広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins その2
THE JEWISH HELL-BOMB ユダヤの地獄爆弾
原子爆弾は、ニューメキシコ州のロスアラモス国立研究所で開発された。その最高機密プロジェクトが、マンハッタン計画と呼ばれたのは、その影のディレクター(バーナード・バルーク)がマンハッタンに住んでいたことから、他の多くの主要人物にならってそうつけた。
バルークは、活動の首脳に、レスリーR・グローブス[Leslie R. Groves]少将を選んだ。彼は以前ペンタゴンを建設しており、バルークが呼べば必ず集まるワシントン政治家の間で良い評判を得た。
ロスアラモスの科学ディレクターは、ロバート・オッペンハイマー(商人の服を着た富裕な家庭の御曹司)だった。
「Oppenheimer; the Years Of Risk」、ジェームズ・クネトカ[James Kunetka]著、Prentice Hall社、NY、1982の、106頁に、クネトカが書いている、
「バルークは、特に上席科学顧問の地位にあるオッペンハイマーに興味があった」。
プロジェクトは約20億ドルにのぼった。世界の他のいかなる国も、そのような爆弾を開発する余裕を持つことができなかった。原子爆弾の最初の核実験成功は、トリニティ(1945年7月16日、午前5時29分45秒、ロスアラモスから200マイル南)で行われた。
オッペンハイマーは、その光景に我を忘れた。彼は悲鳴をあげて毒づいた、「私は、死神になった。世界の破壊者だ」。
いかにも、これはマンハッタン計画の世界を破壊するという究極の到達地点のようにみえた。この爆発実験が、本当に、全世界を破壊する連鎖反応を引き起こすかもしれないという、かなりの危惧が科学者の間でおこった。オッペンハイマーの勝利の歓喜は、今、全世界を支配したいという彼ら(訳註:ユダヤ人)の5000年の願望を満たすことができる究極の力を手に入れた、という彼の実感から生まれた。
THE BUCK PASSES TO TRUMAN トルーマンに引き渡す
トルーマンが原子爆弾を日本に落とすという決定に用意万端であるにもかかわらず、実際、彼はジョージ L.ハリソン[George L. Harrison, 1887-1958](ニューヨーク連邦準備銀行総裁)からなる名門グループ、国家防衛研究委員会(The National Defense Research Committee)より忠告された。
上では右から二人目、下は左端
ジェームズ・B・コーナント(ジェームズ・コナント)[James B. Conant, 1893-1978]博士(ハーバード大学学長)は、より効果的毒ガスを開発することに第一次世界大戦を費やし、そして、1942年、ドイツのありとあらゆる生き物を殺したかったウィンストン・チャーチル[Winston Churchill]から、ドイツで使用する原子爆弾を開発するよう依頼をされた。
ドイツが降伏する前に、コーナントは爆弾を仕上げることができなかった。さもなければ、彼の履歴書にもう一つ別の句が加わっただろう。
トルーマン委員会での彼の尽力は、日本に原子爆弾を投下することを忠告し、前歴に科学戦のプロと追加され、「第二次世界大戦で最も悪名高い戦犯」というふうに、1957年に合衆国請求裁判所に提出された書類にある彼の記述を認めた。
戦争の後、ドイツの大管区指導者(ガウライター;Gauleiter)として、彼は私の本、「The Federal Reserve Conspiracy(邦訳『世界権力王像の秘密』) 」、世界的に有名なキリスト受難劇(Passion Play)の地、南ドイツのオーベランマーガウで発表されていた1万部、の焼却を命じた。
また、委員会には、カール・コンプトン[Karl Compton]博士と
ジェームス F・バーンズ[James F. Byrnes](国務長官代理)がいた。30年間、バーンズはワシントンのバーナード・バルークの召使として知られていた。
ウォール街での利益をつぎこみ、バルークはサウスカロライナ州で贅を尽くした邸宅を造った。それにHobcaw Barony(訳註:Hobcawは先住民の言葉で『水の間』)と名前をつけた。サウスカロライナ州で最も裕福な男として、典型的な北部の渡り者は、政治的にも財布のひもを締め支配した。その時、日本に原子爆弾を落とさねばならないことを、彼の召使バーンズをつかって、バルークはトルーマンに指図する立場にあった。
Hobcaw Barony
LIPMAN SIEW リップマン・シウ
マンハッタン計画が第二次世界大戦で極秘事項であったという事実にもかかわらず、1人の男に多くのことが限定され、この計画について、すべてを観察し、すべてを知ることを許した。彼は、リップマン・シウ[Lipman Siew]という17才で政治亡命者としてアメリカに来たリトアニアのユダヤ人だった。彼はボストンのローレンス通りに住んでいたことから、ウィリアムL・ローレンス[William L. Laurence]を名のることを決めた。ハーバード大学で、彼はジェームズB.コーナントの親友になり、彼から個人指導をうけた。
ローレンスがニューヨークに行ったとき、バーナード・バルークの私的広告代理人で有名だったハーバート・バイアード・スウォープ[Herbert Bayard Swope](NYWorld紙の記者)に雇われた。バルークは、World社のオーナーだった。1930年、ローレンスは、ニューヨークタイムズ社の科学欄編集主任になる、という申し込みを受け入れた。彼は名士録にこうある、「たった一人の広報活動の記者として原子爆弾プロジェクトの首脳陣から選ばれた」。最高機密プロジェクトの広報活動記者であったかどうかは説明されてなかった。ローレンスは、1945年7月16日、爆破実験の歴史的な爆発において出席した、ただ一人の民間人だった。
1ヵ月未満後に、彼は宿命的な長崎爆撃航程におけるB-29の副操縦士席に座った。
William L. Laurence(Lipman Siew )
WILL JAPAN SURRENDER BEFORE THE BOMB IS DROPPED? 爆弾が落とされる前に日本は降伏するか?
世界中いたるところで新しい恐怖政治を予定している共謀者たちに一瞬多くの不安がよぎった。日本は、平和を求めていたからだ。 来る日も来る日も、戦乱の中にとどまりつづけることなんて、あまり有り得ないことのように思えた。1945年3月9、10日、325機のB-29爆撃機は、東京を35平方マイル(約56.3km2)燃やした。絶間ない猛火で10万人以上の日本人が死んでいるところから飛び去った。
日本で最も大きい66都市のうち、59都市は、ほとんど破壊された。178平方マイル(約461 km2)の都市部での生活は燃やされ、50万人は火災で死んだ。そのせいで、2000万人の日本人は家を失った。
4つの都市だけは、破壊されなかった。それは、広島、小倉、新潟と長崎。そこの住民は、原子爆弾の実験ための目標都市として取っておかれたとは知るよしもなかった。
バーナード・バルークの主張によると、レスリー・グローヴス少将は、京都を爆弾の最初の標的として要求した。陸軍長官スティムソンは反対し、日本の古都である京都市には何百もの歴史的木造寺院があり、軍事的目標物はない、と言った。ユダヤ人は、日本人にとって大きな文化的重要性ゆえに、きっちり、それを破壊したかったのである。
THE HORROR OF HIROSHIMA 広島の恐怖
広島の住民が彼等の頭上をB-29が爆弾を落とすことなく飛ぶのを見続ける間、科学者が彼らのために確保した戦慄すべき運命を少しも知らなかった。ウィリアム・マンチェスター[William Manchester]は、『American Caesar』、Little Brown 社、1978年版の中(437頁)で、ダグラス・マッカーサー将軍を引用している。
[引用ここから]あそこにもう一つの日本がある。そのことに、マッカーサーはその実在を疑った数少ないアメリカ人の1人だった。彼は、ペンタゴンと国務省をなだめるような身振りで注意をうながし主張し続けた。将軍は、日本軍からでない急変が東京から来ると予測した。将軍は正しかった。ヒロヒト自身が先頭に立ちハト派の連携は日本の首都で形作られた。さらに、平和交渉は、国の苦しみを終える唯一の方法であると1945年の春に結論した。5月の早い時期、日本外交官の6人の評議員は、連合国と調停する方法を探した。使節は、「我々の抵抗は終った」ことを最高の軍当局者に知らせた。[引用終わり]
同書359頁で、ガー・アルぺロビッツ[Gar Alperowitz](訳註:歴史学者)が、1945年に要旨(MAGIC summary)を準備することを担当した、カーター W.クラーク[Carter W. Clarke]准将を引用している。彼は、1959年の歴史的インタビューの中ではっきりと述べていた、
「我々は日本の商船を沈めて、孤独に飢えさすことを加速して、絶望的な投降で倒した。そして、我々がそれをする必要がなく、それをする必要がないということを知っていたとしても、2つの原子爆弾の実験としてやつらに使った」。
トルーマン大統領が爆弾を落とすという決定の唯一の権威として彼自身指し向けたのだが、実際、彼はワシントンにいるバーナード・バルークの召使ジェームスF・バーンズから全影響をうけていた。ガー・アルぺロビッツの立場によれば、 「バーンズは、暫定委員会の審議におけるすべての爆弾関連の問題に関して、アメリカ合衆国の権威である大統領(個人的代理人)と話した」 (196頁)。 デイビッド・マカッロー[David McCullough]によるトルーマンを賞賛する伝記の中で、「バレンタイン」のように描いた、「トルーマンは、米国国務長官のステティニアスを知りませんでした。大統領は、外交政策の経歴を持っておらず、彼自身の専門家のアドバイザーもいませんでした」、と認めた。
[訳註:参照]Truman Is ‘Valentine’
President Truman had a "grand time" at a Valentine party last night. He received a red rose as a valentine gift.
トルーマン大統領は、昨夜、“華々しい”バレンタインパーティーを催した。彼は、バレンタインの贈り物として赤いバラを受け取った。
広島と長崎の悲劇は、ひ弱で未熟な大統領(完全にバーンズとバルークの影響を受けていた)が、彼自身、残忍な大虐殺を犯すために操られることを許したということだ。広島の暗雲への導入部に、我々はそれを見つけることができる、「トルーマンは、バーンズの影響を受けて、かなり反対方向に行動していた。バーンズのための原爆は、外交(原爆外交)のための駆け引きの道具だった」(ixページ)。
(つづく)
【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100421.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100422.html
by oninomae | 2010-12-04 01:31 | 放射能・ラジオハザード