CFRの誕生と全体主義との初期のつながり by ジェームス・パーロフ 3 競争は罪悪だ!
競争は罪悪だ!
本書では一再ならずウォール街の最高層グループと共産主義の提携を指摘してきた。もちろんこれはまず正統的な見方ではないであろう。われわれはマルクス主義者と資本主義者は不具戴天の敵だと常々聞かされてきた。しかしこの教えは彼らの記録によってしばしば裏切られる。
おそらくロックフェラーという名ほど資本主義を象徴する名はあるまい。それなのにこの一家は数十年のあいだ共産主義国との取引と信用に応じている。ボルシェヴィキの政権獲得後、ロックフェラー系列のスタンダード・オイル・ニュージャージーはロシアの油田を買い占め、一方スタンダード・オイル・ニューヨークはソヴィエトに精油所を建設し、同国の石油をヨーロッパ市場で販売する協定を結んだ。一九二〇年代にロックフェラー系のチェース銀行は米露商業会議所設立に力を貸し、ソヴィエト原材料に融資するとともにソヴィエト国債を合衆国内に販売することに熱中した(18)。
さらに最近においてもロックフェラーの全体像は変わっていない。一九六七年一月十六日のニューヨーク・タイムズ紙が「共産主義国との取引促進のため、イートンがロックフェラー陣営に合流」という見出しをつけた。それに続く本文は、ロックフェラー家がソヴィエト圏に五千万ドルのアルミ・プラントと二億ドル以上に見積られるゴム・プラントの建設資金を供給している、大立者のキュロス・イートン・ジュニア[Cyrus Eaton Jr. ]と協力しているとあった。
アメリカの科学技術は、一九七〇年代にソヴィエトが五十億ドルのカマ川トラック工場を建設するのを助けた。それは世界最大の重トラック生産工場で、ソ連政府によってアフガニスタン侵攻戦のための車輔生産といった軍事目的用にうまく転換されている。ソヴィエトは大半合衆国からの融資で工場を建設したが、その主要な私的信用源はデイヴィッド・ロックフェラーの主宰するチェース・マンハッタン銀行であった。モスクワのカール・マルクス・スクエア一番地に支店を持つ同行は、鉄の力ーテンの向こうのプロジェクトに融資することで悪評を得た。
ついでながら、J・P・モルガン一派が初期時代のCFRを支配している間に、影響力の中心が徐々にロックフェラーに移行したことを述べておこう。事実デイヴィッド・ロックフェラーが一九七〇年から八五年までCFRの議長であった。
ここで当然起こるべき疑問は、超富豪と共産主義国との間にこの思いもよらないしかも公にされない友好関係がなぜ存在するのかということである。もしも共産主義者が彼らの信条に忠実であるなら、彼らは「資本主義の巨頭たち」に唾をかけ、ベッドを共にするようなことはしないであろう。
ある概念を定義--もしかすれば再定義かもしれないが--すれば、その意味は明瞭となる。共産主義は事実上、政府が全権力--政治権力だけではなく、経済、教育、通信などを支配する権力--を持つ制度である。社会主義は本質的に共産主義の小型版弟分である。政府が生産手段と分配手段を支配するが、しかしその権限においてはそれほど広範なものではない。
アメリカの自由企業体制は、作られた当初のままだと共産主義とはほとんど正反対のものであった。憲法により政府は「自由放任主義」に留まることを余儀なくされ、取引、教育、宗教および国民生活の他の大抵の主要事項に何の影響力も発揮できなかった。これらの事項は国民の私的掌中に委ねられた。
自由市場を通じてその身代を築いた富裕な資本家たちが、この自由企業体制の支持者だろうと考えるのは至極無理からぬところである。しかしながら歴史的には事実はそうでなかった。自由企業は競争を意味する。純粋な形では各人が市場でうまくやる平等の機会を持っているということである。 しかしジョン・D・ロックフェラー、J・P・モルガンその他の金融トラストの親玉たちは強力な独占論者であった。独占論者は競争を排除しようとする。事実、かつてロックフェラーは「競争は罪悪だ」と言った。こうした人たちは自由企業体制擁護者ではなかった。
彼らがマルクス主義と懇ろなことは(マルクスの共著者フリードリヒ・エンゲルスは裕福な実業家であったことを思い出してもらえばよい)、共産主義と社会主義がそれ自体独占の一形態であることを認識すれば、さらに理解し易くなる。唯一の違いは、これらの主義の場合、独占が政府によって運営されることである。しかし、もし国際銀行家が国への融資、中央銀行の操作、選挙運動資金の寄付、あるいは賄賂などによって政府支配を成就し得るとすればどうだろう。このような場合には、彼は社会主義を歓迎すべきものと考えるであろう。それは社会主義が彼が社会を支配するための道として役立つからである。
政府を利用する戦略
フレデリック・C・ハウ[Frederic C. Howe, 1867-1940]はその著"Confessions of a Monopolist"(一九〇六)のなかで、下記のように詳しく政府を利用する戦略を立てている。
「これは労せずして何かを手に入れる他人に払わせる話である。この他人に支払わせること、すなわち濡手で粟を得ることが、一手販売権、鉱業権、関税特典、鉄道支配、免税を血眼になって求める理由をはっきりさせている。これらのものはすべて独占を意味し、しかもすべての独占は法律に根拠を置いているのだ」 (19)
ハウはさらに続けて説く。
「上記のことは大事業では決まりきったことである。それらはわれわれの先祖の教えに取って代わり、簡明な金言に変化している。すなわち、独占を達成せよ、社会を汝のために働かせよ、あらゆる商売の最良のものは政治であることを記憶せよ。なんとなれば、法律による認可、一手販売権、補助金あるいは免税は、それをいかに利用しても、精神的にも肉体的にも何の労力も必要としない故、キンバレー[訳注:南アフリカのダイヤモンドの産地]あるいはカムストック[訳注:銀の産地]の鉱脈以上の価値があるからである」 (20)
ジェイ・グールド[Jason "Jay" Gould, 1836-1892]やコルネリウス・ヴァンダビルト[Cornelius Vanderbilt, 1794-1877]のような十九世紀の悪徳資本家は、一部は政府役人を買収することで金持ちになった。実業家の昔からの鞭ともいうべき「規制」は別の一面を持っている。それは排他的独占権を得るため、また税収入を食い物にするために利用できるのである。初期の鉄道王たちは、彼らの路線建設の費用を支払うため共同募金を得ることができた。その正に最初の規制機関--州間通商委員会--が、鉄道利用者ではなく鉄道所有者の陳情によって作られた。連邦準備制度が考究されていた一九一二年に、J・P・モルガンの共同経営者ヘンリー.ディヴィソン(後にCFRメンバーとなる)が「自由競争よりむしろ規制と管理を選びたい」と議会に告げた(21)。アントニー・サットンは、"Wall Street and FDR"のなかで演説や書物で社会主義を支持した一連の企業名士たちを論評している。
大企業が自らの目的のためにいかに政府を利用するか、その現代の好例が輸出入銀行である。この国営銀行は「通商促進」のため設立された。それがいかに機能し得るか次に示しておこう。
あるアメリカの生産者がその製品を、例えばポーランドに売りたいと考える--しかしポーランド国民はそれに払うべき現金を持っていない。そこで輸出入銀行が理屈の上では商品を買うべき金をポーランドに貸すことになる。ここで「理屈の上では」と言っているのは、実際上はこのステップは不要だとして省かれる--その金は直接該生産者に支払われる--からである。その後にポーランド国民は輸出入銀行に分割払いで返済するしかしアメリカ納税者の補助による低利率で。もしポーランド国民が返済を履行しなかったらどうなるか。われわれ納税者がすべてのツケを引き受けるのだ!生産者は連邦機関を介して自らは全く危険のない取引を行うのである。
地球上に政府ほど強いものはない。これは遥か以前に国際銀行家が認めた事実である。規制、社会主義、共産主義は漸次移行する独占の異なる段階にすぎない。政府が物事を管理しようが諸君が政府を管理しようが誰がかまうものか。
共産主義国家では国民は政府を管理しないと見られている。そこには選挙が全くないかまやかしの選挙があるだけである。
ちょうどウォール街の多くの頭領たちが自由企業の旗印の下に偽った動きをしているのと同じく、共産主義者たちも自分たちの宣伝用作り話を持っている。彼らは一般には国民--「大衆」--の闘士と信じられている。 それなのにペトログラードからプノンペンに至る国民絶滅政策は共産主義が支配を奪った国の刻印であった。国民を中に入れない壁と有刺鉄線を構築するのは一体いかなる種類の政府なのか。そのような国は「労働者の天国」ではなくて牢獄である。
帰するところマルクス主義と資本主義的独占主義両者の目標にはほとんど相違がない。そして双方ともCFRと相携えて共通の最終目的すなわち単一世界政権への道を共にしている。
ジェームス・パーロフ 権力の影 第3章 CFRの誕生と全体主義との初期のつながり p100-105より
1930年、東65番街のCFR本部開設披露式にて。演説者には(左から右へ)財務担当秘書エドウィン・F・ゲイ[Edwin F Gay, 1867-1946]、名誉理事長エリヒュー・ルート[Elihu Root, 1845-1937]および理事長ジョン・D・デーヴィス[John William Davis, 1873-1955]がいた。ルートはこの演説で、目的達成のためCFRは「堅実な不断の地味な努力」に徹して基礎固めに少しずつ努めなければならないと述べた。
チェース銀行の頭取として、マクロイ-デビッド・ロックフェラー[David Rockefeller, b.1915]の左側に、ジョージ・チャンピオン[George Champion]、およびスチュワート J. ベーカー[Stewart J. Baker]、-は1955年、そのロックフェラーに支配された銀行を、ウォーバーグ支配下のマンハッタン銀行と合併させることで、チェースマンハッタン銀行を形成し米国第2位の銀行に変えた。
by oninomae | 2009-04-13 20:31 | イルミナティ