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伏魔殿のような国際決済銀行 by チャールズ・ハイアム 2

BISはアメリカのヘンリー・モーゲンソー[Henry Morgenthau, Jr., 1891-1967]財務長官が嫌悪する銀行だった。

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口の重い、慎重かつ細心なユダヤ系の農場経営者だったモーゲンソーは、富裕階級出身にもかかわらず、財産や権力を信用していなかった。労働にともなう高潔さを規範にしていたので、彼は腐敗を見つけ次第、暴露することが自分の義務であるといつも考えていた。背が高く、少々不恰好で、毛の生え際がかなり後退していた。そして、かん高い声で会話をし、神経質でぎこちなく笑い、鼻めがねをかけ、人を試すような小さな目をした高慢な男がモーゲンソーだった。彼の父親[Henry Morgenthau, Sr., 1856-1946]はウッドロー・ウィルソン(二十八代大統領)の下で第一次世界大戦中、トルコ大使だった人物である[He was born in Mannheim, Germany, in 1856 into a Bavarian Jewish family of 14 children, the son of Lazarus Morgenthau, who emigrated to the U.S. in 1866.]。

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Henry Morgenthau, Sr; Son of Lazarus Morgenthau and Babette (Guggenheim) Morgenthau

モーゲンソーは若い時分から土地こそが、腐敗した社会で道徳にかなった人生を追求できる解決策であるという考え方を持っていた。農業に取り愚かれた彼は、一九=二年、二十一歳のときに父親から金を借りて、ニューヨーク州ダッチェス郡イーストフィッシュキルに千エーカーの土地を購入した。この土地はハドソンヴァレーの中にあり、フランクリン・D・ルーズヴェルトが隣の土地を所有していた縁で、第一次世界大戦中にルーズヴェルトと親友になった。夫人同士のファーストネームが、エリノア・モーゲンソーとエレノア・ルーズヴェルトと非常に似ていたことも親しくなった理由である。

ルーズヴェルトが政治の世界の最上階に駆け上っていったのに対して、モーゲンソーは自分の土地に定着したままだった。一九二〇年代初頭、彼は「アメリカの農民」という新聞を発行し、政府が農業経営者に資金を貸し出すようにと盛んに要求した。一九二八年、ルーズヴェルトはニューヨーク州知事に当選した際、モーゲンソーを農業諮問委員会の委員長に任命した。モーゲンソーは委員長としてきわだった才能を発揮し、物納小作人のために精力的に働いた。

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伝説によると、一九三三年の冬のある冷たい日、ルーズヴェルトとモーゲンソーはお互いの農場が境界を接する所で会い、話をした。モーゲンソーがルーズヴェルトに「景気が悪くなってきましたね」と言うと、ルーズヴェルトが「ヘンリー、財務長官になってみないかね」と返事をしたことになっている。

モーゲンソーは経済面の知識不足を、ジェファソン流の民主主義と公的良心の番人としての役割を演じることですばやい対応をした。ハイドパークのルーズヴェルト記念図書館に保管されている千冊に近いモーゲンソーの公式日記は、彼がいかに財務長官としての職務を見事に全うしたかをいきいきと伝えてくれる。有能なスタッフが彼を手伝い、一方、彼は優しいが軍隊的な几帳面さでスタッフに接した。(引用注:原爆開発費用も出したわけで、そういうグループ構成員でもある)

彼が最も信頼した補佐役は、財務次官補の(引用注:ハル・ノートの草稿を書いた)ハリー・デクスター・ホワイトだった。

彼はモーゲンソーと同じユダヤ系だが、生まれは貧しかった。両親は無一文のロシア人の移民で、帝政ロシアに対する憎しみで凝り固まっていた。ホワイトの若い頃は苦労の連続だった。この背の低い、エネルギッシュで厳しい顔つきをした若者は、父親の金物店が繁盛するように努力しながら、最終的にハーヴァード大学の奨学金で経済学の学位を取り、そしてウィスコンシン州にあるロレンス・カレッジの教授の地位を確保した。ホワイトは大変な自信家で、自説を決して曲げなかった。また、彼は共産主義のシンパであるとたびたび非難されたが、実際には、祖先がロシア帝国主義に迫害されたという過去に影響された時代遅れのリベラリストにすぎなかった(引用注:かどうかは、よくわからない。「日支闘争計画」の線に沿って動いている)。

モーゲンソーがBISの会議にホワイトを長官代理として指名しなかったのは不運なことだったが、ホワイトはあまりにも有能で、政府内に彼の代わりになる者がいなかったのである。モーゲンソーはホワイトの代理として経歴がかなり怪しいマール・コクランを派遣し、BISを調査させた。コクランは国務省から財務省に出向していた人物で、戦争前そして戦争中も、国務省内に存在した一大勢力である中立主義グループの代弁者だった。コクランはパリのアメリカ大使館の書記官になり、ルーズヴェルトの友人であるウィリアム・ブリット[William Christian Bullitt, Jr., 1891-1967]大使の直属の部下として働いた。ブリットは二枚舌を使ったフランスのタレーラン外相のような人物だった。コクランは任期中、そのほとんどをバーゼルに滞在し、BISが何をしようとしているかをモーゲンソーとコーデル・ハル[Cordell Hull, 1871-1955)](国務長官)の両方に詳細に報告した。ホワイトに真っ向から反対し、しかも激しく反発したコクランは、彼が書いた報告書の多くを見れば分かるように、BISとナチスに対して好意的だった。モーゲンソーはコクランの政治的判断を懐疑的な態度であるが採択し、ホワイトの反対を押し切ってコクランを使い続けた。その理由は、ドイツ人たちがコクランを信頼しており、内密な話でも相談していることをモーゲンソーは知っていたからである。コクランはシュミッツ、シュレーダー、フンク、エミル・プールや他のドイツ人たちとBISの会議室で毎日、昼食を取りながら、BISの将来計画に関する情報を正確に把握していた。

一九三八年三月、ドイツ軍がウィーンに進軍した後、オーストリアが所有していた金塊のほとんどはドイツ軍に略奪され、BISの地下金庫室に梱包して収められてしまった。ドイツ人の役員たちはバーゼルのBISの首脳会議でこの件を議題にすることを禁じた。コクランはモーゲンソーへのメモの中で、この乱暴きわまる窃盗行為について報告しなかった。この金塊はドイツ帝国銀行副総裁兼BIS役員のエミル・プールが特別に指揮をして輸送され、フンク支配下のドイツ帝国銀行に収められた。一九三九年三月十四日付のモーゲンソーへの報告書の中でコクランは「プールとは数年来、懇意にしておりますが、彼は老練かつ有能な銀行役員です」と書き、ヴァルター・フンクのことも称賛している。

コクランが手紙を書いた時期が悪かった。その翌日、ヒトラーはドイツ軍をプラハに進軍させたのである。ナチス突撃隊はチェコ国立銀行の役員たちを逮捕し、銃口を突きつけながら、ドイツに包囲されている国、すなわちチェコの全国家財産である四千八百万ドルの金準備を差し出せと要求した。役員たちは不安げな顔をしながら、イングランド銀行に転送するということで、金塊はBISにすでに送った後であると語った。このことはあまりにも馬鹿正直な行為だった。

ヴァンダイクひげのイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、いち早くヒトラーを支持した一人だったからである。ノーマンはスキナー教授という偽名を名乗り、黒の夜会用外套を着て世界旅行をするのが趣味の変人だった。

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ナチス突撃隊から命令されて、チェコ国立銀行の役員たちはオランダ人のBIS総裁J・W・バイエン[J. Willem Beyen]に金塊をバーゼルに返すように依頼した。バイエンはフランス銀行から出向していたBIS総支配人ロジェー・オボアンと熱心に討議した結果、バイエンはロンドンに電話を入れ、金塊を返却するようにとノーマンに通告したのである。ノーマンはすぐさまこの要請に従い、そしてベルリンに送られた金塊は将来の戦争に向けての重要な戦略用資材を購入するために使われた。

もしここで、ポール・アインチヒ[Paul Einzig, (1897 -1973]という名前のイギリス人で、鋭敏な理想主義の若いジャーナリスト兼経済学者が、イングランド銀行の知り合いからこの金塊についての秘密情報を耳打ちされていなかったら、この金塊の行方は闇に葬られていただろう。アインチヒはこの金塊事件の顛末をファイナンシャル・ニュース紙に発表し、ロンドン市民を大騒ぎにさせたのである。アインチヒは、一匹狼の労働党下院議員ジョージ・ストラウス[George Strauss, 1901-1993]と緊急ミーティングを開き、ストラゥスはアインチヒを通してこの事件の調査を始めた。
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ヘンリー・モーゲンソーはイギリスの大蔵大臣であるジョン・サイモン卿[John Simon, 1st Viscount Simon]にある日曜日の夜、今後どうするかを決めるために電話を入れた。
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マール・コクランはその前に、BIS側に立った典型的なごまかし話をモーゲンソーに打電し、BISがナチスの組織の一部であるというアインチヒの告発を完全に否定していた。大西洋両岸を結ぶ電話口でサイモン卿が、「今、田舎に来ていましてね、長官閣下。ディナーを楽しんでいる真っ最中です。電話で仕事の話をしないのがわが国の習慣です」と冷ややかに言うと、「サイモン卿、ここアメリカでは過去四十年もの間、電話で仕事をしていますがね」とモーゲンソーはやり返した。

ジョン・サイモン卿はモーゲンソーの質問にのらりくらりと言い逃れを繰り返した。五月十五日、労働党下院議員のジョージ・ストラウスは総理大臣ネヴィル・チェンバレン
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次のような質問をした。「総理、チェコスロバキアの国家財産がドイツに渡っているという話は本当ですか」「本当ではありません」と総理大臣は返答した。チェンバレンはイー・ゲー・ファルベンが出資しているインペリアル化学工業の大株主であり、イー・ゲー・ファルベンのヘルマン・シュミッツはBISの取締役だった。チェンバレンの返答で下院は大騒ぎになった。

アインチヒは追求の手を緩めなかった。彼はノーマンがジョン・サイモン卿と共謀して金塊を秘密裏に移動したと確信していたのである。ストラウスの質問に対して、サイモン卿はこの件について何も知らないと答えた。

次の日、アインチヒは政治上の重要人物であるヘンリー・ストラコシュ卿[Sir Henry Strakosch, 1871-1943]を問い詰めた。ストラコシュ卿はサイモン卿との会談の内容を明かすことを拒絶したが、最終的に口を割り、サイモン卿とチェコの金塊の移動について討議したことを認めたのだった。

アインチヒは大喜びでストラウスに電話をし、この情報を伝えた。五月二十六日、ストラウスは下院の討論の場でジョン・サイモン卿に再質問をしたが、再度、サイモン卿はあいまいな返事を繰り返しただけだった。しかし、この大蔵大臣にとって不幸なことは、事件解明の急先鋒のリーダーがウインストン・チャーチルだったことである。(引用注:チャーチルへの「権力」移行の芝居だったと思う。準備する係と、戦う係の交代に向けたものだったのではないか)

モーゲンソーがさらに詳しい情報をコクランに要求した。バーゼルのコクランが五月九日に書き、左月十七日付でモーゲンソーが受理した手紙の中で、コクランはこの件について再度、次のように触れている。

BISの雰囲気はとても温かく、各国中央銀行のほとんどの総裁たちは何年も前からお互いに知り合いであり、バーゼルの再会の集いは総裁たちにとって楽しみばかりではなく、有益なものであります。私はすべての総裁と会合を持ちましたが、彼らの中には、次のような希望を述べている者もおります。各国の政治家たちがお互いに非難の応酬をすることを止め、ルーズヴェルト大統領と一緒の魚釣り旅行か、または万国博覧会に出かけ、お互いの自尊心や固定観念、心を乗り越え、そして現在ある政治的な諸問題の多くを比較的単純に解決するムードに共鳴するようになればいい、と思うと。

この楽観的な状況説明にモーゲンソーは納得しなかった。五月三十一日、AP通信がスイス発として、BISとイングランド銀行との間の業務は完了し、チエコの金塊は現在、ベルリンに保管されていると報道した。

チェコの金塊事件について決して忘れなかったアインチヒが、第二次世界大戦中にロンドン市街でJ・W・バイエンに偶然出会い、今なら真実を話せますかと聞いたところ、「すべては技術的なことで、チェコの金塊はロンドンに保管されたままでした」とバイエンは穏やかな口調で語った。アインチヒはそれを聞いて驚き、後に彼が書いた回想録『世界の中心にて」の中でバイエンに対して謝罪をしている。

実際には、金塊をベルリンで入手するためにロンドンから移送する必要はなかったのである。

BISとメンバー銀行間の金銭取引は通常の場合、通貨または金塊をそのまま輸送する方法は取らなかった、積み荷の中身を税関用のリストに載せなければならなかったので、金塊を輸送することは危険かつ面倒な手続きを必要としたからである。代わりに金の預金口座を調整することで処理したのだった。したがって、モンタギュー・ノーマンがしたことは、バイエンがBISにあるイングランド銀行の預金から四千万ドル分の金を差し引くことを許可し、ロンドンにあるチェコ国立銀行の預金から同額を穴埋めするだけでよかったのである。

一九三九年までにBISはドイツ国内に数百万ドルも投資している。一方ではクルト・フォン・シュレーダーエミル・プールは略奪した大量の金塊をBISに預けている。BISはヒトラーの機関の一つだったが、イギリスはドイツと交戦状態に入った後でさえ、BISの存続を承認していたのである。 またBISのイギリス側役員であるオットー・ニーマイヤー卿[Sir Otto Ernst Niemeyer, 1883-1971]とインーグランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンは、戦争が終わるまでそれぞれの地位に留まったままだった。 (引用注:首相が交代してもですよね)

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チャールズ・ハイアム 国際金融同盟―ナチスとアメリカ大企業の陰謀(原著1983、訳書2002) 第一章 伏魔殿のような国際決済銀行 p22-30 より


第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」 アルバート・パイク

この通りになっている。上層部では、両頭立てのお芝居だったのではないのか?


中央銀行の中央銀行も両頭立て作戦であっただろう。

第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている ……」
「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」 アルバート・パイク
 
今は、こうなるように金融操作を続けているだろう。 黒幕は変わっていない。

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しかし、ばれてるんでどうなるか?


参考

自爆テロ
http://blue.ap.teacup.com/97096856/2304.html



Massacre in Mumbai: Up to SEVEN gunmen were British and 'came from same area as 7/7 bombers'
http://www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1089711/Massacre-Mumbai-Up-SEVEN-gunmen-British-came-area-7-7-bombers.html


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by oninomae | 2008-11-27 22:00 | イルミナティ  

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