アジア秘儀に由来するシオ二ズム
アメリカ侵略の野望
一九八九年の夏、米国・テキサス州議会の一部議員グループが、墓場荒らしや動物のいけにえを捧げる儀式を行うサタン礼拝者たちに厳罰を科する法案を提出した。
この立法化の動きは、メキシコのマタモロスに本拠を置く麻薬取引人の一味がテキサス大学生マーク・キルロイを誘拐、殺害したことがきっかけで起こった。マタモロスはテキサス州ブラウンズビルから国境を越えたところに所在する街である。
一九八九年五月にメキシコとアメリカの警察が、マタモロスの近くにあるコカインとマリファナの隠し場所と見られる農場を手入れしたとき、集団埋葬を行った墓地とサタン礼拝の祭壇を発見した。キルロイを含む少なくとも十五人が、拷問にかけられた上そこで殺されていた。死体はばらばらにされて大鍋の中に入れられていた。その麻薬取引人一味のリーダーであるキューバ系アメリカ人、アドルフォ・デ・ジーザス.コンスタンッオは、人間をいけにえとして捧げ悪魔礼拝をすれば、サタンの力が警察から自分たちを守ってくれると一味の者たちに説いていたのである。
この思いがけない出来事、それに犯罪的な儀式がもたらす気味悪い恐怖の念にテキサス中は大変な衝撃を受けた。悪魔礼拝というおどろおどろしい儀式を禁止し、悪魔礼拝者に長期拘留と多額の罰金を科そうというこの法案は、ほとんど全員の支持を得た。テキサス州知事はこの法案を通過させるために特別州議会を召集した。
しかしブナイ・ブリスのADLは、この法案を「反ユダヤ主義」と決めつけ、法案通過阻止のためのキャンぺーンを大々的に張った。まずユダヤ人共同体の間で反対運動を起こそうと必死になったADLは、この新しい法案が通ればラビが男児に割礼を施すと起訴されるおそれが出てくると主張した。しかしグラスやヒューストンの有力なラビたちをはじめテキサスのユダヤ人共同体の大半は、ADLの圧力に従うことを拒否しこの法案を支持した。
これはADLのやり口の典型的な例である。
ADLというのは何であるのかそれを深く理解する上においても、またアメリカの内側において彼らが悪しき役割を理解するためにも、悪魔礼拝を行うオカルト主義者の権利を擁護しようとするADLのこの奇妙な行動をまず見てみることは役に立つ。
アジア秘儀に由来するシオ二ズム
二十世紀への世紀の変わり目に創設されて以来、ADLは国際的オカルト団体フリーメーソンの形だけの「ユダヤ」ロッジ(支部)の中心的存在であった。フリーメーソンについては、一部の歴史家は「ユダヤ人でないユダヤ人たち」と称している。
ADLの母体であるブナイ・ブリスは、スコティッシュ・ライト・フリーメイソンのユダヤ人部門として一八四三年アメリカに創設された。 その際のフリーメーソンのトップは、当時のイギリスの首相でありアヘン戦争のイギリス側最高責任者であったパーマストン卿[Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, 1784-1865]であった。
パーマストンの外交団はオカルト主義の温床であった。第一次アへン戦争当時のイギリスの駐中国首席外交官はエドワード・バルワー・リットン[Edward Bulwer-Lytton, 1st Baron Lytton, 1803-73]であるが、彼もまたオカルト主義者であり、ローマ帝国の異教信仰の復輿を唱える『リエンッィ[Rienzi]』や『ポンぺイ最後の日[The Last Days o fPompeii]』など多くの書物を著している。
ブナイ・ブリスが正式に設立される数世紀前から、ヨーロッパにおいては強大な権力を有する寡頭政治を目指す人々の集団がユダヤ人の神秘的な儀式に関する書『カバラ』を研究し、これを彼らの秘密結社の中に取り入れていた。
薔薇十字団、エルサレムの聖ヨハネ騎士団、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンといった秘密結社は、ルネッサンス期から近代国家が出現した時代にかけて起こってきた新しい動きに対抗し、ヨーロッパの封建時代の古い制度を守るために創設されたものである。
封建制度を維持しようとするこうした者たちはカバラの儀式を取り入れた際、それに携わっていたユダヤ人中特定の家族を選んで自分たちの仲間に組み入れた。このような特定のユダヤ人の家系の者を意味するものとして「ホフユーデン」(宮廷ユダヤ人)という言葉がつくられた。こうしたユダヤ人は、寡頭政治の下で首席宮廷顧問という特別の地位に就いた。だが、その一方で彼らの同胞であるユダヤ人が迫害され、見せしめの犠牲者となり、隔離されたゲットーの中で貧しい生活を強いられるということがしばしば起こった。
十七世紀中頃にスコティッシュ・ラィトの指導的フリーメーソンであったエライアス・アシュモール[Elias Ashmole,1617-92]がイギリスのオックスフォード大学[University of Oxford]を「秘密の知識」研究の中心機関につくりかえるよう命じられたことをきっかけに、ヨーロッパの秘密結社はカバラ儀式の採用に一段と積極的になった。
アシュモールの伝記作家C・H・ジョスターによれぱ、「一六五二年二月、アシュモールは自分のそれまでの研究にもうひとつの主題を加えた。その主題というのは、カバラの記号を使った魔術用の印章を彫る儀式、および彼の目にとまった、ユダヤ人こそが最高とするユダヤ史料に関する研究である」という。
一六四五年、アシュモールは出来たばかりのイギリスのフリーメーソン支部に入り、すぐにこれをスコティッシュ・ライト結社に改組した。またその一方で同じ頃、彼はカバラの神秘主義の流れをくむユダヤ教などのアジアの秘儀を研究するためにアシュモール博物館[Ashmolean Museum]を設立した。
シオニズムは、こうした研究を母体に生まれてきた考えである。
アメリ力独立戦争の背後で
一七六三年、寡頭政治を目指すイギリスのグループは、ホフユーデン初の組織であるユダヤ評議会を設立した。それは今日もなお存在している。この評議会の構成員はカバラ主義のラビと有力なユダヤ人金融家たちであった。 金融家としては、モンテフィオール[Montefiore Family]、セバッグ[Sebag family]、そして後にはロスチャイルド[Rothschild family]といった一族が名を連ねていた。この評議会の構成員となったカバラ主義者には、アシュモール博物館やオックスフォードで直接訓練を受けた人々が多かった。
アメリカ独立革命すなわちアメリカ植民地の反英闘争の頃には、イギリスの寡頭制支持者たちは、後のADLのような「汚いトリック」を受け持つ特別な組織としてカバラ主義者のネットワークを利用していた。 これらカバラ主義者の中には、ユダヤ人の血を全く承けていない人たちも混じっていた。そのような人物の存在を示す一例として、次のような事実を挙げることができる。
一七八〇年、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンであり、イギリス東インド会社を動かす「秘密委員会」の会長でもあったシェルボーン卿[James Dutton, 1st Baron Sherborne, 1744-1820]は、当時首相であったノース卿[Frederick North, 2nd Earl of Guilford, 1732-92]率いるイギリス政府に対し政治闘争を仕掛けた。シェルボーンはこのノース卿に対して北米における惨澹たる敗北の責任を負っていた。
英国議会がアイルランドのカトリック教徒に一定の自由を認める法律を通過させた時、シェルボーンは彼の手先の一人ジョージ・ゴードン卿[Lord George Gordon,1751-93]を使ってプロテスタントを煽動し、議会で反カトリック暴動[Gordon Riots]を起こさせた。
ロンドンの浮浪者や地方からやって来た農民からなる群衆が何日にもわたって暴徒と化し、放火と略奪を行った。暴動の参加者は東インド会社の手先から買収されていた上に、酒を振舞われていた。彼らは議会の中にまで乱入し、上院議員たち、中でもシェルボーンや「東インド会社」に反対していた上院議員たちは、二階の窓から放り出された。上院の公安委員会議長であったシェルボーン卿は、これに対してあえて暴動法を発動したり警官の出動を要請したりすることもせず、混乱を二日間も放置した。
暴動が鎮圧された後、ゴードン卿はほんのしばらくロンドン塔に監禁されただけだった。ノース内閣は恐慌をきたし、その後しばらくして内閣は辞職してしまった。新内閣においてシェルボーンは植民地大臣となり、その後アメリカ独立戦争を終結させるべくパリ条約が話し合われた大切な時期に総理大臣に就任した。
ゴードン卿はロンドン塔から解放された後、カバラ主義ユダヤ教に改宗し、名もイスラエル・べン・アフラハム[Yisrael bar Avraham Gordon]という名に改めてオランダに再びその姿を現わした。
別の人間になりかわったゴードン卿は、ルイ十六世末期のフランスで活動し、フランス人の魔術師やフリーメーソンの手先であったメスマー[Franz Anton Mesmer, 1733-1815]とともにマリー・アントワネットの中心的オカルト・アドバイザーとなった。
P・ゴールドスタイン&J・スタインバーグ ユダヤの告白 第二部かくてアメリカは浸触された 第六章ブナイ・ブリスの正体 p109-113 より
訳文は、例えばここ
「ユダヤの告白」6
http://oriharu.net/jADL6.htm
参考
エリアス・アシュモール
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/asyumoirl.htm
歴史学者でもあった彼は、騎士団の研究者として知られており、「ガーター騎士団の歴史」(1672年)は、今もなお宗教騎士団と勲爵騎士団の来歴の一級の研究書として利用されている。
さらに、彼は古文書、絵画、骨董品、貴稿書のコレクターとしても知られており、彼はこの文化遺産を1677年にオックスフォード大学に寄付している。その寄贈品は馬車十二台分にもおよび、大学はそれを収容するために、新たに「アシュモール美術館」という分館を創設したほどである。
アシュモールは、錬金術を金属変性の物質的な技術ではなく、ヘルメス哲学として捕らえていた。そして、薔薇十字思想にも強い関心を示し、薔薇十字文書の「名声」と「告白」の英訳の手書きの写しと共に、入団を望む手紙も書き残している。
ウィリアム・リリー
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/ririi.htm
リリーは、見事な占星術書の蔵書を誇っていたが、彼の死後、友人のエライアス・アシュモール卿によって買い取られた。それはオックスフォード大学に寄贈され、今も現存する。
by oninomae | 2009-10-03 19:47 | イルミナティ