イルミナティ銀行家は、イギリス革命を組織した by A.M. Ramsay 前半

既にお馴染みだとは思いますが

イルミナティ銀行家は、イギリス革命を組織した 2012-03-19 01:58:46NEW !
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11196884011.html (一部改訳)

Iluminati Bankers Organized the English Revolution by A.M. Ramsay (from his book, "The Nameless War" 1952)
http://www.henrymakow.com/illuminatibankersorganizedtheenglish.html

c0139575_144965.jpg

シオニストの雑用係オリバー・クロムウェル

c0139575_1493885.jpg


「イングランドが一連のまだ終わっていない革命運動の一番手になる運命だった。」

これらの謎めいた言葉とともに、アイザック・ディズレーリ(ベンジャミン・ディズレーリ · 初世ビーコンズフィールド伯の父)が二巻からなるチャールズⅠ世の伝記に取り掛かり、1851年に刊行された。


イルミナティ・ユダヤの銀行家がイングランドにその足場を確立し、世界支配のための手段としたとき、現代世界と新世界秩序(New World Order)の起源はイギリス革命(1641-1660)とそれに続く「名誉革命」(1688)にまでさかのぼる。

c0139575_1417523.jpg

"無名の戦争(The Nameless War)"

c0139575_14181259.jpg

A.M.ラムゼー[A.M. Ramsay]大尉(1894‐1955)


アイザック・ディズレーリ[Isaac Disraeli, 1766-1848]の「Life of Charles I(チャールズⅠ世伝)」(1851)は、当時のフランスのイギリス使節メルシオール・ド・サロン(Melchior de Salom)の記録から得られる情報を基に驚くべき詳細に至るまで看破した仕事であった。

英国国教会とその古代の伝統に基づくブリティッシュ・キングダムを遠く垣間見ることから場面は始まる。 君主制(Monarchy)、教会、州、貴族、人々を義務的制裁で、厳粛に一つに結束させている一方で、 他方では、カルヴァン主義の不吉な兆候が鳴り響いていた。

カルヴァン[John Calvin, 1509-64]、フランスでは彼の名前はCauin(おそらくコーエンCohenとつづるフランス語からの派生)であったが、そのフランスからジュネーブに来て、多数の革命扇動家(演説家)たちを組織し、その少なからぬものたちが、イングランドとスコットランドに損害を加えた。 かくして、宗教の情熱に覆われたまま革命の基盤を築いたのだ。

国境を流れるツイード川の両岸で、これらの扇動家は、「安息日(Sabbath)」を厳粛に遵守するよう、すべての宗教と契約した。 アイザック・ディズレーリの言葉によれば、「国家は、安息日を守る人(Sabbatarians)と安息日を守らぬ人(Sabbath breakers)に巧みに分けられた。」

「カルヴァンは」、ディズレーリは述べる、「安息日をユダヤ人の条例(神聖な人々に限られている)であると考えた。」

彼は言いさえする。これらのカルヴァン主義者が彼らの権限で国家を占拠したとき、「宗教が主に安息日厳守のみで成っているようだった。 まったく、英国議会は、ヘブライ教のラビの会社に変わった」。 その後、「1650年、国王処刑後、法は安息日の違反に対して処罰を負わせることで可決された」。

c0139575_14513170.jpg

Jean Calvin [1509~1564] フランスの宗教改革者・神学者。


CUE THE PROLETARIAT:プロレタリアートの入れ知恵

この時に突然、シティの武装した「工作員(Operatives)」(間違いなく中世における『労働者workers』と同意義)の暴徒が現れ始めた。 ディズレーリから引用すると、

「彼らは、1万人に達すると言われていた ... 戦闘武器を所持していた。それは年間通して反乱を起こす民兵で、最低賃金でどんな破壊依頼も請け負っていたかもしれない ... 短剣と棍棒を所持した民兵が(シティから)出て行ったということは、連続して起こる暴動状態に長く置かれたにちがいないことは明らかだ。」

これらの武装した「労働者」の暴徒は国会議事堂と宮殿の危機的状況の両方ですべてを脅迫した。 正確には、後に、フランス革命における「神聖隊(Sacred Bands)」と「マルセイユ義勇軍(Marseillais)」の雇用のひな形となった。 

アイザック・ディズレーリは、これとフランス革命間の驚異的の類似性を、何度も何度も描いている; とりわけ新聞についての彼の一節で、「もはや拘束がなく」、そして革命の小冊子とちらしの氾濫。

「1640年から1660年までに」と、彼は書く。 「およそ30,000が始動してきたように思われる。」

そして後に、「フランス革命の小冊子の収集品は、現在、数も豊富で、情熱も凄まじいものとして、チャールズⅠ世時代のフランスの小冊子のそばに展示されている。」

彼は続けて、「カーテンのうしろから誰が操ったのか、 ... 彼らに『ストラフォーディアンス(Straffordians)または国家の裏切り者』という嫌悪すべき烙印を押して、59人の一般人の正にその記録名簿を掲示した。

c0139575_16443681.jpg

1st Earl of Strafford(1593 – 1641)  初代ストラフォード伯爵、チャールズⅠ世の側近


本当は、誰の手だったのか? しかし、それほど知っていたディズレーリは、現在、その鉄のカーテンで覆いすそを控えめに引っ張っている。 そして、意外な事実の解明は、私たちに任せられる。

そうするために、ジューイッシュ・エンサイクロペディア(Jewish Encyclopedia:ユダヤ百科事典)、

c0139575_16464885.jpg

ゾンバルト[Werner Sombart, 1863-1941]著によるThe Jews and Modern Capitalism(邦訳『ユダヤ人と経済生活』荒地出版社、1994)、

c0139575_16482564.jpg

c0139575_16502390.jpg

のような別の仕事に目を向けなければならない。


これらから、革命の主要な人物、クロムウェルを知ることになる。 彼はオランダの強力なユダヤ人の融資者と密接な関係にあった。 そして、マナセ・ベン・イスラエル(Manasseh Ben Israel, 1604–1657)から大金を実際、融資された。

c0139575_18543164.jpg

一方で、「偉大なユダヤ人」と呼ばれたフェルナンデス・カルバハル[Fernandez Carvajal, 1590-16 訳注:ポルトガル商人]は、新しい軍隊形式の請負業者の長だった。


c0139575_1493885.jpg


イングランドのユダヤ人(The Jews in England)に書かれているが、 「1643年、イングランドにユダヤ人の大派遣団を連れてきて、彼らの再結集地は、ポルトガル大使デ・スーザ[De Souza](マラーノ:隠れユダヤ人)の家だった。フェルナンデス・カルバハルは偉大な融資者と陸軍御用商人として、彼らの間で傑出していた。」

その前年の1月、その5人のメンバーの逮捕の企ては、すでに述べたシティからの武装ギャング「工作員(Operatives)」たちの激しい暴動を引き起こした。

革命の小冊子はこのときにばらまかれた。 同様にディズレーリが私たちに言ったこと、「『おのおの天幕に帰れ、偉大なイスラエルよ』と不吉な暴動の叫び声をあげた。」 これの直後に、国王とその家族は、ホワイトホール宮殿から脱出した。

5人のメンバーと共に旗を携え武装した暴徒は、ウエストミンスターへの凱旋復帰をした。 舞台は、その時彼らの生みの親クロムウェルを持ち上げ、カルバハルと仲間のユダヤ人の出現の用意が整っていた。

(つづく) 【翻訳:タドン】

c0139575_1721890.jpg

Isaac Disraeli (1766–1848) ユダヤ人の文人・歴史家

c0139575_17285271.jpg

息子の初世ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli:1804-1881)は政治家。 イギリス首相になったユダヤ人。


イルミナティ銀行家は、イギリス革命を組織した(2) 2012-03-20 06:49:41
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11197944915.html

c0139575_18402916.jpg


WHO FUNDED CROMWELL? : 誰が、クロムウェルに資金を助成したか?

場面は、変わる。 イングランド大内戦(清教徒革命:The Civil War)は成り行きの経過をたどった。時は、1647年。 ネイズビーの戦いで(議会軍は)大勝利し、(国王軍は)敗れた。 国王(チャールズⅠ世)は事実上の囚人であったがホームビーハウス(Holmby House)で賓客のように待遇された。


1921年9月3日に出版された『Plain English(』誌[脚注***]、中で公開された手紙によると、

c0139575_17392722.jpg


「博学な長老たちは、おそらくだれもが疑ったより非常に長い期間、存在していた。 アムステルダムにいる私の友人L. D.ヴァン・ヴァルケルト(L. D. van Valckert)氏は、最近、私にミュールハイム・シナゴーグ[Mulheim Synagogue]から抜粋した記事二つを手紙で送ってきた。彼らのことが掲載されている分厚い本には、ナポレオン戦争時のいくつかの章が消失していたが、最近ヴァン・ヴァルケルト氏が手に入れた。

それはドイツ語で書かれており、ミュールハイム・シナゴーク当局でやり取りされた手紙の抜粋が載っている。

c0139575_19423620.jpg

c0139575_1940230.jpg

彼が私に送ったなかに最初に入っていたのは、その受領された手紙である。


1647年6月16日。

O.C. (すなわち、オリバー・クロムウェル)から。
エベネツァー・プラット(Ebenezer Pratt)より

「財政支援と引き換えに、ユダヤ人がイングランドに入国する許可を提唱するつもりだ;これは、しかし、チャールズが生きている間は不可能である。チャールズを裁判なしで処刑することはできないし、現時点では処刑のための十分な根拠が存在しない。それゆえ、チャールズの暗殺を勧める。しかし暗殺者を用意することに関わる気はない。彼の逃走を助けることには同意であるが。

以下のような返事が送られた。:

1647年7月12日。

エベネツァー・プラットよりO.C.へ。

財政的援助を行うつもりだ。チャールズが除去されユダヤ人入国が認められ次第。暗殺は危険すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるべきである。彼の再逮捕が、ひいては裁判と排除を可能にするだろう。その支持者達は寛大だろうが、裁判が始まるまでの条件を論ずることができなくなる。」 

脚注*** 『Plain English』誌は、ノースブリテッシュ出版社から発行され、故アルフレッド・ダグラス卿によって編集された週刊評論誌。

c0139575_17455234.jpg

Lord Alfred Douglas (1870-1945)


現在一般に公開されている情報をもとに、国王殺し側のその後の動きは、さらに冴えて目立ちはじめた。 1647年6月4日、コルネット・ジョイス[Cornet George Joyce, b.1618]に、秘密に従って行動するようクロムウェル自ら注意した。 ディズレーリによれば、フェアファクス総司令官にさえ知らされていないことは、500人の選抜された革命隊にホームビーハウスを襲わせて、国王を逮捕したことだ。

c0139575_1750401.jpg

コルネット・ジョイスによる国王逮捕。

ディズレーリによると、「その計画は、5月30日クロムウェル邸で開催された密会で取り決められたが、のちにクロムウェルは同意してないと偽っていた。」

この動きは、軍の突然の展開と同時におこった。 「平等(Levelers)」と「合理主義(Rationalists)」の台頭だ。

彼らの教義は、フランスの革命のそれだった。 

c0139575_18493984.jpg


実際、私たちが今日において共産主義として知っているものである。 国王殺しの大逆罪人らは、50人の議員が最終的に左翼におちつくまで、議会の「一掃(purged)」を4回おこなった。 後に残部(Rump)として知れわたった彼ら自身、まるで共産党員のようだった。


THE EXECUTION OF CHARLES I : チャールズⅠ世の処刑

c0139575_1947557.jpg

c0139575_19453817.jpg

c0139575_1946071.jpg

余談はさておき、文字どおり1647年6月12日、ミュールハイム・シナゴークからのずるい提案は、その仕組まれた脱出が、処刑の口実として利用されなければならないというものだった。その年の11月12日に、ちょうどそのようなイベントが実行された。

ホーリスとラドロウは、この一連の過程はクロムウェルの戦略とみなした。 アイザック・ディズレーリの描写では、「ホームビー(Holmby)を強制退去の日からワイト島へ脱出するまでの国王は、すっかりクロムウェルのカモだったと、現代の歴史家は決定をくだした。」

c0139575_17573576.jpg

Denzil Holles (1599 – 1680)

c0139575_17574021.jpg

Edmund Ludlow (1617-1692)  

言うべきことはもうない。 クロムウェルはシナゴークからの命令を実行した、そして、疑似裁判を残すのみであった。

有利な地位につくための画策は、しばらくの間続いた。 そして、明らかになったことは、「一掃」された状態でさえ、議員の一部は国王と協定を結ぶことに賛成だったことだ。 1648年12月5日、下院は一晩中議論して、ようやく問題に決議した、「国王の譲歩は和解するに申し分ない。」

万一そのような合意が得られたなら、当然、クロムウェルは国王を再度襲撃してユダヤ人から与えられるべき所望の大金を、受け取れなかっただろう。 12月6日の夜、プライド大佐は、彼の指示で、「プライドのパージ」として知られている下院議員の最後で最も有名な「一掃(purge)」を実行した。 1月4日、50人の共産党員の残部議会(Rump)は、「最高権威(the supreme authority)」を自らに授けた。

1月9日に、国王を裁判にかけると「高等法院」は宣告した。 その議員の3分の2は、軍出身の平等主義者(Levelers)だった。

アルジャーノン・シドニー[Algernon Sidney]は、クロムウェルに警告した: 「第1に、国王は法廷なしで裁判にかけられることができません。第2に、だれもこの法廷で裁判にかけられることができません。」 それを、ヒュー・ロス・ウィリアムソン[Hugh Ross Williamson, 1901-1978]は、著書チャールズとクロムウェル(Charles and Cromwell:1946)に書いた。 そこに、「イギリスの法律家でないものが罪文書を作成したと見受けられた。 結局は、融通の利く外国人、アイザック・ドリスラウス(Isaac Dorislaus)に任せたのだ」という趣旨のことを、最後の仕上げの一筆に加えた。

c0139575_1827592.jpg

c0139575_18281382.jpg

Algernon Sidney (1623-1683) イングランドの政治家、哲学者

c0139575_18311046.jpg

Charles and Cromwell, Hugh Ross Williamson (1901-1978)


言うまでもなく、アイザック・ドリスラウスは、「護国卿(Protector)」に報酬(blood money)を支払ったカルバハルとマナセ・ベン・イスラエルなどの他の融資者のような、まさに同様の外国人だった。

c0139575_18364668.jpg


訳注:Lord Protector:護国卿,護民官 《共和政時代 Cromwell 父子の称号》.

(つづく) 【翻訳:タドン】

◆アイザック・ドリスラウスの暗殺事件現場。

c0139575_18365618.jpg


関連

猶太(ユダヤ)国際秘密力 太田龍
http://satehate.exblog.jp/16934073/

クロムウェル以後、三百年にわたってイギリス王室と貴族階級がユダヤ化され、ユダヤの操り人形と化したことは、天下周知の歴史的事実である。

黒い貴族 デーヴィッド・アイク「最大の秘密」よりの抜粋
http://satehate.exblog.jp/8022382/

ブッシュ大統領はサバティアン・フランキストか? by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/8011960/

c0139575_18411583.jpg

c0139575_18442649.jpg

結局が、これじゃーねー。
[PR]

by oninomae | 2012-03-23 20:01 | イルミナティ  

<< イルミナティ銀行家は、イギリス... ウォール街のバクチと戦争の脅し... >>