生物兵器戦争の一方法としてのワクチン接種の歴史 by David Rothscum 1
生物兵器戦争の一方法としてのワクチン接種の歴史 by David Rothscum Saturday, September 19, 2009 その1 (今までのおさらいから始まります)
私が以前説明したとおり、アメリカの生物兵器プログラムと、ワクチンの製造との間には関連を見いだすことができる。
世界中の政府機関が、ウイルスや他の病原体が人類を殺戮する潜在力を有することを見いだし始めるにつれて、彼らはその病原体を拡散する方法を必要とした。そして、注射は人間の体の自然な防衛ラインのほとんどをバイパスするのでワクチンが理想的な方法を提供した。なぜなら、彼らが彼ら自身発見したように、鼻を通して投与されたときほとんど無害なウイルスが注入された時は致命的であり得るからである。
この記事は、がんウイルスの開発から始まり、世界第二次大戦中のインフルエンザワクチンの創製にこだわり続け、最終的にその後開発された様々なワクチンに移行するこの歴史のより詳細な説明資料を提供することを意図している。
彼らが奨励され、そして多くの場合自ら実施したその大量殺人に対して関与したさまざまな人々が持っていた理由を説明するための一つの試みもなされるだろう。
初期の生物兵器のほとんどは、ロックフェラー家によって設立された様々な研究所にまで遡る。
私がロックフェラー年代記で言及した(和訳はこちら)ように、ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは1901年にロックフェラー医学研究所を設立した。8年後、フランシス・ペイトン・ラウス[Francis Peyton Rous]と言う名の若い科学者がロックフェラー研究所に参加した。1911年、フランシス・ペイトン・ラウスは、鳥にがんを引き起こすことができるろ過性の病源体を探していた。
最終的に、その男は小さな腫瘍を引き起こすことができる鶏中のウイルスをなんとか分離することができた。1911年の文書の中で、彼はこのウイルスを分離し、その潜在力を増し、それを他の品種のニワトリに拡げ、そして最終的に哺乳類に癌を引き起こすためにそのウイルスを使う失敗した試みについて述べている。
このウイルスは後に、それを発見した男にちなんで名付けられ、ラウス肉腫ウイルスとして知られるようになるだろう。
1937年、ロックフェラー研究所は、その最初のワクチン、17D黄熱病ワクチンを市場にもたらした。 ロックフェラー年代記で文書化したように、このワクチンはその導入の瞬間からラウス肉腫ウイルスで「汚染されて」いた。そして、後に試験されたとき、そのウイルスはサルに腫瘍を引き起こすことが見出された。
この報告はワクチンに焦点を当てるだろうけれども、読者は、ロックフェラー財団がナチ・ドイツの優生学者たちへの資金提供に関わっていたこと、そしてロックフェラー研究所のために働いていた科学者コーネリアス・ロード[Cornelius Rhoads]が、プエルトリコ人たちに癌を注入したことを認めていることが発見されたことを思い出してもらうことは重要である。
この死のパターンは、これらのグループが関与しているすべてのプロジェクトで見られる。
ロックフェラー研究所はまた、最初のインフルエンザワクチンの創作に関与した。(訳注:以下このフランシスの研究に関する部分は以前の記事の再掲です。でももちろんおさらいしておきましょう)インフルエンザワクチンは、トーマス・フランシス・ジュニア[Thomas Francis Jr]という名前の男によって開発された。 トーマス・フランシス・ジュニアは、1928年にロックフェラー研究所に参加し、そしてロックフェラー家によって設立されコントロールされた様々な研究所で働いた。1934年、彼はインフルエンザウイルスを分離した最初のアメリカ人となった。
1940年、フランシスは、彼がインフルエンザウイルスに関して行った一つの研究を発表した。
フランシスは、それに曝されたものたちの脳を特に標的とするインフルエンザウイルスを作り出そうと努めた。その報告自身が言及しているように、その研究はロックフェラー財団の国際保健部門からの助成金を受けて実施された。
その報告は、フランシスが、それに暴露されたものの脳に固執するだろうウイルスを作り出す彼自身の努力は失敗に終わったことを説明することから始まる:
当研究室での、流行性インフルエンザのウイルスをマウスの脳に適応させようと言う繰り返し行った取り組みは、完全に失敗してきた。そのウイルスは通常、脳内接種後に、1あるいは2日間以上脳の中で生き残ることに失敗した。
しかしながら、フランシスは、ニワトリの脳に感染した一つの異なった菌株の存在を知り、そして彼自身で、この株をその神経細胞を攻撃することによってマウスを殺す能力のあるウイルスを見つける彼の新たな試みに用い始めた:
その結果、ニワトリ(ヒヨコ)胎児脳とタイロード液もしくは生理食塩水いずれかを含む組織培養系中でのインフルエンザウイルスの培養による同様の適応化を試みることを決定した。我々の以前の失敗した試行はすべてのPR8株で行われていた他方、報告された肯定的な結果はすべてWS株で得られていたため、WS株を用いた。
この株が他の系統のインフルエンザ株よりもヒトの脳を標的とすることにおいてより潜在力があることを証明する実験を用いた後、フランシスは、いかに彼がこのインフルエンザ株に曝したマウスが痙攣して死んだかを説明している:
11代目の継代で、一定の神経学的徴候が、11代の感覚過敏と震えの形をとって観察され、そして一匹のマウスが痙攣で死亡した。すべての12代目の継代マウスは、3日目と4日目に際立った兆候を示し、犠牲に(解剖)された。13代目のマウスのうち2匹が3日目に速やかに病状を呈したとき殺された。他の2匹は6日目に死んで発見された。 その時点から、そのウイルスは脳内投与法によれば一様に病原性となっていて、一貫した臨床像と、そして5%の脳懸濁液接種後4から5日後の致命的感染を生み出した(実験1、表II)。この株(WS - 7)は67回の連続的継代が成し遂げられてきた。
その病気の通常の経過は簡潔に言えば以下のごとくである:約3日目に、マウスは体を丸く縮こませるように見える、彼らの毛は逆立ってひだができ、そして彼らは外部からの刺激に対して過敏である。全身性の震えが存在する。4日から6日目に、その動物は破傷風様けいれんを起こして死亡する。
彼自身の報告が立証し始めるように、この実験は単に培養脳細胞でよく育つだろうあるウイルスを作り出すことだけを意味しなかった。
フランシスは、そのウイルスが肺から回収されてきた場合に、それがまだ脳に固執性があるかどうかを調べ始めた。
今回の実験は、組織培養系で生育したウイルス株を用いてのみ行われたため、マウスの鼻腔内感染によって維持されたウイルスのWS株がまた神経向的属性を保有しているかどうかを知ることは興味深い。
それ故に、通常の組織培養培地から移動して後、9から15回鼻腔内継代されたWS株ウイルスについてテストした。
懸濁液は、感染した肺から作製し、そしてそれを用いて、マウスたちは大脳内接種された。
9代と13代目の肺から調製されたウイルスは、連続的な大脳内接種による継代を生き延びることに失敗した-最初の例ではおそらく継代が7日間の間隔で行われたからであろう。
14代と15代目の鼻腔内継代ウイルスで、しかしながら、6代と3代それぞれの大脳内接種継代後に致命的な神経系の感染が得られた(実験4、5、6、7、表II)。
前述の調査に基づくと、ヒヨコ胎児脳中での事前適応化の期間は、インフルエンザウイルスWS株の神経向性特性をもたらすためには必要とされないことは明白なように思われる。
フランシスは、驚くべき何ものかを報告し始める。マウスがウイルスを注射されたときそのウイルスは脳に感染するだろうが、しかしマウスが彼らの鼻を介して暴露されたときには、それは脳には感染せず、その代わりにそのウイルスは単に彼らの肺に固執することを:
その神経指向活性は、肺指向活性を犠牲にして発現するのではない。(脳に)存在する場合には、他(肺)でも同等の濃度で発見される。
出現する効果は、しかしながら、接種ルートによって厳密に規定される。
肺向性と神経向性ウイルスの両者とも、大脳内接種後の脳からあるいは鼻腔内接種後の肺から検出される一方で、神経向性効果は鼻腔内接種によっては生じないし、肺向性効果は大脳内接種後に観察されない。
1941年、この研究を出版の1年後、彼はアメリカ軍によって、インフルエンザに対するワクチンの開発のために採用された。
続く
元記事は
The history of vaccination as a method of biological warfare David Rothscum Saturday, September 19, 2009
http://davidrothscum.blogspot.com/2009/09/history-of-vaccination-as-method-of.html (今回は和訳その1です)
次回からさらに驚くべき事が・・・
by oninomae | 2010-02-01 20:14 | バイオハザード・ワクチン