広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins その3
MASS MURDER 大量殺人
1945年8月6日、最大の爆発を生じさせるために、20キロトンイールド(核弾頭威力)のウラン型爆弾(U-235、60Kg)は、広島上空1850フィート(約564m)の空中で爆発した。それは4平方マイル(約10.3平方㎞)を吹き荒れ、255,000人の住民のうちの140,000人を殺した。

『Hiroshima's Shadows(ヒロシマの影)』と言う本の中に、我々は一部の犠牲者を治療した医師、肥田舜太郎による声明を見つけた。

「B29爆撃機が毎日都市上空を飛行していたという事実にもかかわらず、広島がこれまで爆撃されなかったことは、我々にとって奇妙でした。戦争が終わって、私は、アメリカのアーカイブにより、広島が核兵器の使用目標として保護する命令のもと、そのままにしておかれたということを知りました。おそらく、アメリカ政権とその軍当局は人類が発見した悪魔のような火のものすごい性質に十分な注意を払い、それでいて、その結果についてほとんど何も知らなかったとしたら、アメリカ政権は最終的にその犠牲者になった750,000人の日本人に対するそのような武器を決して使わなかったかもしれません」 (415頁)。


肥田舜太郎医師<英文紹介頁>
http://www.wcpeace.org/Hida_bio.htm

肥田医師は、本当に叩き潰されて燃やされた犠牲者を治療しているあいだ、「私の目は、涙であふれそうだった。私は泣かないように自分に言い聞かせ、唇をかみしめた。私が泣いたならば、私は立って働き続けることも、広島の瀕死の犠牲者を手当てする気力も失くしたでしょう」、と話した。

『Hiroshima's Shadows』(433頁)で、大江健三郎は断言した。 ― 「原子爆弾を爆発させた瞬間から、それは全人間の邪悪の象徴になりました。それは、残忍で野蛮なデーモンであり、この世における悪態だ…。私の悪夢は、『人力への一定の信用』または『ヒューマニズム』が、原爆を広島に投下する決定を下したプロジェクトを取り決めたアメリカの知識人の心(マインド)の中に一瞬でも現れたのかという、疑惑から生じます」。

『Hiroshima's Shadows』の導入部に、それを見つける。
「広島の神話のうちの1つは、住民に原子爆弾の投下予測のビラを撒いて警告した、ということだ。 レナード・ナドラーとウィリアムP.ジョーンズが1960年と1970年に広島資料館で見たと記憶しているビラは、爆破の後、撒かれたものだ。大統領の原爆暫定委員会が5月31日に「我々は日本人にいかなる警告もできなかった」と決定したので、これは起こった。さらにまた、‘atomic’のビラを日本の都市に撒くという決定は、8月7日(広島爆破の後日)までされなかった。彼らは8月10日(長崎が爆撃された後)まで撒かなかった。 我々は、広島の居住者が原子爆弾の使用について事前の警告を受けていなかった、と言うことができる*。1945年6月1日に出された、正式かつ公式決定は、特定の目標都市の住民に警告しないことを、いわゆる暫定委員会の会議の中でとられた。ジェームズ・バーンズとオッペンハイマーは、爆弾は事前警告なしで使われなければならないと主張した」。 (*引用注:残念ながら、「日本当局からも」であった)
「目標都市の一般住民に撒かれたという原子爆弾の警告は、広島のアメリカ伝説を支える『第5条』の第3に密接に関連する問題である。それは、広島と長崎が軍事目標であったという信念である。大本営の第二部隊は、広島に約20,000人配備し、この攻撃で約半分の10,000人死亡した。長崎では、約150人、都市に軍人が混じって死亡した。このように、2つの都市での総犠牲者数の4.4%は、軍人であった。要するに、犠牲者の95%以上は、一般人だった」。
『Hiroshima's Shadows』の39頁に、我々が見つけたのは、(広島で)「厳密にいって軍の損害は取るに足らないものだ」。 我々は、虚栄心の強いほら吹きのハリー・トルーマンの非公式の声明にどうやって甘んじればいいのか。 『ハリーS・トルーマンの手記』(Harper & Row, 1980)、304頁に、「1945年、私はもっぱら軍需生産にいそしんでいる日本の二つの場所に原子爆弾投下を命令しました」、実際、広島犠牲者の数千人は、教室に座っている子供たちだった。

Off the Record: The Private Papers of Harry S.Truman Robert H. Ferrell編纂
爆弾は落とされた、なぜかというと 「マンハッタン計画のマネージャーは、原子爆弾を使うよう陳情したのだ。バーンズは、これらの会議を傍聴した。グローヴス准将は、爆弾の使用によって100万人のアメリカ人の命が救われるという、ファンタジー領域の数字をもって主張した作家であったようだ。」 (35ページ)

トルーマン自身、原子爆弾の使用で救済されたものを様々に言い現わした、「25万人のアメリカの生命」、「50万人のアメリカの生命」、ついに、グローヴス准将が同意したため出て来たのは、「100万人のアメリカの生命は、救われた」。

そうしているうちに(64頁)、W・ローレンスは、満額の給料をニューヨークタイムズから得て寄稿する一方で、「原子爆弾の広報員」として陸軍省から満額の給料を受け取り、ニューヨークタイムズに拒まれたいくつかの物語を発表した。

広島爆破に於ける被害者の放射線影響彼(1945年9月5日以降)がどのようなものか、グローヴス少将の憤慨したコメントを引用したためだ、「日本人は、我々が不当に戦争に勝ったという印象をつくる目的で依然として宣伝を続けている、このように自ら同情をつくろうとしている」。

「1945年8月11日、スイスの公使館は、以下のメモを東京からアメリカ国務省に転送した(最終的に公開する前に、25年間留められた)。それは、『スイスの公使館は、日本政府から通信を受け取りました』、1945年8月6日、広島の町の住宅地域で展開されたアメリカの飛行機、新しいタイプの爆弾、1秒で大多数の一般民間人を死傷させて、町の大部分を破壊しました。広島市は、いかなる保護のない地方の町のみならず、いかなる種類の特別な軍事施設のない、隣接領域または町のどれをとっても、軍事目的を構成してない」 (66ページ)。
『Hiroshima's Shadows』への導入部は次をもって終わる。 「原子爆弾を使用しなければ、日本列島への侵攻が必要だったという主張は、虚偽である。『原爆への警告』が広島の住民に与えられたという主張は、虚偽である。そして、両方の都市が鍵となる軍事目標であったという主張は、虚偽である」 (lxvii頁)。


Hiroshima's Shadows Kai Bird , Lawrence Lifschultz (Pamphleteer's Press, 1996、1998)

カイ・バード:1952年生まれ。歴史研究家。スミソニアン・ウッドロー・ウィルソン国際センター研究員。ワシントンD.C.在住。『オッペンハイマー―「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(邦訳名)で、ピュリッツァー賞受賞

ロレンス リフシュッツ:米国ジャーナリスト

A PILOT'S STORY 操縦士の物語
これらの声明の確証は、エリスワース・トーリー・キャリントン[Ellsworth Torrey Carrington]第二中尉副操縦士の「広島実験の反省:Reflections of a Hiroshima Pilot」に注目に値する記録で見つけられる、「広島の原子戦略の一翼として、私のB-29(愛称Jabbitt III:ジョン・アボット・ウィルソン キャプテンの3機目の戦闘機)は、1945年8月6日、第二の標的である小倉上空を越えて、気象観測ミッションを飛んだ」(9頁)、「最初の爆弾が落とされたあと、原爆投下指揮は、我々が二発目の爆弾を落とす前に、日本が降伏するかもしれないかと非常に心配していたので、24時間ぶっ通しで、一日中そのような不幸を避けるために、我々は働いた」(10頁)、これは、もちろん、キャリントン側での風刺である。
「事前と事後の日本の都市の様子(アトミックホロコーストを予約された哀れむべき町を除き)では、歴史上最も少ない浪費(B-29)で凄まじい猛火で燃やしつくした。これらの猛火による熱は、時々、4~5,000フィート上方から最高8~10,000フィートまで上昇気流に乗って充分な高さにまで打ち上げたB-29の爆風の後のほうが激しかったようだ。少佐は、日本の焼夷弾爆破が、遠く離れたところからでも成功したとわかった。そして、第20空軍が燃える都市から出てきたことから想像できた、と話した。すでに、もはやいかなる目標都市も残っていなかった(1945年6月、第一週現在)。50機以上のB-29をねぎらう価値があった。そして、来るべき日に、我々は450機もの戦闘機を飛ばすことがきた!」(13頁)、 「日本の全体的壊滅は並々ならなかった、そして、これは日本全体の無防備性に匹敵する」 (原子爆弾が落とされる前、1945年6月1日現在)(14ページ)。
トルーマン政権は一般国民に届いたすべての戦争情報を検閲して、コントロールした。そして、もちろん、トルーマンは、原爆使用の政治的権限のために、こっそりと戦争を長引かせて、真実を不明瞭にする既得権があった。 1945年の春と夏、日本はまだ軍事的に実行可能だったと信じている米国民をだますルーズベルト-トルーマン原子冷戦戦略の第2の要素について言えば、最大の呼び物は、沖縄に対する、もの凄く高くつき、不必要にも罪を犯してまでの従軍だった。

キャリントン副操縦士は、ウィリアムD.リーヒー[William D. Leahy]海軍提督の『I Was There』(McGraw Hill社、245頁)を引用した、 「日本海軍の大部分は、すでに海のもくずだった。海軍水上艦隊と空軍の連合活動は、この時までに日本軍を早々に降伏が必然とする立場においこんだ。我々の誰もそれからの原子爆弾の潜在を知らなかったのは、私見からである。さらに、戦争に勝つために、日本の本土のいかなる主要な土地に侵攻する必要がなかったことを、統合参謀本部に力説した。統合参謀本部は侵攻計画の準備を命令したが、しかし、侵攻そのものは決して認可されなかった」。

Admiral William Leahy and 「I Was There」(1959)
斯くして、トルーマンはグローヴス将軍を駆り立て、原子爆弾を用いて「100万人のアメリカの命は救われた」、ことを主張した。そのとき、侵攻はこれまでに認可されておらず、起こりそうでなかった。
キャリントンは続けた、
「恐ろしい事実は、沖縄従軍のタイミングが8月上旬の原子爆弾投下のタイムテーブルに関連があることだけだった。


私は告発する(J'accuse)!私は、フランクリン・ルーズベルト大統領とハリー・トルーマンを、日本に核兵器を使用するという不必要な罪を犯し、お膳立てして盛り上げる唯一の目的のために米国民に対して故意に戦争犯罪を犯した、として訴える。」 (16頁) [訳註]J'accuse(ジャキューズ):フランス語、エミール・ゾラがドレフュス事件(ユダヤ系の参謀本部付砲兵大尉ドレフュスを弁護)の際、1898年にだした『我弾劾す』(J'accuse)から始まる公開状からが有名。
キャリントンは、さらに、リーヒー海軍提督の『I Was There』から引用した、
「広島と長崎のこの野蛮な武器を使用したことが、日本と我々の戦いにおいて具体的な尽力でなかったというのが、私の意見である。日本人はすでに破れており、通常兵器で成功した爆破と効果的海上封鎖のため、降伏の準備ができていた。」
キャリントンは、次のように結論した、
「トルーマンの理不尽な核兵器の使用は、米国民がこれまでで感じたことより第二次世界大戦に勝利した後の方が劇的に不安を感じている状態にした、そして、これらの不安の感情は配慮が足りない黒幕の政治家の冷戦以来、促進された」 (22頁)。
同様なことを、ヴァンデンバーグ上院議員が言った、 「我々は、連中をひどく怖がらせないといけない」、

冷戦を支えるために米国民を脅して重税を払うことを命じているからだ。

DID THE ATOMIC BOMB WIN THE WAR AGAINST JAPAN? 原爆は日本との戦いに勝ったのか?

ウィリアム・リーヒー海軍提督も『I Was There』の中で述べた、
「私の実感として、最初にそれ(原子爆弾)を使うというのは、我々は暗黒時代の野蛮である共通の倫理基準を採用したということだ。私はその流儀で戦争することを教えられなかった。そして、戦争は女性と子供たちを滅ぼしたら勝利することができない」
ガー・アルぺロビッツ[Gar Alperovitz](訳註:歴史学者)は註釈をつける、「5月5日、5月12日、6月7日、OSS(米国戦略諜報局)は、日本が降伏を考慮していると報告した。更なるメッセージが入ったのは、5月18日、7月7日、7月13日、7月16日」(16頁)。
アルぺロビッツは指摘した、「『無条件降伏』を要求する米国の身分格式は、直接、天皇という人間だけでなく、そのような日本文化の中心的信条も同様に脅かした。」(36頁)
アルぺロビッツも、カーティス・ルメイ[Curtis LeMay]将軍(空軍参謀総長)を引用した、
「戦争は、ロシア人の介入なしで、原子爆弾なしに2週間で終わっていただろう。




プレス質問:ロシア人なしで、そして、原子爆弾なしで?ということですか、将軍?ルメイ:原子爆弾は、まったく戦争が終わることと、なんら関係がなかったんだよ」 (334頁)、1945年9月29日の声明。

General Curtis LeMay
(つづく)
【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100423.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100424.html

The Decision to Use the Atomic Bomb by Gar Alperovitz 1995、864 pages

『原爆投下決断の内幕――悲劇のヒロシマ・ナガサキ(上・下)』 ガー・アルぺロビッツ著 鈴木俊彦・岩本正恵・米山裕子訳 (ほるぷ出版, 1995年)


by oninomae | 2010-12-04 02:52 | 放射能・ラジオハザード