SGウォーバーグ

ロン・チャーナウの「ウォーバーグ一族」からのジークムント・ウォーバーグについての抜粋

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         サー・ジークムント G. ウォーバーグ [1902-1982]

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            ロンドンのSGウォーバーグ本部の天窓
         (ピラミッド内のフリーメーソンのオベリスクに注目)

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                    天窓の拡大

人間の本性への生涯学生として、ジークムントは反抗的で、物議を醸しさえする人々にしばしば引きつけられた。

1950年代に、彼はクリストファー・バーニーという名の一人の男を雇った。彼は戦争中フランスで捕らえられた英国のスパイで、1年以上にわたり(ナチス強制収容所)ブーヘンヴァルトに収監されていた。

戦後、バーニーは彼自身の経験についての「地下牢の民主主義」と題する一冊の本を書いてユダヤ人社会を憤慨させた。

彼はドイツの野蛮を非難したけれども、ユダヤ人の受刑者を賛美もしなかった。そして彼は非人道的な条件の下、いかに彼らが行儀悪く振る舞ったか示した: 「かれらは、S.S.(ナチス親衛隊)に対してさえ彼らの媚びへつらい、それは極端にうっとうしかった、そして彼ら自身の間でさえも、彼らは人間よりもむしろより動物のようにふるまった、争いまた死んだものや死にかかっているものから彼らの衣服を強奪したりして。」 何人かの書評家は趣味が悪いと評したが、他方、他の書評家は飛び抜けて勇敢で率直だと評した。

バーニーについての何かがジークムントの好奇心を刺激した。

生まれつきのコントラリアン(人と反対の行動をとる人)であった、ジークムントはしばしば不評判な立場をとる人々に惹かれた。

「ジークムントは、 1950年代にバーニーを見習い研修生として採用した。」とクーン・ロエブ商会のジョン・リビーは回想している。

「ある日ジークムントは彼に言った、『ここにいても幸福じゃないだろう』、そして30日間の徒歩旅行を提案した。」

ジークムントは彼を英国・フランス銀行の支配人にしたが、うまくいかなくなったときには、彼に別の仕事を与えた。

ジークムントは第二次世界大戦を長引かせなかった。
1950年代には、産業コングロマリットで、とりわけ、強制収容所向けのガスを製造したイーゲーファルベンの元責任者の息子を見習い研修生として雇った。

ジークムントはとても多くの人々を知っていた、が、まだその人間の内面はベールに包まれたままだ。
ロール卿が記しているように、 「このことが、彼の周りにある種のミステリーのオーラを創り出し、彼が生前ほとんど伝説に近い存在になることに導いた」
ジークムントとヘンリー・グルンフェルトは47年間一緒に働いたにもかかわらず、彼らは決して写真のために一緒にポーズをとることはなかった。

単なる白い紙に印刷されていたSGウォーバーグのレポートやパンフレットを写真が飾ることは決してなかった。これほど寡黙な会社は他にない。

ジークムントは母方の祖父カウラの秘密の三段階についての言葉を引用することを好んだ。

まず第1段階は、ある男は何か秘密にしておくと誓うが、彼の妻にしゃべる。

第2段階では、彼は妻にも話さない。

第3段階では、3年たつと彼は自分自身秘密を覚えていない。

ジークムントは第3段階に住んでいた。


新聞取材を遠ざけ続けた多くの人々と同様。

ジークムントは(記事の)脱落によって神秘を創り出した。彼は彼の生涯の中でほんの数回のインタビューのみに応じた。それも出版の前に、彼が細心の注意を払って編集し、「訂正する」という条件つきの場合に限り。彼は決して自発的に自分をさらしたりはせず、彼のパブリックイメージを完全に制御し続けた。彼が1970年に、サンデーテレグラフにインタビューを認めたとき、それはあまりに珍しいことであったため、「サー・ジークムント・ウォーバーグ語る」と大宣伝したほどであった。

彼は、無限の交際関係先を持ち、抜け目のない謎の人物で、産業界の大物の親友であるとの彼の名声に恵まれた。

ジークムントは、精神分析を個人的な弱さの徴候として非難し、ジミー・ウォーバーグのような賢明な人間がなぜそれをまともに受け取るのかけげんに思った。

しかし、フロイトの理論は彼の思考に浸透していて-たとえば彼の、ゴシップは性的不満を補償であるという信念に-彼は彼自身の代用療法を有していた。

心気症の強力な精神的緊張で、ジークムントは出勤途上にしばしば医者に立ち寄って、自分の健康状態について絶えず思い悩んだ。

彼はいつもある一人の主治医もしくは精神的導師をもっていた。

ウォーバーグのあるディレクターが、著名なロンドンの医師カール・ハインツ・ゴールドマン博士に診てもらってはと示唆した。博士は、ドイツ系ユダヤ人亡命者の一人で戦後、個人診療所を始めていた。

ジークムントが彼の診察室に入ったとき、彼は医者にラテン語で話しかけたが、医者が完璧なラテン語で返答したので彼は大いに驚いた。

それはあたかも帰郷したかのようで、その最初の受け答えで、彼らがドイツでの同じ古典的なギムナジウム教育を受けたものと判明したのだった。このことが彼らの間に強い絆をつくった。ときには、しかし、ジークムントがシュヴァーベンの方言でしゃべったので、ゴールドマン博士もそれを理解することができなかった。

最初に、ゴールドマン博士は、ジークムントの体を診察して、糖尿病と緊張に関係した頭痛の治療対象とし、ビタミンB12の気休めの注射をしておいた。 ジークムントは、これらの訪問後元気になって、ゴールドマン博士のことを「Zaubermeister」あるいは「奇跡の人」と名付けた。

時間とともに、その訪問は、宰相ビスマルクのドイツ帝国を生みだしたという誤り、あるいは、ヒットラーの、大衆の支持を得るための巧妙な公共事業計画の利用といった広範な歴史的議論に拡大発展した。

威厳のある賢者の雰囲気をもつ一人の男、ゴールドマン博士は、また、世俗的側面もあり、金融ベンチャーについてジークムントと議論することも好んだ。

やがて、ゴールドマン博士は、ジークムントの身体的痛みと同様、悲しみの面倒もみるようになった。

感情的な問題を直接話し合うことは、ジークムントにとっては非常に困難であった、それは、彼の怒りが数知れぬ間接的で不適切なやり方で噴き出すことを意味した 。

彼の内には大きな痛みを生じる脆弱性の恐るべきスポットがあった。


彼の妻、家族、あるいは同僚に失望したとき、彼は彼の問題をゴールドマン博士に打ち明け始めたが、それはフロイトの「会話療法」のごとく疑われる響きをもったやり方であった。

「ジークムントは、ひどく不幸で孤独な人間だった。」とゴールドマン博士は述べている。「彼は、他人に対する疑念と軽蔑にしばしば悩まされた。彼は同僚に対してひどく批判的で、誰ともうまくやっていけなかった。彼は事務所における陰謀への恐怖をもっていて、彼の心配を打ち明けるために私のところに来た。彼は完全に自己中心的で根本的に唯我独尊だった。他のほとんどの人々は愚か者であると彼は考えていた。」 [抜粋終わり]


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フリーメーソンは定規とコンパスのシンボル、美徳の定規と、社会のすべてに対して結びついた当然支払われるべきものの範囲内に我々の情熱を保つために、象徴的に我々の欲望を制限するのに使われるコンパス、で自分たちを識別する。



元記事は
Excerpt from "The Warburgs" on Siegmund Warburg By Ron Chernow
http://www.geocities.com/cliff_shack/siegmund.html

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by oninomae | 2008-01-12 07:26 | イルミナティ  

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