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イスラエル:暗黒の源流  ジャボチンスキーとユダヤ・ファシズム 7a

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/archive/Vladimir_Jabotinsky3.html#7bu より

第7部 ナチス・ドイツを育てた米国人たち   (2007年6月)
     

 前回までに私は、イスラエル国家建設に対して、スターリンのソヴィエト連邦、米国やカナダなどにいるシオニスト勢力と英国国家、そしてヒトラーのナチス・ドイツを取り上げた。特にナチス・ドイツの役割は決定的と言って過言ではない。前回申し上げたように、イスラエル国家はナチス・ドイツを「砂型」として鋳造されたのである。そこで問題となるのはこのナチス・ドイツそのものであろう。したがって今回と次回の2回にわたって、ドイツと他の欧州各国および米国に目を移してみたい。そこからイスラエル建国の真相に迫って見たいと思う。

 第1次世界大戦でボロボロにされたドイツの中にどうしてあのような怪物が誕生し成長したのか。教科書的な理解でなら、ドイツ国民に鬱積するヴェルサイユ条約のドイツに対する扱いへの不満がヒトラーの過激な人種主義と軍国主義の主張に吸収されたから、ということになるだろう。私はどうもこのような観念的な議論が苦手だ。このような歴史観は、どうやら歴史というものを人間の意志と哲学だけが作り上げたかのように、人々に印象付けたがっているような気がしてならない。そこにポッカリと空白が、いや底なしのブラックホールが開いているのである。

 どれほどヒトラーがゲルマン種族の優越の観念に凝り固まっていようが、どれほど彼の意思が強かろうが、どれほどドイツ国民の不満が大きかろうが、現実にカネとモノが動かなければ国家など1分たりとも運営できない。

 今回は、少々長くなるのだが、英文で書かれたある文章の翻訳をご覧いただきたい。これはサミュエル、プレスコット、ジョージ・W.H.そしてジョージ・W.と続くブッシュ・ファミリーがいかにナチス・ドイツを作り育て、それを通して米国内での地位を作り上げていったのかを中心にまとめあげた『年表』である。

 原文:Timeline of Treason: The Bush Family Connections to the Nazis
 原文Url:http://www.spiritone.com/~gdy52150/timeline.html

 この『年表』に書かれてあるブッシュ家とナチスとの関係は、2003年になって暴露された米国国立公文書館と議会図書館の資料によっても明らかに確認できる事実である。さらにこの『年表』には、ロックフェラー、ハリマン家、ダレス兄弟など米国支配層のドイツ利権を巡る大活躍が実にわかりやすくまとめられており、20世紀の米国と欧州の関係を知るためには非常に便利な資料となるであろう。

 ただいくつか注意しておかなければならない点がある。この年表ではユダヤ資本およびシオニストとナチス・ドイツとの関係が完全に抜け落ちているのだ。1933年8月に作られたハアヴァラ協定 に伴ってナチス・ドイツが行ったイスラエル建国支援の財源がどこから来たものなのか明白なのだが、この「年表」ではそれが全く問題にされていない。また、ブラウン・ブラザーズやシュレーダー(Schröder、Schroeder:英米ではシュローダーSchroder)といったロンドン・シティの重要メンバーがドイツ利権あさりとナチス・ドイツへの投資に中心的な役割を果しているのに、それとイスラエル建国のスポンサーであったロスチャイルド家の関わりが全然なかったとはまことに考えにくいのだが、この点も無視されている。

 もちろんこういった『年表』をまとめあげる際に「反ユダヤ主義」「陰謀論」といったレッテルを貼られることを避けた事情は理解できないでもないが、少々偏った編集と言わざるを得ない。

 しかし逆に言うと、2001年以来、イスラエルに忠誠を誓うネオコン、つまりジャボチンスキーの後輩達に担がれて「対テロ戦争」の立役者になっているG.W.ブッシュを考えるなら、逆にこの点だけが真っ白に開いているほうが「あぶり出し」が明白であり解りやすいかもしれない。 この『年表』は、作成者の狙いはさておいても、「何年に何があったのか」という事実関係を冷徹に調べていくための参考資料として極めて有益であろうと思われる。そのうえでこの『年表』にある空白(と言うよりはブラックホール)を探り当てていく作業が重要になるだろう。

 人物名は( )の中に原文にあった綴りを添えた。人名の強調は私からである。企業名は原則として英語の原文のまま記載した。また【 】内は私からの注釈である。

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裏切りの年表:ブッシュ家とナチスのコネクション

1833: イェール大学にスカル・アンド・ボーンズ結社が作られる

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1897: Union Pacific Railroad(UPR)倒産

1898: Union Pacific Railroadエドワード・ヘンリー・ハリマン(Edward Henry Harriman)とその同僚の判事ロバート・スコット・ロヴェット(Robert Scott Lovett)に売られる。この取引はクーン・ローブ(Kuhn Loeb)の仲介業に取り仕切られたが、フェリックス・ワーバーグ (Felix Warburg)がそのパートナーだった。

1902: ポール(Paul)とフェリックス・ワーバーグ が合衆国に移住。

1904: ドイツ人アルフレッド・プレーツ(Alfred Ploetz)が、人種および社会生物学資料に出資。これはドイツ優生学つまり人種優越主義運動の主要な雑誌となる。エルンスト・ヘッケル (Ernst Haeckel)がドイツでの優生学を一般化する。

 ジョン・D・ロックフェラー (John D. Rockefeller)が"Occasional Letter No.1"を書き著し、「人間の本性を完成させるために」、人々を型にはめて国民の知性を最低の共通分母にまで低め、親の影響と伝統と習慣を破壊して、科学と実学を限定する計画の詳細を述べる。

 ロング・アイランドのコールド・スプリングズ・ハーバーに優生学研究所がチャールズ・B.ダヴェンポート(Charles B. Davenport)によって作られる。コールド・スプリングズ・ハーバーは同時にダレス兄弟所有の土地でもあった。ハリマン家とロックフェラー家 によってコールド・スプリングズ施設に1千百万ドルを超える資金が投入される。

1907: サミュエル・ブッシュ(Samuel Bush)がオハイオ州コロンバスにあるBuckeye Steel Castings会社の社長に選出される。その経歴を通して、サミュエル・ブッシュはウォール・ストリートの鉄道株に餌を撒き続けた。ブッシュはフーバー大統領の親密な補佐官となり、全国工業会(NAM)の初代会長となった。NAMはファシズムを支えた歴史を持ち、1950年代後期に、NAMのメンバーたちはロバート・ウエルチ (Robert Welch)に率いられてジョン・バーチ協会を形成した。

 インディアナ州が最初の優生学法を通過させる。

1909: ロックフェラー基金が創設された。ロックフェラー家 は優生学の運動を推進させたが、その中にはドイツのカイザー・ウイリアム研究所も含まれる。

1911: ジョン・フォスター・ダレス (John Foster Dulles)が法律事務所Sullivan and Cromwellに加わる。

1913: 連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)の創設。ポール・ワーバーグが第1次世界大戦の間、総裁を務める。同時に、彼の兄弟マックス (Max)はドイツのシークレット・サービスの責任者であった。

1914: 戦争が間近に迫り、パーシー(Percy)・ロックフェラーは兵器会社Remington Armsを支配下に置き、CEOとしてサミュエル・F.プライアー (Samuel F. Pryor)を指名した。

1915: ダレス兄弟の伯父、ロバート・ランシング(Robert Lansing)が国務長官に指名された。ランシングは彼の甥を企業の仕事という名目でニカラグア、コスタリカ、パナマに派遣したが、実際には米国の戦争政策補助のためにラテン・アメリカを探る目的であった。コスタリカは激しい独裁者フェデリコ・ティノコ(Federico Tinoco)が支配していた。ダレスはワシントンにこの独裁者を支援するように忠告した。彼が反ドイツだったからである。ダレスはまたニカラグアの独裁者エミリアーノ・チャモロ(Emiliano Chamorro:大統領1917-20, 1926)をそそのかしてドイツとの外交関係停止を宣言させた。パナマでダレス は、パナマがドイツに宣戦布告を行う限りにおいて年間の運河通行料金に対する課税を放棄することができると提案した。

1917: プレスコット・ブッシュ(Prescott Bush)がスカル・アンド・ボーンズに加わる。彼の息子と孫であるジョージとジョージ・Wも同様にこのメンバーである。1930年代のBrown Brothers & Harriman【参照
1931年】には極めて数多くの会員がいた。

1918: ロバート・スコット・ロヴェットがユニオン・パシフィック鉄道の会長に。サミュエル・ブッシュは米国戦争産業委員会の施設部門に指名されるが、この委員会の議長はバーナード・バルック(Bernard Baruch)でありクラーレンス・ディロン (Clarence Dillon)がそれを補佐した。

1919: ジョージ・ハーバート・ウォーカー(George Herbert Walker)はW.A.ハリマン株式会社(W.A. Harriman & Co)を設立。ウォーカーがその会長でありCEOである。エドワード・ハリマンの息子アヴェレル(Averell)・ハリマンが議長。アヴェレルは後に駐ソ連米国大使(1943-1946)、そして米国商務長官(1946-1948)を務めることになる。 ダレス兄弟 は戦後の条約交渉に加わる。

1920: アヴェレル・ハリマンとジョージ・ウォーカーはGerman Hamburg-Amerika Lineの支配権を手に入れる。その交渉はGerman Hamburg-Amerikaの最高幹部であるウイリアム・クーノ(William Cuno)、およびその郵船会社の銀行 M.M. Warburgのマックス・ワーバーグによって設定された。社名はAmerican Ship & Commerce Corpと変更された。Remington Armsのサミュエル・F.プライアーがこの取引に加わっており、新たな会社の役員となった。クーノ は後にナチ党の創設で重要な貢献者となった。

1922: アヴェレル・ハリマンはW.A. Harrimanのベルリン支社を開いた。1942年の日付のあるAlien Property Custodianのオフィスでの幹部会に対する米国政府覚書は、1924年に先立つある時期にハリマンが欧州におりティッセン(Thyssen)と会合したことを示唆する。彼らはニューヨークにティッセンのための銀行を設立することに合意した。加えてこの覚書は、ティッセンの代理人、H. J. コウエンホウヴェン (Kouwenhoven)について述べている。彼はこの件に関連して1924年以前にユーヨークを訪れた。

 優生学的断種モデル法(The Model Eugenic Sterilization Law)がハリー・ラーフリン (Harry Laughlin)によって作られた。この法は2万人以上の米国の断種につながり、ナチスに採用されたニュルンベルグ法の基本となった。

1923: フリッツ・ティッセン (Fritz Thyssen)がナチ党に支援を始める。

1924: W.A. Harriman & Coは、オランダにあるティッセン所有の銀行Bank voor Handel en Scheepvart【船舶貿易銀行?】と共同経営するユニオン・バンキング会社(Union Banking Corp)の設立に40万ドルを投資。プレスコット・ブッシュはUnion Bankを運営するためにこの会社に入る。プレスコットはジョージ・ウォーカーの義理の息子でありサミュエル・ブッシュの息子である。Union Bankは今やティッセン のUnited Steelの資金を動かす立場に立った。

 ドーズ計画と共に、これはこの項目詳しく述べることにするが、ジョン・フォスター・ダレスはクルップ(Krupp)のために巨額のローンを組んだ。このローンのためにダレスは、ある土曜日にこのニュースの報道を弱めるために、国務次官であるレランド・ハリソン(Leland Harrison)を呼んだ。ハリソンは激怒した。米国の資金が外国に向かう前に海外向けのローンを国務省が審査すると回覧していたからであった。しかしダレスは、ハリソンがローンを止める権限を持っていないことを知っていた。ダレスは、ドイツの会社が軍用の機器を製造しているかどうかと調べる国務省の詮索を避けたかったのである。ダレスのSullivan and Cromwellが、あらゆる軍事用の機器を破壊したとのクルップ の言明を保証することを受け入れたのである。

 Standard Oil とGeneral Motorsの共同によってEthyl Corporationが作られた。

1925: この年までにI.G.Farbenが共和党政権の中に強力な同盟を作り出した。当時商務長官だったハーバート・フーバー(Herbert Hoover)は彼の化学工業諮問委員会に9名のメンバーを指名した。委員会の椅子に座った者には、ウォルター・ティーグル(Walter Teagle:Standard Oil of New Jersey)、ラモー・デュ・ポン(Lammot du Pont)、フランク・ブレアー(Frank Blair:Sterlingの会長)そしてヘンリー・ハワード (Henry Howard:Grasselli副会長)がいた。この4名が持っていたI.G.との強いつながりにも関わらず、その委員会の役割は米国の化学工業がI.G.に打ち勝たつのを支援することだった。

1926: プレスコット・ブッシュはW. A. Harriman & Coの副会長に抜擢される。投資銀行Dillon Readのクラーレンス・ディロンは、ティッセンおよびその仲間フレドリック・フリック(Fredrick Flick)と共にGerman Steel Trustを設立した。その趣旨によるとDillon Readは、2名のDillon Readの代表をGerman Steel Trustの役員に据えることと引き換えにトラストの関連銀行に投資することになっていた。アルバート・ヴェーグラー(Albert Voegler)がドイツ鉄鋼トラストの代表役員であった。このヴェーグラーはヒトラーを権力の座に着かせた企業家の一人であった。彼はまた、ティッセン所有のオランダの銀行とthe Hamburg-Amerika Lineの指揮にもあたっていた。Union Bankはフリックの企業Silesian Holding Coとは協力関係にはなかった。ウォーカー・ブッシュとハリマンはフリック の持ち株会社の3分の1を所有し、彼らの持分をConsolidated Silesian Steel Corpと呼んだ。

 米国I.G.が、米国でのI.G. Farbenの資産を支配する持ち株会社として作られた。重役メンバーにはエドセル・フォード(Edsel Ford)、チャールズ・ミッチェル(Charles Mitchell:ロックフェラーのニューヨークNational City Bank会長)、ウォルト・ティーグル(Standard Oil会長)、ポール・ワーバーグ(Federal Reserve会長であり、ナチ戦争準備への出資者で米国I.G.社長であるマックス・ワーバーグの兄弟)、ハーマン・メッツ(Herman Metz:マンハッタン銀行頭取でワーバーグ兄弟 に支配されている)などがいた。米国I.G.運営委員会の他の3名は裁判にかけられドイツ戦争の犯罪人として有罪となった。

 アレン・ダレス(Allen Dulles)がSullivan and Cromwellに入社。

1927: ジョン・フォスター・ダレス がGAF Company(米国I.G.)社長に(~1934)

1929: Standard OilとI.G. Farben がカルテルの交渉を開始

 ハリマンの銀行はStandard Oilと他の会社を結び付ける石油パイプライン供給元のDresser Industriesを買収。プレスコット・ブッシュがその社長であり資金供給の帝王となり、彼のイェールの同級生であるニール・マロン (Neil Mallon)を議長にする。

1930: ダレスはチェコの富豪ペチェック(Petschek)家に対して、そのSilesian Coalの利権をジョージ・マーネイン(George Mernane)に売却するように取り計らう。マーネインは単にペチェック家の利権を【この部分意味不明】ためだけに利用された。ダレスはそれからその株を、ナチの経済相である友人のシャハト(Schacht)に売った。売却後、ダレスはConsolidated Silesian Steel Companyの社長となった。その唯一の資産はUpper Silesian Coal and Steel Companyの利益の3分の1であった。その株の残りはフレデリック・フリック が支配した。

1931: W.A Harrimanは英国の銀行Brown Brothersと合併。サッチャー・ブラウン(Thatcher Brown)、プレスコット・ブッシュ、そして二人のハリマン兄弟は新しい会社Brown Brothers and Harrimanの重役となった。ロバート・スコット・ロヴェットの息子であるロバート・ロヴェット(Robert Lovett)とその親友であるプレスコット・ブッシュが新会社でパートナーとなった。ロヴェットは後に戦時空軍補佐官、1947-1949に国務省付補佐官、1950-1951に国防次官、そして1951-1953には国防長官となった。

プレスコット・ブッシュはニューヨーク・オフィスを経営し、一方でこの新会社のロンドン・オフィスはサッチャー・ブラウンによって運営された。プレスコット・ブッシュの親友でありイングランド銀行総裁であるモンタギュー・コレット・ノーマン(Montagu Collet Norman)はニューヨークを訪問する際にブッシュ家 の世話になっていたのだが、彼はBrown Brothersの共同経営者の一人でもあった。彼は同時に有名なナチのシンパであった。彼の祖父は南北戦争の際にBrown Brothersのボスだったのだが、Brown Brothersが南部の綿花の75%を英国に輸送した直接の責任者だった。

 プレスコット・ブッシュとジョージ・ウォーカー は、第3回優生学国際大会の主催者を務めた。このイベントの目的は1千4百万人の米国人の断種を呼びかけることだった。

 国際決済銀行が設立された。



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第三回国際優生学会議(1932) by ジョン・コールマン
http://satehate.exblog.jp/8785181/

by oninomae | 2014-03-11 20:01 | 魔術=詐欺とイルミナティ  

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