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関東大震災と不逞朝鮮人の暴虐 2

関東大震災と不逞朝鮮人の暴虐
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1326.htmlより その2


おもしろいもので、人間というもんは、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、得意なパターンの行動をとるものです。

小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口をとる。喧嘩になったとき、大声を出す人は、必ず大声を出して怒鳴るし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出します。泣き出す人は先に泣くし、必死に説得しようとする人は、まずしゃべる。

同様に民族的にも、極限状態に置かれた民族は、たとえば
ドイツ人は激しく自己主張します。
ロシア人は、大量殺戮する。暴飲、強姦をします。
支那人は、集団となると悪趣味な残虐行為を働く。
朝鮮人は、火病を起こして暴徒と化し、集団で女性が死ぬまで強姦し、死んだ後は屍姦する。

日本人はというと、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。旧日本軍の軍人さんたちがそうでした。近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンでした。

むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりする。それが日本人です。教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがない。

こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでなく、当然、個体差(個人による行動パターンの違い)はあります。

朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達はいた。そうした人たちは、日本の警察や軍隊が、当時、しっかりと保護しています。全部が全部ではない。

日本人にも、おかしな奴はいる。しっかりした人もいる。

けれど、それでもなお、民族的傾向性というものは、厳然として存在する。そしてその「傾向性」は、時を超えて、なお繰り返すのです。

いま、在日朝鮮人たちは、「自分たちは差別されてきた」といいます。しかし彼らに対して私たち日本人が行ってきたのは、「差別」などでは決してありません。彼らがしてきた行為から、私たちの父祖たちは彼らを「警戒」してきたのです。

ここまで書いてしまったので、あと2つ、お話しを続けます。大東亜戦争中の話です。日本軍は、支那事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。

支那事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。その頃の話です。

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「鍼灸医の体験した日本軍の香港占領」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年  (引用注:この問題は以前にも一部紹介しました

九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。

彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。

当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。

最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。ところがある日、突然5~6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。

前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。

当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。

香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。

このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。


当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。

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要するにこれが事実です。


時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。このときも彼らは同じことを繰り返しています。

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「私の村は地獄になった」 ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた ロン・モロー(バンコク支局長)

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。

彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した

生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。

グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。

近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。

硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。

トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった

こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。

67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。

韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。

それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。

父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった

グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。

67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。

そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。

大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。


チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。

「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
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過去の歴史を虚心に振り返ったとき、明らかな事実として、また現代を生きる私たちへの重要な教訓を教えてくれます

つまり、歴史は繰り返す・・・からです。

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関東大震災では、在日朝鮮人が多くの問題をひき起しました。

それでも気をつけなければならないのは、それは「在日朝鮮人」に限ったことではなく、大陸系の人種に共通の特徴でもある、ということです。

日本人の日本人的価値観やDNAは、あくまで世界の60分の1のものでしかない。世界は、日本とは異なるのです。

そしてもうひとつ。関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日朝鮮人」です。そうでない朝鮮人もたくさんいた、というのことも忘れてはなりません

終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをした朝鮮人もいました。その一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くの朝鮮人もいたのです。だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができた。

現代においても、在日朝鮮人が日本国内で悪いことをする人もいます。その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている多くの在日朝鮮人もいます。

人はみんな裸で生まれ、死ねば仏様、罪を憎んで人を憎まず、差別をせず、誰に対しても親切する、というのは、日本人の日本人的美徳です。

そうした美徳を、備え持った、あるいは日本人以上に一生懸命に学び、誠実に生きようとする人もいる。

終戦直後、日本がまだ貧しかった頃、朝鮮戦争が勃発しました。北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。

このとき戦った金錫源将軍は、日本の陸士を卒業し、並の日本人以上に勇敢に戦った。

一方、多くの朝鮮人が済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきた朝鮮人たちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。

そういう正しい歴史を、相互に学ぶことこそが、私は両国民にとって、もっとも必要なことなのではないかと思っています。 (引用注:洗脳教育ばかりされている状態ではなかなか難しいことだと思いますが)



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by oninomae | 2011-09-13 19:26 | 歴史・歴史詐欺捏造  

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