「ほっ」と。キャンペーン

フーヴァー 2 by ユースタス・マリンズ

ユースタス・マリンズ「世界権力構造の秘密」下巻、第8章 慈善事業を隠れ蓑にするペテン財団の全犯歴 より抜粋続きです。

p183-191


●「救済資金」のあまった分で数多くのアメリカの会社を買収した面々

1919年1月21日のニューヨーク・タイムズ紙に、フーヴァーが1億ドルのヨーロッパ援助の要請を行ったことが連邦議会上院で槍玉にあがっていると報じられた。フーヴァーの計画は、ペンローズ上院議員とゴア上院議員から、アメリカの精肉業者がもてあましている肉をヨーロッパに叩き売って楽にしてやるものだとの批判を受けた。
ペンローズ上院議員は、民主党院内総務のマーティン上院議員に質問した。
「そもそもフーヴァーはアメリカ市民なのですか?いったい一度でもアメリカの選挙で選ばれたことがあるのですか?」
マーティンはこう切り返した。
「わたしが提案しているのは、そのような見当はずれの質問にかかわり合うためではありません」
すると、ペンローズは断言した。
「フーヴァーが合衆国の市民であるとは、わたしには思えません。彼は公職の宣誓も行っておらず、その忠誠心は怪しいものであります。」

こうして批判を受けたことで、フーヴァーはカンカンになって怒り、4年間にわたる報酬なしの公務の数々を列挙した辞表を書いたほどだった。この辞表はけっして提出されることはなかった。そして何年もたって、フーヴァーの補佐官だったルイス・L・シュトラウスの私物書類のなかからひょっこり出てきた。

1919年9月4日のニューヨーク・タイムズ紙には、エドガー・リカードはスタンフォード大学で国際連盟をさかんに推奨する演説を行ったとある。フーヴァーハウス大佐は、ウィルソンの国際連盟計画に対して、上院および一般国民の承認を得るために力を合わせて運動した。

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ベルギー救済委員会という集団のメンバーたちはその後、合衆国の歴史に非常に華々しい役割を演じた。

フーヴァーは商務長官[1924-28]となり、やがて合衆国大統領[1929-33]となった。つい最近の1980年にも、フーヴァー研究所から「保守的」政権の前衛として一チームがごっそりワシントンに引っ越してきた。

プレンティス・グレイは合衆国食糧庁でフーヴァーの補佐官をつとめた人物だが、1922年にJ・ヘンリー・シュローダー銀行商会の社長に就任した。

ジュリアス・H・バーンズもフーヴァーの仲間で、J・ヘンリー・シュローダー銀行の会長になった。
 たぶん「救済資金」のあまった分であとになって数多くのアメリカの会社を買収したのであろう。バーンズは以下の会社の社長に就任した。ペジェプスコット製紙、ゼネラル・ブロンズ、バーンズ-エームズ社、ノースウエスト銀行、エリー&セントローレンス社である。

エドガー・リカードは、1909年に二人の持っていた鉱山株を推奨する雑誌を発行して以来のフーヴァーの相棒だったが、ベルギー救済委員会の名誉事務局長をつとめた。それが今度は、アンドロスコギン水力発電の社長、ベルギー・アメリカ貿易社長、エリー&セントローレンス副社長、ハザード鋼索社長、ヘイゼルティン社長、インターコンティネンタル開発副社長、ラトゥール社長、ペジェプスコット製紙社長、ピトニー・ポウズ副社長、木材繊維合板社会長となったのであった。

ロバート・グラントも合衆国食糧庁にいたが、ワシントンの合衆国造幣局長官となった。

プレンティス・グレイはまた、ブリティッシュ・アメリカ・コンティネンタル社、電気持株会社、水力発電証券会社、マナティー砂糖会社、セントリージス製紙、スイス・アメリカ電気、プルーデンシャル投資会社、インターナショナル持株投資会社の各副社長をつとめた。最後にあげた2社はソシエテ・ジェネラルとフランクが支配する会社である。この二つの投資会社は、もともとベルギーの資本家アルフレッド・ローウェンシュタイン大尉の創立したものだったが、大尉はイギリス海峡を飛行機で横断中に謎の失踪を遂げてしまった[上巻第4章278ページ参照]

ハーバート・フーヴァーは親友の顧問たちが数百万ドルの価値がある役職をしきりに追いかけているあいだ、公務員としての理想に身を捧げていた。商務長官に就任すると、フーヴァーは秘書官にクリスチャン・ハーター[1895-1966年。1953-57年マサチューセッツ州知事、1959-61年国務長官]を選んだ。ハーターは1920年から21年までベルギー救済委員会でフーヴァーの事務局長をつとめ、平和交渉アメリカ委員会でも事務局長となった。1919年から24年までは商務省でフーヴァーの秘書官をつとめた。ハーターはマンハッタンの屋敷をCFRの本部用に寄付したスタンダード石油のプラット家の人間と結婚し、のちに国務長官に任命された。

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●斡旋業者の習い性が抜けない大統領候補フーヴァー

チャールズ・マイケルソンは1944年の『幽霊は語る』のなかで、商務省時代のフーヴァーについて次のように書いている。

フーヴァー氏は、公式には相も変わらず斡旋業者以外のなにものでもなかった。フーヴァー氏が引き継いだとき、商務省はほどほどに近代的な組織だった。彼は内務省から鉱山局を取り上げた。商務省は外国の通商代理人であるというフーヴァー氏の持論を実行したときは、国務省の領分を侵して、わが国の在外公使館にいる商務官たちの仕事を取り上げた。フーヴァー氏が自分の省のために、政府の一庁舎としては最高に巨大でおそらくは最高に豪勢な設備の整った宮殿を建てたのはけっして偶然ではない。

フーヴァーが商務長官として行ったもっともめざましい行為の一つは、1909年から相棒をつとめてくれたエドガー・リカードにヘイゼルティン社のラジオ特許権を授与したことである。少なく見積もっても当時の金で100万ドルの価値がある贈り物だった。

フーヴァーは大統領のキャンペーンをはじめたとき、自宅の住所を「ニューヨーク市ブロードウェー42番地スイート2000号室」としていた。「スイート2000号室」は、エドガー・リカードの事務所としても登録されていた。ここはまた、フーヴァーの合衆国食糧庁時代の昔なじみジュリアス・H・バーンズの住所でもあった。

バーンズはいまやシュローダー銀行の会長に納まっていたが、この銀行はやがてヒトラーの個人銀行として名声を獲得することになる。

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フーヴァーが大統領候補の指名権獲得をめざしていた4年のあいだ、「ワイルド・ビル」・ドノヴァンは忠誠を尽くしてフーヴァーに仕えたにもかかわらず、カトリックという宗旨のせいでドノヴァンが政治的に重荷になってくると、フーヴァーはためらうことなくドノヴァンを斬って捨てたのであった[第6章021-022ページ参照]

ニューヨーク・タイムズ紙は1928年6月17日に、次のような記事を掲載した。

サンフランシスコのW・A・ベクテルから「われわれは建設業界を代表し、共和党が次の4年間、世界最大の事業の主任技術者となるべき候補者として、わがカリフォルニア人の仲間でかくも偉大な名誉にふさわしい器たることをみずから証明せる人物を選出されたことに対して、お慶び申し上げるものであります」との祝電が指名権獲得者のもとに届いた。

まもなくフーヴァーは、当時としては最大の公共事業となるフーヴァー・ダムを発注することになる。そして、ベクテル社はその筆頭契約業者となる予定になっていた。

フーヴァーは彼のいう慈善事業に没頭して余念がなかったはずなのだが、営利事業にもちゃんと関心を寄せていたようだ。フーヴァーと仲間のジュリアス・H・バーンズは、1919年12月7日にワシントン・ヘラルド紙を買収した。のちに、同紙はパターソン・マコーミック家が手に入れて、さらにユージーン・マイヤーの手に渡ったが、マイヤーは同紙をさっさと廃刊してしまった。ほかにもバーンズは、同じ1919年にペノブスコット製紙を75万ドルで買収した。たまたま彼の手元に現金がいくらかあまっていたと見える。

1920年1月28日のニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、ハウス大佐は英国のさる友人たちの援助を受けて、テキサス州のオースティンでフーヴァーを大統領にしようという雰囲気をせっせと盛り上げていた。

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その記事にはさらに、英国政府はグレイ卿がフーヴァー人気に一役買っていることを否定したとも報道されている。

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1920年4月23日にコモドール・ホテルで開催された晩餐会は、ジュリアス・バーンズとハーバート・フーヴァーが主賓だった。席上、基調演説者がハーバート・フーヴァーという名前は[文明世界にあまねく」有名であると高らかに宣言した。


●第一次大戦の秘密書類を封印するために設立されたフーヴァー図書館(研究所)

ホワイトギルマンウィルバーに説得されて、フーヴァーが記録書類をかき集めてフーヴァー図書館をつくろうと思い立つと、多大の支援が政府筋から寄せられた。

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           Andrew Dickson White[1832-1918]

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              Daniel Coit Gilman[1831-1908]

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Ray Lyman Wilbur[1875-1949]

戦争直後の当時でさえ、第一次世界大戦がどのようにはじまったのか、だれにもはっきりわからなかった。

そこで、できるだけ多くの関係秘密書類を戦争当事国から発掘してきて一カ所に集め、吟味した上で、必要なら詮索の目から隔離する処置を講ずることが、なにものかの関心を引いたのである。 
 


フーヴァーなら、パーシング将軍[1860-1948年。第一次大戦時の海外派遣米軍総司令官]に頼み、陸軍の将校数百人を動員して手伝ってもらうことも可能だった。米軍と最高経済会議から1500名の将校と幹部職員を徴募しヨーロッパ各地に送り込んだ、とフーヴァーは『フーヴァー図書館特別蒐集品』の序文で述べている。

ニューヨーク・タイムズ紙の1921年2月5日号には、フーヴァーが4000名もの代理人をヨーロッパに擁し、こうした書類集めに各国を駆けめぐらせていると報じられている。インフレ以前のあの時代にあっても、ヨーロッパで4000名の代理人を維持するとなると、想像を絶する費用がかかったに違いない。いったいだれがその費用をまかなったのか、いまだに一人も発見できていない。そのうえ、書類の多くは即金で買い上げられた。フーヴァーがこれまで公にした出費は、1919年に図書館設立にさいして寄付した当初の5万ドルだけである。

となると、この蒐集品を集めるために数百万ドルを出した人間はだれなのか? 

フーヴァーがこれだけの金額を投入したとは、とても思えない。しかし、この計画にいくらかでも金を出したと認めるものが、まだだれもあらわれていないのだ。

ニューヨーク・タイムズ紙は、先に紹介したコモドール・ホテルの記事のなかで、フーヴァーがスタンフォード大学の第一期卒業生として37万5000巻の書類を母校に寄贈したと述べている。このなかに、ボルシェヴィキの現存秘密記録の貴重な一揃いがあった。それにはロシア革命当初のソヴィエト地区のリスト数点も含まれていた。このリストはある門衛から200ドルで購入したものだった。ニューヨーク・タイムズ紙によれば、これらの稀少な古記録の写しはソ連政府にもまったくない!とのことである。

さらに、1941年6月30日のニューヨーク・タイムズ紙によれば、ロシア難民たちがやっと着の身着のままで立ち去るのを許してもらっているときに、フーヴァーは一度に貨車25輛に書類を積んでもち去ったが、ボルシェヴィキたちは文句もいわなかったという。フーヴァーの収集活動がソ連で特段の配慮を受けたのは、かつてボルシェヴィキ体制がヨチヨチ歩きをしていた時期に、フーヴァーが大量の食糧を急送して絶滅の危機から救ったおかげだったのかもしれない。

このほかフーヴァーの蒐集品のなかには、フリードリッヒ・エーベルト大統領[1919-25年ドイツ共和国初代大統領]からの寄贈品として、第一次世界大戦中のドイツ戦争会議の秘密議事録の完全な一揃いやマタ・ハリの日記、ロシア皇帝の個人文庫の中の稀少文書60巻が含まれていた。

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収集された文書の多くは、永久に封印されることになった。フーヴァー研究所は300点の封印文書を所蔵しており、これまでその調査を許可された者は一人もいないとニューヨーク・タイムズ紙は指摘している。 


●フーヴァー図書館(研究所)の歴代所長の華麗な経歴

このような事業全体の裏で糸を引いていたのはいったいだれなのか?証拠はなにもない。ただ、利害のある当事者、おそらくはフーヴァーの雇い主であるロスチャイルドあたりが第一次世界大戦の終わりに、ヨーロッパの戦争当事国から秘密文書をもち去ってアメリカ西海岸のような遠く離れた場所に移し、戦争をでっち上げたさまざまな共謀行為の証拠となりかねない書類を湮滅し、政治的脆弱性を軽減しようと決意したのではないか、と推測するぐらいがせいぜいである。

以下略
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by oninomae | 2008-03-01 02:06 | イルミナティ  

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