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ソンミ虐殺 戦慄の朝 1


http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/A%20look%20back%20upon%20Son%20My.htm#目  次 より

http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/Part2.htm#2. 戦慄の朝 の転載 (Only Yesterday)


戦慄の朝 Horrible Morning

1968年3月16日の早朝、ソンミの村人は、いつもと同じように早く床を離れ、一日の作業を控えての食事の支度を終えた。多くの家では家族が食卓を囲んでいた。ある者はすでに市場に出かけたり、くわを担いで畠へと向かった。春の朝である。小鳥がさえずり、何羽かの鶏が、遅めのときの声を作ったりしていた。村の緑の木々を、朝の露の小さな水滴が飾り、それがここの風景を、一幅の夢幻的な絵のように見せ、素朴と安穏の美をつくりだしていた。

そのつかの間の平穏が突如破られた。5時30分、クァンガイ地域ソン・ティン〔Son Tinh〕地区のビン・リエン〔Binh Lien〕(ビン・ソン〔Binh Son District〕)、ラム山〔Ram Mount〕から発射されるさまざまな種類の砲弾が、ソンミ村の4つの集落に炸裂した。耳をつんざくような爆発の音とともに大地の表面が激しく震え、樹木が裂かれ、鶏、あひるがけたたましく鳴き、村人たちの叫び声が聞こえた。

30分間続いた砲撃が終わるとすぐに、2機のヘリコプターが飛来して旋回を繰り返しながら、ロケット弾と重機関銃の弾丸を、トゥ・クン、コ・ルイの二つの集落の民間人居留地に撃ち込んだ。ついで、9機のヘリコプターからなる一団がチュー・ライ〔Chu Lai〕(クァンガイ北部にある米軍基地)から飛来し、トゥ・クン〔Tu Cung〕集落の西部水田に着陸、別に11機の部隊が、コ・ルイ集落のゴ〔Go〕小集落の近くにある荒地に着陸した。

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〔写真は、トアン・イェン〔Thuan Yen〕の西部に着地する米軍  ハーバール撮影] (ベトナムで発行されたパンフでは、この写真が左右逆になっているので、元に戻して掲げた――吉川注)


純朴な村民たちは、退避壕に身を隠したり、小屋の中で朝食をとり続けたり、あるいは畠にとどまったりしていたが、みな、それをこれまでにもあったような、普通の掃討作戦だと思い、誰一人として、これから自分たちや仲間の村民たちの上に訪れようとしていた運命を予感したものはいなかった。

コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。

別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。

同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。

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[写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール] 

この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。

トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ[Ernest Medina]大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第Ⅱ小隊と第Ⅲ小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー[William Calley]中尉の率いる第Ⅰ小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。

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米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。 「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」 「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」

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〔写真は、自分で負傷したハーバート・カーター〕

スティーブン・ブルック[Stephen Brook]の指揮する第Ⅱ小隊の一部も同じようなものだった。この小隊の一員だったシンプソンはこう語っている。 「一人の女と一人の子どもがこっちから小屋のほうへと飛び出して行った。ブルックス中尉が撃てと命令した。それで私は撃った。女と小さな子どもです。その子は2歳くらいだったかな。」 シンプソンは、そのあと10人を殺したと認めている。 ヘリコプターが着地する以前、すでに水田にいた農民や水牛に乗った少年などが殺された。主として、ビン・ドン〔Binh Dong〕とビン・タイ〔Binh Tai〕小村落の民間人である。しかし、もっとも戦慄すべき虐殺が起こった場所は、トアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落であった

ピンクビルへのチャーリー中隊の作戦には、軍曹で米陸軍写真班員のロナルド・ハーバール[Ronald L. Haeberle]が加わっていた。彼は、あと11日だけ軍務に服すれば、復員となり故郷に帰れるはずだった。彼が重要な証人の一人であったことは疑いない。彼はこの虐殺を明るみに出すという貢献をした。彼のその行為はアメリカと全世界の世論に強烈な衝撃を与えたのである。作戦に参加したとき、彼は3台のカメラを携えていた。その2台には白黒、もう一つにはカラーのフィルムが入っていた。

虐殺のあと、バーバールは40葉の白黒写真を陸軍に手渡した。だが、残り18枚を手元に残しておいたのだ。事件から18ヵ月後、アメリカ国内でこの虐殺事件が調査されることになった時、バーバールはカラー写真を公開し、それは米国政府を恐怖で震撼させたのだった。この18枚の写真には、撮影者の完全に筋の通った詳細な説明文がつけられていたのだ。ハーバールは、その文章をアメリカの雑誌『ライフ』に発表した。

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それによると、彼は、1968年3月16日の日の出前、午前6時にチャーリー中隊に加わったが、この作戦について、彼には誰も何も説明しなかったという。ヘリから降りたとき、彼にははじけるような銃撃の音が聞こえた。横目で脇を見ると、いくつもの死体がころがっていた。だが、彼は振り返ることをしなかった。何人かのベトナム民間人、確か15人ほどで、大部分は女と子どもだったが、100ヤード(約90メートル)ほど向こうを歩いていた。突然、米兵たちが、M-16とM-79マシンガンを彼らに向けて発射した。この光景を目撃したハーバールは、自分の目を信じることが出来なかった。

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ハーバールは別の場所に来たとき、こう語っている。「右手の離れたところに一人の女の姿があり、頭が茂みの上に見えていた。自分以外の米兵たちは、みな、彼女に向けて発砲を始めた。その女をめがけ、何度も何度も発砲を繰り返した。ひたすら撃ち続けた。骨がばらばらになって空中に飛ぶのが見えたんだ。」

カリーの指揮する第Ⅰ小隊は、トアン・イェン小集落に突入した最初の部隊で、組織的、計画的な虐殺を行なった。米兵はいくつかのグループに分かれ、八方に散って捜索し、ある者は発砲しながら民間人を逮捕し、ある者は小屋を焼き払い、退避壕を破壊するために爆薬を投げ込み、またあるものは水牛や牛を殺戮したり樹木を切り倒したりした。コ・ルイ集落のミ・ホイ小集落でと同じように、米兵たちの全滅作戦は、ここで絶頂に達した。ハーバールの写真はこうした光景をまざまざと記録している。

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〔写真:すべてを燃やし尽くす 撮影:ハーバール〕

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米兵たちが年老いたグェン・チ・ドック〔Nguyen Thi Doc〕さんの小屋に突入したとき、彼女の一家は、米といくらかの甘藷の並んだ朝の食卓を囲んで集まっていた。米兵は突入するといきなり食卓をめがけて乱射した。彼女の夫、長男夫婦、娘、そして孫を含む9人がそこで殺された。孫の頭が転がったが、その口にはしっかりとサツマイモの一かけがくわえられていた。ドックお婆さんは傷を負って動けずに横たわっていた。3人の孫だけが、まだ食卓についていなかったので、かろうじて死をまぬかれた。

そのドックお婆さんの隣家は、ダン〔Dang〕さんの6人家族で、やはり食卓を囲んで坐っていた。突入した米兵たちは彼ら全員に向けて銃を発射し、そのあと家を完全に焼き払った。リ〔Ly〕さん一家の7人は、退避壕の中へと追いやられ、そのあと爆発物で殺された。リエン〔Lien〕さん一家の5人、マイ〔May〕さん一家の6人、そしてグェン〔Nguyen〕さん一家の4人は、誰一人助からなかった。

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〔写真 撮影:ハーバール〕

 
トゥルオン・ト〔Truong Tho〕さんは72歳だった。米兵たちは、彼の顎鬚をつかんで庭に引きずり出し、ひどく殴りつけた。そのあと、米兵はトゥルオンさんの顎鬚をあごまで一緒に切り落とし、井戸へ突き落とした後、爆薬を投げ込んだ。ムック・ライ〔Muc Lai〕老人も、米兵たちは顎鬚をつかみ、面白がってそれに火をつけた。ハーバールの撮った写真の一つに、うずくまり、怒りの眼差しを向けている老人の写真がある。ハーバールは、「この男は歳をとっており、体が震えていてほとんど歩けなかった。彼は何かを大声で叫びたがっているような様子だった。私がそこを去ろうとしたとき、後ろで2発の銃声が聞こえた。」

米兵は、子どもだからといって、虐殺をためらうことはなかった。もう一人、米陸軍報道部のジャーナリストがこの作戦に加わっていた。ジェイ・ロバーツである。彼はこう語っている。「実にちっちゃな子どもだった。シャツ1枚以外は何も身に着けていなかった。その子はいくつもの死体の上を這うようにやってきて、その一人の手をつかんだ。おそらく母親だったのだろう。私の後ろにいた米兵の一人が、その子から30メートルほど離れたところで片膝をつけた姿勢をとった。そして1発でその子を殺したんだ。」世論に深い衝撃を与えた1枚の写真がある。水田のそばの路上、正面に横たわった二人の子どもの写真である。ハーバールはそれについて「この二人の子どもが撃たれたとき、年上の子どもは、小さいほうの子を庇うかのようにその上に倒れこんだ。だが、すぐ、米兵たちが二人にとどめをさした。」と語っている。 

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〔右の写真 この二人の子どもが撃たれたとき……(部分)。撮影 ハーバール〕


続く


参照

My Lai Massacre
http://en.wikipedia.org/wiki/My_Lai_Massacre 



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若者、あるいは何も知らないよという人に読んで欲しい話です。簡単に忘れられるようなことではないです。少なくとも私には。

by oninomae | 2010-10-13 21:51 | ホロコースト  

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