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「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」 鬼塚英昭

「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」

『ドクター・ジュノーの戦い』の邦訳書の初版は一九八一年である。私がこれから紹介する、大佐古一郎の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』は一九七九年に出版されている。

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前著の出版より二年前である。大佐古は、一九一二年に広島県に生まれる。中国新聞社論説委員を最後に広島で暮らしていた。

大佐古は中公新書から『広島昭和二十年』という本を出した。

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その中で「ジュノーの死」を書いた。広島を襲った台風で、ジュノーが宿泊した旅館で死者が出た。そのときにジュノーが死んだと大佐古は信じていた。その大佐古は「松永産婦人科・松永研究所医学博士松永勝」と会う。そこで大佐古は広島を襲った台風で死んだのは別人だったことを知る。松永勝こそ、ジュノー博士が「私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た」と書いた、その人であった。

松永は大佐古にジュノー博士とすごした四日間の出来事を語る。大佐古はそこからジュノー研究に没頭していくのである。

『ドクター・ジュノー武器なき勇者』から引用する。松永医師が大佐古に、次のように語ったのである。

あのとき、私たちは備蓄した薬を使い果たし、一滴のアルコール、食用油を探し回るほど絶望的な状況の中にあった。そこヘジュノーさんは、まるで神の使いのように十五トンの医薬品を持って現われました。そうして、外科医として患者を診たり、私たちに放射能障害の治療方法をアドバイスしたり、廃墟にDDTを撒くよう尽力して下さった。お陰で、どれだけの人が三途の川から引き返したでしょう。幾万人の重症者や軽い病人が救われたでしょうか。ところが広島の為政者はもちろん、被爆者にもこの事実はまったくと言っていいほど知られていないんです。せめて広島のジャーナリストにわかってもらいたかった。でもきょうあなたにお話しでき、広島にきた甲斐があったというものです。

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大佐古は松永勝医師から、「回顧談」というノートを見せてもらう。その中の一部を引用する。加藤氏とあるのは通訳である。

  私はハッとして助手席から後ろを振り向くと、[ジュノー]博士の視線は前方の瓦礫以外に何もない死の町を見詰めていた。私は被爆以来、どこかに忘れてきたものを眼の前に突きつけられたような気がした。
  この人は、「残酷なカタストロフィ」と言った。カタストロフィとは、文字通り"破局"である。博士は目の前に広がる惨状に"人類の終焉"を見ているのだ。
  確かに私たちはいま、途方もなく巨大な暴力に理性まで破壊し尽くされて、虚脱と昏迷の世界に捨てられている。博士はその私たちの魂の底にまだかすかに生き続けている人間性を呼び起こし、神をも恐れぬこの悪魔の所業に鋭い怒りを燃やせと説いている
  加藤氏も同じように感じていたのだろうか、博士への信頼を、形に表わさずにはいられないとでもいうように、氏の周辺の悲惨な被爆体験を次々と話した。



ジュノー博士は病院、そして救護所を訪れて、患者の診察をし続ける。続けて読んでみようではないか。

  ジュノー博士は、このような患者の眼球や口腔をあらため、ピンセットを手にして傷口やケロイドを入念に診たうえ、被爆した地点を本人に尋ねた。そして、屋内で被爆し、全身にガラスの破片が突きささっているため隅の壁にすがったままの婦人を発見すると、傍に近づいて行き、やさしく声をかけた。
  「もう少し頑張るんですよ。二、三日中にいい薬がきますからね」
  私が、この方は国際赤十字社からこられたと告げると、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝むような仕草をした。



私たちは知らねばならない。私たちが苦しいときに、私たちに救いの手をさしのべてくれる人こそが神であり仏であることを。だから、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝んだのである。私たちをかのとき裏切った、現人神は神でもなければ人でもない。


あの広島でジュノー博士に語った都築教授の言葉を平成の世でも忘れてはならない。

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「我々は心を開かねばならない!」

心を閉じていれば、何も見えず、悲劇だけが私たちに襲いかかってくる。その瞬間に私たちは、都築教授が、突然しわがれ声で恐ろしいい言葉をはき棄てるように言ったとおりとなるのだ。

「昨日はウサギだった・・・今日は日本人だ・・・」


「松永という未知の医師から、とつぜん電話がかかってきたのは、台風の季節がようやく終ろうとしている昭和五十年九月下旬の日曜日だった」と、この大佐古の本は始まっている。彼が広島カープの野球中継の放送に耳を傾けていたときである。彼は当時六十二歳か六十三歳である。この大佐古は松永という医師に出会い、人生が一変する。どうしてか。ジュノー博士に人間の荘厳さを発見したのである。人間はかくあるべきであるという姿を発見したからである。

『ドクター・ジュノーの戦い』の中で訳者が一九七八年九月十六日、日本の新聞は・・・」と書いている。大佐古の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』の出版は一九七九年十二月十日である。大佐古はこの新聞の記事を読んでいる。私は途中をほとんど全部省略したい。大佐古は、「ジュノー博士が原爆が投下後の広島・長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した」という不可解な謎を見事に解いたのである。その場面へと読者を案内する。広島力ープの放送を聴くのを愉しみとしていた男は情熱の男へと、大変貌を遂げていたのである。

大佐古はジュノー博士の住んでいたジュネーブを訪れる。そこで、ジュノー博士の一族と会う。この場面も省略する。以下の引用はその後の場面である。

  時計は正午をかなり回っていた。ジュノー氏宅を出た東浦氏と私は、ビベール氏に通訳まで願ったことに厚く礼を述べたあと、四時半に再びICRC[国際赤十字社本部]で会うことを約束して別れた。
  約束の時刻に東浦氏と私の二人はICRCに着いた。ビベール氏はオフィスで受話器を耳にしており、甲高い婦人の事務的な声が室内に響いていた。ビベール氏は、ICRC設立以来の記録が収蔵されている地下室と話し合っているようだった。
  受話器を置くとビベール氏は言った。
  「ようやく大佐古さんの主要な二つの質問にお答えできます。古文書課には彪大な記録があり日本人の名前や医薬品の名称にわれわれがなじめなかったりで意外に手間取りましたが・・・」
  氏は一枚のコピーを私に渡した。
  「これは一九四四年九月八日に発信し、十日に着いたものでICRCへ報告された軽井沢の駐日代表部からの現地採用雇用についての八日分給与の明細書です。お尋ねの冨野康治郎氏はこのリストに出ております。氏は遭難する一年前には、事務局長のような役職に就いていたようです、野原と言う日本人職員に次ぐ高い給与を受けています」


以下は大佐古が一九八九年に出した『平和の勇者ドクター・ジュノー』から引用する。前掲書と内容は変わらないが理解しやすいと思うからである。大佐古が宮島の台風で死んだと思っていたのは冨野康治郎であることを発見したのである。さて、次に大事なことが書かれている。

  私は、広島の空白の中に埋まっていた謎の遭難者の姿が、やっと印画紙のようなものの上にくっきり浮き出たことに満足した。
  ビベール氏は、次の新しいメモを見ながらゆっくりと言った。
  「それでは、ICRCの広島救援が実現しなかったことについて、ICRCの資料に基づいてお答えしましょう。ジュノー代表はですね、広島県や広島赤十字病院へICRCの救援物資を送ることを約束しました。救援物資というのは、病院を再建するプレハブのような鉄骨や窓ガラスとか医薬品、それに食糧品などのことです。彼は東京に帰ると、広島を救援することが急務だとするジュネーブヘの要請文を起草しましたが、その電報を打つことはできませんでした。GHQがその打電を許可しなかったからです。GHQは『打電の必要はない』と言ったんです。その理由はGHQと日本政府間のリエゾン・コミッティ(連絡委員会)で、日本側委員が『広島救援の必要はない、我々が独力でやる』と言ったからだというのです 
  ・・・このことは、後日ジュノー代表から文書で報告されています。結局、ICRCへの要請電報はこなかったんです。その詳しい資料はいまあなたへ差し上げる訳にはいきませんが、以上のことが言えるのは、私どもがここにある資料から読み取ることができるからです。このような内容のドラフト(草案)は、日本を占領していたGHQが許可しないかぎり、具体化する見込のない状況下にあったのではないでしょうか」



私はこのビベール氏の言葉を重く受けとめた。「なんたることだ!これは」と思いつつ読んだ。また、あらぬ怒りが心の中でふつふつと燃えだしていた。大佐古も私以上の憤怒の心を持ってビベール氏の話す内容を聞いていたのである。以下の彼の文章にそのことが表れている。

  「その連絡委員会の構成や日本側委員の氏名は分かりませんか?」と私が質すと、ビベール氏は静かに答えた。
  「連絡委員会の内容は、ここでは分かりません」
  私にはその委員の推測はついた。戦争中は軍閥、財閥に迎合して戦争に協力し、敗戦後は事大主義、事なかれ主義の環境の中で、親方を日の丸から星条旗に取り変えて、被爆者の苦しみをよそにぬくぬくと生き伸びた連中だ。ジュノー博士叙勲に当たって、ことさらジュノー博士と広島の関係に目を向けまいとした政治家か外務省の役人たちに違いない。
  やはり、予想していたとおり、GHQは原爆投下後一カ月経ってもなお毎日のように死者が出ている広島の地獄図絵を、ICRCを通じて世界中、とくにソ連に知られることを恐れて、打電を妨害したのだ。彼らはプレスコード(新聞準則)で日本国内の言論、報道を弾圧したばかりでなく、人道と博愛の赤十字活動まで抑圧していたのだ。



この大佐古の文章には納得しかねる箇所がある。彼は一九八一年に出た初版本を読んでいない。マッカーサーとジュノー博士の交流の深さを知らないGHQはたしかに打電を妨害した。しかし、これは間違いなく、アメリカ政府の命令に応じただけである。アメリカ政府の代表は誰だか説明しないが、ファレル准将の可能性が高い。彼が日本側の誰かに、ジュノー博士の打電を取り消すように言ったのである。GHQはアメリカ政府を代表するファレル准将か、その一味のものに対し、NO!と言えなかったのである。

次に、大佐古自らが驚くようなことが書かれている。

  ジュノー博士がジュネーブヘ打電しようとした広島救援要請のドラフトが、GHQの手で揉み消されたことを明らかにしたビベール氏は、さらに言葉を続けた。
  「広島救援の必要がないと言ったのはリエゾン・コミッティ(連絡委員会)だけでなく、日赤でも『そのようなものをもらっても仕様がない』と言っています・・・それは誰が言ったのかは分かりませんが」
  「えっ、なんですと・・・
  私は耳を疑った。
  GHQの言うことに迎合して事なかれ主義に終始した政府の役人はさておいて、人間を苦痛や死から守り、敵対意識のもっとも激しい戦場でも、敵も味方もなく傷病兵を同じ人間として取り扱う最高の善心の持ち主である日赤が、よもやそのようなことを言ったとは考えられない。
  「そんな馬鹿なことはないと思います。それはGHQのデッチあげでしょう。あなたはそれを事実として受け取られますか?」
  ただ、ジュノー博士のレポートに、そのようなものがあるということをお伝えしただけです
  とビベール氏は冷静に言った。
 



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鬼塚英昭 原爆の秘密 国内編 第五章 見棄てられた被爆者たち p228-236より

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蛇足: こういった類いの話を心底理解できれば、神仏の本質についても理解できるものと思う。







おまけ

日本原燃:MOX燃料工場の建設再開へ
http://mainichi.jp/select/science/news/20120331k0000m040052000c.html

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日本原燃の川井吉彦社長=吉田勝撮影

日本原燃の川井吉彦社長は30日の記者会見で、東日本大震災で中断している青森県六ケ所村のウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料工場の建設工事を、来週にも再開すると表明した。16年3月の完成予定は延期される見込み。一方、使用済み核燃料再処理工場の稼働試験再開は早くても5月下旬にずれ込むとの見通しを述べた。福島第1原発の事故後、核燃料サイクル政策見直しの議論が続く中での工事再開となるが、川井社長は「再処理とMOX製造は一体。(国の方針が出ていないので)自主的に工事再開を判断した」と説明した。【吉田勝】

毎日新聞 2012年3月30日 19時42分(最終更新 3月30日 20時39分)

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悪魔か?アホか?両方か?ゴイムの一人か?いや実はウサギだったのか?
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by oninomae | 2012-03-31 06:28 | ホロコースト  

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