アメリ力解体の目論みと秘密結社
ユダヤ人秘密結社の危険性
ユダヤ人秘密結社としてブナイ・ブリス[B'nai B'rith]が設立されたことを快く思わないユダヤ人は多かった。ブナイ・ブリス設立の当初、アメリカにいて事の成行きを目撃したヨーロッパのユダヤ人、イスラエル・ジョセフ・ベンジャミンは、自分の体験を記した著書『アメリカでの三年間、一八五九-六二年』の中で、この結社について次のように述べている。
「これは秘密結社である。合い言葉などを使ったりするあのフリーメーソンと同じ秘密結社である。そして私にはそれまでなかった全く新しい組織のように見えた。・・・・それでも、全くつくる必要のないもののように私には思えた」
エドワード・E・グラスド[Edward E. Grusd]が著した半ば公式のブナイ・ブリス史『ブナイ・ブリス-契約の歴史[B'nai B'rith : the story of a covenant]』でさえ、初期の支部が排他的なほどにユダヤ的特性を持っていたことを強調しているだけで、ブナイ・ブリスがフリーメーソンを母体にしてできたという事実を少しも隠そうとはしていない。
「今日でも時々語られる一つの伝説がある。それは、ブナイ・ブリスが創設されたのは、一八四三年にユダヤ人がフリーメーソン結社とオッド・フェローズの構成員から除外されたからだというものである。これは明らかに事実に反する。というのはブナイ・ブリスの創設者の中に、これらの組織に加入していた人が何名かいたからである。ジョーンズやローゼンバーグ、ルノー等をはじめブナイ・ブリス設立直後に加入した人々が書いた記録が断片的に残っているが、それを見てもこの点については全く疑問の余地はない。
・・・・『神の助けによって、アメリカに住むイスラエルの子孫を一つにまとめる手段」としてのユダヤ人組織であるといったようなことをジョーンズは書き残している」
二股がけの戦術
ブナイ・ブリスは勢力拡大のために大規模な人集めを行ったが、その最初の試みはバルーク・ロスチャィルド[Baruch Rothschild]の手によるものだった。彼は、メイヤー・アムシェル・ロスチャィルドが興したロスチャィルド一族の人物だった。彼がそういう活動を始めた理由は「構成員は同等の教育を受けてはおらず、知的能力に大きな差があった」点を心配したからだった。言い換えれば、ヨーロッパ封建時代の貴族の秘密結社が採っていた加入者全員に同一の厳しい資格要件を課するという方法を、ブナイ・ブリスも採用したわけである。
ブナイ・ブリスが優秀な人々を求め出した裏には、この団体が中心になってアメリカ共和国に対してかってなかったほどの反逆的な陰謀を巡らしていたという事情がある。 この陰謀については、米国情報部職員であり発明者でもあったサミュエル・B・モースが一八六〇年に著し、人口に膾災した有名な情報レポートに記されている。 「アメリカ合衆国解体を目論む今日の試み-イギリス貴族の陰謀」 と題するこのレボートだった。その中で、モースは次のように記している。
「アメリカ合衆国に対するイギリスの態度を見ると、アメリカという国家に対し敵対的な態度をとっている二つの党派がはっきりと存在する。一つは南部側につく綿花の利害関係者、もう一つは北部側につく奴隷制廃止を唱える人たちである。そしてイギリスはこの二つのグループ間のバランスを巧妙にとりながら事を進めている。すなわちこうした党派を自己の政治目的のために米国内において自分の持ち駒のように使うわけで、常に双方がいがみ合う形をとらせておくために、一方または他方の側に、あるいは両方同時に援助を与えるというやり方をしている」
特に二人の人間の存在が、モースが露いた陰謀にブナイ・ブリスがどういう役割を果たしていたかを端的に示している。その二人のうちの一人は南部連合の要職にある人物であり、もう一人は北部民主党の大物であった。
最初の男の名はジュダー・P・べンジャミン[Judah P. Benjamin, 1911-84]。

「南部連合の闇の貴公子」、「ユダヤ人南部連合支持者」、「南部連合の頭脳」といった様々な名で知られた人物である。南カロライナ州チャールストンでスファラディ・ユダヤ人の両親から生まれたべンジャミンは、二年間エール大学で学んだ後、なぜかこの名門大学を去り、その後ルイジアナ州ニューオーリンズに再び姿を現した。エリ・N・エバンスによる好意的な彼の伝記によれば、べンジャミンが突然エール大学を退学した理由は、彼が何人かの学生の持ち物を盗んだことがスキャンダルになったからだという。
一八五二年、べンジャミンはアメリカ合衆国上院議員となり、南北戦争が始まったときもその地位に留まっていた。戦争開始とともに彼は初代司法長官として南部側に加わり、後には陸軍長官や国務長官となった。


その後、彼は南部連合大統領ジェファーソン・デービス[Jefferson Davis, 1808-89]とともに、アブラハム・リンカーン大統領の暗殺を命令した嫌疑で公式に起訴されたが、バージニア州アポマトックスでロバート・E・リー将軍が北軍の前に降伏した時、カリブ海のビニミ島経由でイギリスへ逃亡した。そしてイギリスは彼に対し、合衆国解体を狙う自分たちのために多大の功績があったという理由で弁護士として特別の地位と富を与えた。べンジャミンはロンドンへ亡命した後も、アメリカ共和国を倒すため、クー・クラックス・クラン(KKK)の見えざる帝国といった秘密結社をつくるために引き続き奔走した。ブナイ・ブリスの正式なメンバーではなかったにもかかわらず(ある記録によると彼はプロテスタントに改宗さえしたという)、べンジャミンはスコティッシュ・ライト南部地区の重要人物であっただけではなく、チャールストンを拠点にしたブナイ・ブリスの国家に対する背信行為のすべてを操る黒幕でもあった。
べルモントの活動
もう一人の人物の名はオーガスト・ベルモント[August Belmont, 1813-90]であった。一八三七年五月十四日、彼はニューヨークにやって来た。彼はここへ、ロスチャィルド家の利権に関する仕事を口実にキューバへ行く途中、立ち寄ったものにすぎなかった。ところがべルモントがニューヨークに到着したちょうどその時、金融大恐慌が起こり、十九世紀最大の不況が始まった。彼はロスチャイルド家が抱える従業員のために緊急の事業を始める任務を急遽命ぜられた。べルモントはそのままニューヨークにとどまった。

そして、一八五六年に民主党党首にまで上りつめたあとも、二十年間その地位にとどまった。

ジュダー・P・べンジャミンとオーガスト・べルモントはともに、ブナイ・ブリスやスコティッシュ・ライトの幹部たちとも組んで合衆国を崩壊させるべく様々な活動を行った。
この活動はべルモントがブナイ・ブリスのチャールストン支部の幹部だったエドウィン・ディリオンに、「若きアメリカの現状と果たすべき役割」と題するパンフレットの作成を命じた時から本格的に始まったと言える。ディリオン家は奴隷商人で、南部連合において重要な役割を果たすようになった。パンフレットの作成にとりかかった時期、エドウィン・ディリオンとオーガスト・ベルモントはロンドンにあるスコティッシュ・ラィトの上部組織の支部が二人の人物を使って始めた合衆国の転覆工作を支援するために働いていた。二人の人物とは、オカルトを信じるエドワード・バルワー・リットン[EdwardBulwer-Lytton, 1stBaronLytton, 1803-73]と

べンジャミン・ディズレーリ[Benjamin Disraeli, 1804-81]の二人だった。

この活動には「ヨーロッパ青年(ヤング・ヨーロッパ)運動」という名が冠せられたが、この運動が後に共産党第一インターナショナルの活動に受け継がれていくことになる。

それはアメリカのみならずヨーロッパのすべての国々の内部にも、イギリスの代理人のネットワークを築き上げることを目的としたものだった。

アメリ力解体の目論み
アメリカ国内では、アメリカ青年(ヤング・アメリカ)運動が起こされ、そこにイギリスの手先の人間が多く集まった。ブナイ・ブリスのエドウィン・ディリオン、オーガスト・べルモント率いる民主党から遣わされたジョージ・サンダーズ[George Nicholas Sanders, 1812-73]、

空想的理想主義者でこの運動の機関誌『ヤング・アメリカ』の編集者でもあるラルフ・ワルド・エマーソン[Ralph Waldo Emerson, 1803-82]といった人たちもそれに含まれていた。

アメリカ青年運動は、自由貿易を主張し、中欧におけるロシアとオーストリアの覇権に対抗するため英米が手を結ぶ必要性があると主張した。
一八五三年六月、パーマストン卿とシャフツべリ伯爵が直接後ろ楯となり、欧米双方で青年運動を進めている指導者たちがロンドンに集まって一連の会議を開いた。その目的はヨーロッパ大陸と北米一帯にイギリスの影響力を拡大するための政府転覆計画を話し合うことにあった。
出席したのはオーガスト・べルモント、ジョージ・サンダース[George N. Sanders]、イタリア青年運動からきたマッツィーニ[Giuseppe Mazzini, 1805-72]と


ドイツ青年運動からきたアーノルド・ルージ、ロシア青年運動からきたアレクサンドル・ホルツェン等々であった。
スコティッシュ・ライトが後援するアメリカ青年運動の中心人物の手で、ブナイ・ブリスの幹部の顔ぶれが目立つ秘密結社ゴールデン・サークル騎士団が組織された。 この結社はアメリカ共和国解体を推し進めるというはっきりとした目的のもとに設立されたものである。 この団体にはジュダー・P・べンジャミン、オーガスト・べルモント、南部地区スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの騎士団長アルバート・パイク[Albert Pike, 1809-91]将軍、

後の南部連合大統領ジェファーソン・デービス[Jefferson Davis, 1808-89]、

ジョージ・サンダース、それに南カロライナ州チャールストンのブナイ・ブリスの創設者で後に会長になったべンジャミン・ペイクソット[Benjamin Peixotto, 1834-90]が加わっていた。
P・ゴールドスタイン&J・スタインバーグ ユダヤの告白 第二部かくてアメリカは浸触された 第六章ブナイ・ブリスの正体 p117-122 より
参照
米国は「クラウン」の金融植民地である By Henry Makow Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12159349/
静かなる戦争のための沈黙の兵器 戦略と戦術:通貨の崩壊、アメリカ国民相互の信頼崩壊
http://satehate.exblog.jp/8003748
破綻の連鎖:混沌から秩序へ
http://satehate.exblog.jp/9718160
かれらはいかに世界を支配しているか By Henry Makow Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/8078264/

「衝突紛争、憎悪、 不和抗争 、飢餓、疾病の接種、欠乏困窮によって、すべての者たちを疲労困憊させること。非ユダヤ人達が、われわれの金と権力にすがる以外、ほかに逃げ出す道を見いだせなくなるまで。 」 ( プロトコル10 )
[そして] 「 ...我々が、障害なしに、世界のすべての政府権力を吸収して、1つの超政府を形成することを可能にする。 」 (プロトコール5 )
「その時、いったい誰が疑うであろうか?これらの人々はみな、何世紀にも渡って何びとも推測すらしなかった政治的計画に従って、我々によって踊らされていたことを。」 (プロトコール13)






by oninomae | 2009-10-05 20:13 | 政治詐欺・政治紛争