日本の行った戦争とは結局何であったのか 2

http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist1_2_5.htm より その2

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チャーチルの度重なる参戦要請に対し、ルーズベルトは、議会の決定が無ければ動くに動けなかった。しかし、当時アメリカの参戦に対する世論は、あまり盛り上がってはいなかった。そこで、日本を追い詰め「日本から戦争をしかけさせる」ようにすれば、アメリカの世論はいやがおうでも盛り上がると考えたのである。運命のその日、日本は真珠湾を「騙まし討ち」する形となってしまい(注)、「卑怯なジャップの騙まし討ち」と言う一言で、たちまちアメリカの世論は沸騰した。これでアメリカは、ヨーロッパ戦線に遅れること2年3ヶ月にしてようやく第2次大戦に突入した。

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逆に日本は、昭和16年12月の開戦ぎりぎりまで外交ルートによる和平を模索していた。しかし、今日の資料によれば、日本側の苦悩は「最初から無駄であった」と言わざるを得ない。しかしそんなことは、当時の人達にはわかるはずも無かったのである。

(注)日本は最初から、「騙まし討ち」を狙ったのではない(引用注:狙ったのはメーソン仲間たち)。本国から最後通牒の電文が送られた前夜(現地時間12月6日夜)、ワシントンの日本大使館では、寺崎英成書記官(後の「昭和天皇独白録」記録者)の送別会が行われた。その後、電信員は全て職務に戻り、午後9時半から翌7日深夜にかけて、対米覚え書きの13部まで解読した。14部がまだ来ていなかったので、当直員を残して各自宿舎に帰った。7日朝7時から8時にかけて、数通電報が配達された為、直ちに電信員を呼集したが、宿舎に帰った直後の為すぐに集まらなかった。午前10時頃から「至急」とあるものから解読したが、大臣、局長からの慰労電、前の電文の訂正が先に解読され、肝心の午後1時までにアメリカ側に手渡すべき電文は、午前11時になってやっと解読された。当時タイプの打てる高等官職員は、奥村書記官だけで、度重なる修正と時間が差し迫ったあせりの為ミスタイプが続出し、午後1時の会見に間に合わない事になった。

驚いた事に、そこで来栖野村両大使は、午後1時の会見に遅れる旨をアメリカ側に連絡した。結局午後2時5分に国務省についたが15分待たされて、2時20分にようやく覚書を手渡した。このため、真珠湾に第一次攻撃隊が突入した午後1時25分から約1時間遅れてしまったと言われている。

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なぜ、このような危機迫る時に、(機密保持の為と言われるが)大使館に充分な要員がおらず、また大使館内に危機感がなかったのだろうか? それから、この一件は昨今、大使館員の怠慢とだけ言われている面があるが、東京裁判で述べられた証言によれば、本省からの打電の仕方も悪いと言わざるを得ない。それにしても、時間が無いのなら、なぜとにかく国務省に出向いて口頭で説明し、できた分だけでもアメリカ側に手渡さなかったのか? 最後通牒は、英文で書かねばならないと言う法律は無いはずである。むしろ、指定された期限に間に合わない方がよほど重大な問題である。この遅れによって、日本は永久に「卑怯な騙まし討ち」のレッテルを貼られ、アメリカに「正義の戦争」と言う大義名分を与えてしまった。

アメリカではこの日を「A Day of Infamy」と言う。「醜聞の日」、または「国辱の日」とでも訳すのが適当だろうか? 

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このミスを犯した大使館員たちは、戦後何らのとがめも受けずに栄達を遂げている。それにしても、来栖、野村両大使が到着した2時5分には、すでに真珠湾が攻撃された事はアメリカ側に伝わっていたはずであり、さらに15分待たせたのは、通告が一時間くらい遅れた事にしないと、騙まし討ちと呼ぶには充分でなかったためであろうか?  (上記は、東京裁判における結城一等書記官の証言に基づいている。別の説に、送別会のあと実は大使館員は全員帰ってしまい、翌朝出勤した海軍武官が玄関に突っ込まれた電文の束を見つけ、大使館員に連絡したと言う説がある。電文は、専門員でなければ解読できない。いずれにしても、海軍の機動部隊がハワイに迫る緊迫した状況下に大使館員によるパーティーが開かれていたことは事実であり、この不手際について責任が明確にされていない事も事実である。)

真珠湾の鮮やかな奇襲作戦は、いたくアメリカの(引用注:メーソンの秘密を知らされていなかった人々の)プライドを傷つけた。このためいつまでも、「リメンバーパールハーバー」と言われている。ちなみに、大東亜戦争(太平洋戦争)の攻撃開始は、陸軍のマレー上陸作戦の方が時間的に早く、しかも英国に対して最後通牒も何も渡していない。しかし英国が、それを後日「マレーの騙まし討ち」と呼んだ事はない。この事からも、当時最後通牒や宣戦布告が戦争開始にあたってさして重要な問題とされていなかった事が分る。

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結果的に日本が負けたため、日本の立場は否定され、連合国の立場で見た歴史観、あるいは連合国の正義だけが残って、今日まで深く長く日本人の意識を支配している。考えようによっては、とにかくまず勝ちさえすれば、「大義名分は後からいくらでも付けられる」ものかもしれない。例えば薩長が勝利した結果、新撰組が逆賊と呼ばれるようになったようなものである。正義の軍隊が勝つのではなく、勝った方が正義の軍隊となるのだ。

敗れた日本に対しては、贖罪の意識を植え付けるための試みが、東京裁判以降、今日まで脈々と続いてきた。一つの例をあげれば、原爆を落としたわけでもないのに、短期間に30万人などと言う虐殺が本当に可能であったかどうか、大いに議論のわかれる「南京大虐殺」は、「史実」として日本の教科書に書かれ、逆に、日本の居留民が、筆舌に尽くしがたい残虐な方法で多数虐殺された「通州事件」(昭和12年7月29日、北京の東方、通州で起こった事件)については、文部省の検定意見がついて「我が国の」教科書に載せられないという、摩訶不思議な状況は、今日の日本人の精神的敗北を象徴している。(注)

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(注) 通州事件は、事件後直ちに救援に向かった日本軍守備隊により、詳細な記録が残っており、「事件直後から」新聞報道がされている。(ここが南京事件との違いである)要約すれば、数千人と推測される中国保安隊に襲われ、北京東方、通州城内の日本軍守備隊(140名)は、必死の防戦空しく全滅し(給仕の少年まで銃を取って闘った跡がある)、その後に残された住民260人が、筆舌に尽くしがたい残酷な方法で虐殺されている。14才から40歳くらいまでの女性は、全員強姦された上、陰部を刺されて殺され、その他、目玉をえぐる、内臓を掻き出す、子供の指をそろえて切り落とす、針金で数珠つなぎにする、生きたまま皮をはぐ、手首足首を切り落としてばらばらにする、口に砂をつめて窒息させるなど、「日本人には考えつかない猟奇的な方法」で殺害されている。斧で顔をぐしゃぐしゃにされた人以外、一人一人の検死資料も残っており、記録を見ると胸が押しつぶされる気がする。


また誌面に限りがあるので書ききれないが、満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も暴虐の限りを尽くしている。後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。 筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。

日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている (原文には犠牲者の名前も書いてある)。

(注)朝鮮八路軍  中国の八路軍(共産軍)に対して、当時朝鮮の義勇軍をそう呼んだもの。手記の前後には、金日成に率いられた「李紅光支隊」とある。 朝鮮八路軍に捕らえられた日本人は防空壕の中に放り込まれ飢えと寒さと拷問で殆ど死んだ。朝鮮八路軍のやり方はヒステリックで「36年の恨みだ!」と殴る蹴るの乱暴の限りを尽くし、男が拘置されている間、女を陵辱した。このため自殺した主婦もいたと言う。

 
避難民の多くが日本を目指した中継地点に通化の街があり、筆者の親戚はここで八路軍(中国共産党)に捕らえられた(通化というのは、中国と朝鮮の国境付近で中国側の都市)。国境に近かった為、武装した朝鮮人義勇軍が日本人狩りをしていたという。

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通化事件

戦争が終わっても、引揚者が無事に日本へ帰ることは容易でなかった。日本人の一部が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したという理由で、昭和21年2月3日早朝、大規模な日本人狩りが行われた。戦前の中国が一つだと思っている日本人にはなかなか理解できないが、蒋介石の国民党と毛沢東の争いは根深いものがある

筆者の親戚が自らの体験を記した手記によると、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中、両手を上げさせられて八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられていた。日本人の男16歳から60歳が連行され、先頭から氷の上で射殺され川に投げ込まれたと言う。この列は途中で方向転換したが、親戚は旧通運会社の社宅に100人近くの人と押し込まれた。八路軍は、身動きできず酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。戦争が終わって半年経っても大陸ではまだこのような日本人に対する虐殺が平気で行われていたことを今の日本の若者は知らずにいる。 筆者の親戚は、自らこの事件で生き残った者の一人として、事件の真相が「日本人どうしの殺戮だった」などと歪められて伝えられていることを嘆いている


人民裁判

中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。

台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」。「俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと。「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。

その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺されたという。

このとき日本人の共産党員は何をしたか

通化にはもともと1万4千人の日本人居留民、10万人以上の他の地域からの避難民がいたが、武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られていくのを虚脱した目でながめ唖然とするだけだった。

ソ連兵は日本軍が提出した武器を、その場で八路軍(共産軍)に渡し武装させた。国家から見放され、後に残された日本人に対して支配者八路軍(共産軍)と朝鮮義勇軍によって掠奪、暴行、拉致、殺戮の地獄が繰り広げられた。

このさなかに、「延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員」がいたことが、手記には書かれている。彼らが組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清算運動だ」あるいは「集団訓練だ」と言って、居留民の財産没収、自由拘束、不服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げ、しかもスパイ網を確立して全日本人を不安と絶望のどん底にたたき込んだという。

彼ら日本人共産党員によって、居留民会長であった寺田氏を始め、通化在住の実業家、著名人約180人が密告されて逮捕、罪状ねつ造の上処刑された。その処刑の様子は先に記したとおりである

戦時中、日本を捨て共産主義の延安に走った彼らは、当時、売国奴として日本人にののしられたが、日本が負けて彼らは逆に英雄気取りであった。 「避難民が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていたことをこの目で見て腹立たしい思いがする。」と書かれている。

後で再会した開拓団の団長によると、この親戚が生後40日ではぐれた一人娘は、開拓団の医者の手で殺されたとわかった。ソ連が侵入したときには、開拓団には女、子供と病人しかおらず、馬車を仕立てて避難していたら満州人に馬車ごと荷物を全部盗まれてしまった。道中、団長は暴徒に襲われ靴まで脱がされた。食べるものもなく、追いつめられ、子供は乳が出ないため次々と死んでいった。それで開拓団の医者は、これ以上苦しめるより楽に死なそうと女の子に注射をし、死体は箱に入れて他の山積みになった日本人の死体の所に置いてきたという。その後、ソ連兵に捕まって収容所に入れられたが、収容所の内外で開拓団の女性は乱暴され殺された者もいたと言う。団長は、筆者の親戚に「気が済むまで自分を殴ってくれ」と詫びたという。

また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の中国人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。

これらは、私一人が聞いた事例のほんの一部を紹介しただけであり、終戦後、無抵抗の日本人に対してこのような掠奪と暴行、殺戮が、中国人、朝鮮人によって行われたことは事実である。これは「日本人がやったからやられたのだ」というレベルを超えている。

もちろん、中国人、朝鮮人の全てが悪人であったわけではないだろう。しかし、軍が戦後のどさくさ紛れに、このような形で何万人もなぶり殺しにされた事実は全く取り上げられず、「怪しげな日本人の加害行為」だけが大々的に取り上げられ、「これでもか!」と言わんばかりに日本の子供達に投げつけられている現状は、公平と言えるだろうか また中国人や朝鮮人が一方的な被害者で、日本人が加害者だとそんなに簡単に決められるのか?


「南京大虐殺」について、「あったか、なかったか」という観点からの議論をよく見うける。もちろん、歴史の真相を見極めることは非常に重要である。しかし、この事件の本質は、「あったか、なかったか」と言う観点ではなく、中国、アメリカ、ドイツ、そしてそれを手助けする日本の共産主義者(社会主義者)、あるいは正義漢気取りのリベラリスト、それぞれにとって「南京大虐殺がなぜ必要なのか?」という観点で考えないと理解できないように思う。


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意外なことにマッカーサーは、1950年に起こった朝鮮戦争の体験を通じ、日本の戦争は、「日本が自己の存在を守るため必要な戦争であった」ことを、アメリカ上院の軍事外交委員会において証言している。朝鮮半島は、まさに南下する共産軍とそれを食い止めようとする自由主義陣営とのイデオロギーの対決の場となった。北側が韓国に攻め込んだ際、マッカーサーは国連軍を率いてこれと戦った。その北側には、共産国ソ連が後押しして無限に武器が供給され、また北側が不利になると共産国中国も参戦して北側を支援し、一時優勢であった国連軍を38度線まで押し戻してしまった。この朝鮮戦争は、今だに一時休戦状態で、戦争はまだ終わっていないことを日本人は忘れがちである。しかし、韓国人にしてみれば、「度重なる北朝鮮の軍事的侵入も戦争が終わっていないと言う認識からすれば驚くに値しない」と言うのも納得がいく。

自分自身が体験してみて、マッカーサーは、「怒涛のように押し寄せる共産主義の防波堤として、日本が孤立無援で戦ってきた」その意味をようやく了解した。驚くことにマッカーサーは、朝鮮戦争の際、旧満州や中国まで爆撃する必要性を主張している。(結局主張は、議会で退けられたが)

近年アメリカでも、「もしアメリカが当時日本を追い込まず、アジアにおける防共の役割をまかせておけば、後年、朝鮮戦争やベトナム戦争の泥沼に巻きこまれる事態は起こらなかった」とする意見もある。(引用注:黒幕は、戦争が次々と起こってほしい人たちだったので、そんなことはしませんでした)

日本人はなぜ怒らないのか。それは、怒ることを忘れるように、あるいは萎縮して、二度と立ちあがれないように、自国の罪ばかりを長い間、「教科書で」教えられて来たからである。

この罪の内容は、明らかに後世、この目的の為に創作された虚構が含まれている。そこには報復を恐れ、自分の側には戦争犯罪はなかったかのように、日本人を「マインドコントロール」してきた戦勝国の思惑が存在する(筆者自身が、JCメンバーのような若い世代と話しをしていても、その洗脳の深さを痛感する事がある。)

50年に渡る、「長い洗脳教育」を受けた結果、現代の日本人には、一般的に「歴史の真実から目をそむける傾向」が生まれた。それは、虐殺を否定すると言う意味ではなく、むしろそのようなことは、「多分あったのだろうけれど、あえてかかわりたたくない」と言う傾向である。 その結果、国の将来を真剣に憂うる者を、「右翼」の一言で片付けるようになった。健全な議論の封殺である 日本を取り巻く国際情勢は、そんなに簡単なものでも、甘いものでもない。ところが、日本人の頭の中は長い間の愚民政策ですっかりやられてしまった。

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(何か変だなあ)

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(本当は、後ろに銀行家たちが立っていた)



関連

ハリマン覚書~日支闘争計画~ メモ
http://satehate.exblog.jp/9459945/

1919年(大正7)にモスクワでイルミナティ(ユダヤとボリシェビキ[ユダヤとユダヤですが]の合同)会議がひらかれ、「日支闘争計画案」が採択された:

・日本と支那の内部破壊
・支那に反日運動を起こさせる
・日支武力闘争から、ソ連・アメリカが干渉する戦争へ発展させて日本を倒す
・ヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する

この実行機関となったのが太平洋問題調査会;IPR(1925-)。

1922年 共産ロシアでスターリンが権力を握る


太平洋問題調査会と真珠湾攻撃工作
http://satehate.exblog.jp/15625945/

広島 ネブラスカ、長崎 フロリダ By Henry Makow, Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12080043/

オカルト国際銀行カルテルは、これらの攻撃の背後にある。過去にも未来にも。その目的は、恐怖心を煽り、抑圧、戦争、債務、そして「世界政府」を正当化することである。

インディアンたち
http://satehate.exblog.jp/15477269/

森や沼地のゲリラ戦のにがい経験は、白人達にインディアンとインディアンを戦わせる利点を教えた。インディアンのスカウトを利用すれば、森で道を失うおそれはない。 彼等の間の昔からの敵対関係をも十分利用した。

アルバート・パイクの世界操作計画
http://satehate.exblog.jp/6982937/

第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。 世界的な紛争の拡大が計画されている……」
「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」



おまけ

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by oninomae | 2011-09-18 14:45 | 歴史・歴史詐欺捏造  

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