるアスタルテーは、これまた著しく祟高さを増したタニト[tanit]に変わっているのだ。タニトはまたタニト・ぺネ・バールとも呼ばれ、バールの顔という意味である。
北アフリカの商人にとっては、供物の奉献は、天の神々と連絡する最も重要な、ほとんど唯一の可能性だったように思われる。
そして彼らの場合、供物とは単に穀物、油、牛乳、あるいは肉を捧げることだけではなく、まず第一に人間をいけにえにすることなのだった。
いけにえに選ばれた者は、子供も大人も、トペテの中で生きながら焼かれた。その方法は、ただ蒔も山にのせて焼くか、もしくはディオドルス・シクルスがしばしば引用される報告の中で事実を述べているように、大きなブロンズ像の、広げた手の中に入れて、そこから火の中へ滑らせる、というものだった。

―中略ー
だが、こういうイメージをもっともっと暗くしたのは、いけにえの親族が祭壇の前で悲しみの情を表すことを厳禁されていたということである。
涙一粒こぼしても、ためいき一つもらしても、犠牲の価値を減ずる結果になった。
バール=ハモンとタニトは、人間が最も貴重なものを捧げることを、しかも楽しげに、顔色を変えずにそうすることを要求したのである。



ゲルハルト・ヘルムの「DIE PHONIZIER」という本からの引用であるが、ヘルムは学者ではないが、地中海を中心とし、すぐれた記録映画を多数制作していただけあって、なかなか中身の濃い書物になっている。(ヘルム自身が二重のバール名を帯びていることを、本人が知っているかは別として)
フェニキア人の神バールは、人間の生贄を要求する神であった。古代中近東の人々は、土地により呼び名こそ違え、この恐るべき砂漠や山に君臨する神に対し、自分たちの子供を犠牲に捧げて喜ばせ、神に対する忠誠を示した。
フェニキア人が現在のチュニジアに新しく築いた都市カルタゴも、その人身供犠から抜け出ることができないまま滅びてしまった。


カルタゴは敵に占領されると、バールの怒りを鎮めるため、貴族の子供たちを500名も生贄に捧げた。 それでもカルタゴは結局ローマに滅ぼされる結果となった。(引用注:「それで」とも)
ヘルムは、フェニキア人が生贄を捧げる事が、神との唯一の連絡方法だったと言っている。もっと正しく言えば、悪霊を呼び出すために必要とした犠牲であった。ヘルムも、これらの神々が悪霊であることは認めている。「超地上的な権力に対する最も実質的な買収」とか、「生命維持のための悪霊との闘争」などと書いている。
現代ではそのようなことは迷信であると決め付けられているが、古代世界では、望めば誰でもかの世界との交信に参加することができた。
アシュタルテ、アフロディーテ、またはデメーテル・コレーであろうが、イシスでもタニトでも同じことだが、これらの神々の秘儀に入信することで、こうした冥界の神々、または悪霊と接することが可能であった。
これらの儀式が行われる前には、なんらかの形で犠牲が捧げられた。
ヘルムの本にもあるように、その犠牲は悲しまれることはなかった。笑って犠牲を受け入れなければならなかった。日本が第二次世界対戦の時、子供たちの出征に際して「バンザイ!」を唱えたり、子供が戦死しても「お国のため」といっていたことと変わりはないのだが、
この地中海独特の犠牲を楽しげに受け入れるという慣習は、現在も彼らが作った建造物や、絵画などによって見ることができる。

すなわちギリシャの石造に刻まれたアルカイックスマイル、そして古代世界が蘇ったと言われるルネッサンスを代表する「モナ」リザという新しいタニトによって、私たちは古代ギリシャ人やフェニキア人の宗教生活を垣間見ることができるのである。

人間の犠牲を要求する、その不敵な笑みの中に・・・


―続く―


++
エレミヤ書 / 7章 31節
彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。
by oninomae | 2011-08-22 05:47 | 歴史・歴史詐欺捏造