関東大震災と不逞朝鮮人の暴虐 1

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関東大震災と不逞朝鮮人の暴虐
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1326.html より その1


             避難所の子供達(関東大震災)
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早いもので、もう9月です。9月といえば、旧暦では「長月(ながつき)」です。別名は「夜長月(よながつき)」といいますから、まさに秋の夜長を指しています。他に9月といえば、「稲刈月(いねかりづき)」、「寝覚月(ねざめつき)」なんていう呼び方もあります。

猛暑だった夏の疲れが一気に出るのもこの季節です。どうかみなさまには、ご健康第一にとお祈り申し上げます。

さて、9月1日というと、どうしても忘れてならないのが、関東大震災です。

関東大震災は、大正12(1923)年9月1日、午前11時58分に関東地方で起こりました。マグニチュードは7.9、まさに巨大地震です。震源地は、相模湾北西沖80km。東京だけでなく、千葉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらしました。この被害規模は、日本災害史上最大ものです。

公式に記録されている被害の概況は次の通りです。

死者・行方不明者 14万2800人
負傷者   10万3733人
避難人数  190万人以上
住家全壊  12万8266戸
住家半壊  12万6233戸
住家焼失  44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他   868戸

地震の発生時刻は、ちょうどお昼どきでした。炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに能登半島付近にいた台風の余波による強風が重なって、被害がいっきに加速したとされています。

ところがおかしいのです。過日の東日本大震災は、東日本全域を襲い、大きな津波による被害は、街を壊滅させました。さらに福島原発の事故がこれに重なった。日本史上最大といっていいこの地震で、被害者となった死者、行方不明者は、警視庁のまとめによると、

死者 1万5741人
行方不明者 4467人
です。

合計しても2万208人です。
関東大震災は、14万人。
この被害規模の差は、いったい何なのでしょうか。

関東大震災で、死者行方不明者を大量に出したのは、火災によるものです。火は、火災旋風を引き起こしながら広がり、鎮火したのは2日後の午前10時頃です。被災地の気温は、この間、ずっと40度を超えるものだった。

東京の本所区横網町(現在の墨田区の一部)にあった本所区被服廠では、2万430坪の敷地の中で火炎流にのみこまれた人々が、この一カ所だけで3万8千人も亡くなった。

でも待ってください。なぜ本所の被服廠に、4万人近い人が集まっていたのでしょうか。

要するに、ここに人が集まっていたのは、震災発生後の避難民たちだったのです。つまり、本所区被服廠に集っていたのは、震災によって焼けだされた人達が、そこに4万人も避難していた。そこに火災が襲った。つまり、地震発生時ではなく、地震発生後、避難民が集まっていた避難所で悲劇が起きたのです。

現実には、震災そのもの、あるいは震災時の火災そのもので亡くなったり行方不明になった人は、数千名から1万名程度だったろうと言われています。14万人の死者、行方不明者のうち、なんと13万人は、震災後に亡くなられているのです。

当時の新聞を見てみましょう。

「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」 (小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
 
「朝鮮人、各所暴動検束数千名」(小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
 
「朝鮮人、横浜~王子放火」(大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)

「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」 (荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)

「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」(新愛知 大正12年9月4日号外)

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「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」 (名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)

「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」(福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)

「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」 (小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)

「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」(九州日報 大正12年9月4日号外第三)

「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」(大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)



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関東の地震なのに、報道は地方のものばかり、とお気付きになられる方もおいでのことと思います。

大正時代のことです。当時、新聞社は、東京に一局集中していました。この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷をしています。東京にあった新聞社は、ことごとくこの活版印刷のための活字ケースが地震発生によって倒れ、活字が散乱し、印刷機能が停止してしまったのです。

さらに大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社がすべて焼失した。最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで、首都における新聞報道は完全に麻痺してしまっていたのです。

このため、地方新聞の支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある自社新聞印刷所に連絡し、これが各地での号外となったわけです。

号外記事の見出しを見ると、震災後の混乱の中で、在日朝鮮人たちが屋根から屋根へ放火したり、略奪、暴行、婦人凌辱等、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。さらに在日朝鮮人たちは、爆弾まで使って放火、略奪を繰り返し、あげく、軍隊によって鎮圧された、とある。 (引用注:「内務省の煽り」なんてものではなさそうですが?)

そして当時の政府は、公式発表として「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください」というステートメントを通達として出しています。

また、大阪毎日新聞では「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」するだけでなく、「不逞ではない朝鮮人」保護のため、警視庁が「取締りは完全に遂行せよ」と急告通達を出している

警察には、繰り返し、多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えました。

政府は「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らを各所に収容を指示します

警察では、警視総監の赤池濃氏が、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。

戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「朝鮮人の中の不逞の挙について、放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」

本来、震災の直後にあっては、互いに助け合って、被災者の救助にあたったり、火災の延焼を防ぐため、みんなで力を合わせたり、あるいは怪我人を介抱し、生き残った老人、婦女、子供たちの安全を図り、みんなで協力して食料の確保や情報ルートの確保しなければなりません。

生き残った日本人が、そうして互いに助け合おうとしているのを、朝鮮人達は助け合うどころか、逆に暴徒と化して日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦したのです。 


被災地の多くの日本人は、暴徒と化した朝鮮人を恐れました。だから若者たちを中心に、自然発生的な自警団も生まれた。街の安全を確保するために、各所に自警団が関所を設けたりもしています。

その関所では、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払いました。

なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者が、こうして追い払われたというケースもありました。不幸な出来事だと思います。

一般的にみて、自警団が設けた関所では、ガギグゲゴの発音ができない者は、「ここを通るな!」とやったろうし、集団でそこを強行突破しようとする者があれば、当然、そこでもみ合いの喧嘩が起こったということは容易に想像がつきます。 日頃おとなしい日本人が、そこまで追いつめられていたということです当然、そこまで追いつめられたのには、理由があった、ということです

横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。これを知った地元の自警団約1000人が、朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきます。それまでに彼らの身内等がひどい目に遭わされていたのです。

署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と自警団の者たちを追い返しています。

さらに大川所長は、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したりもしました。

こうして署長は、朝鮮人たちを守っています。

日頃、おとなしく従順な日本人が、1000人も集まって警察に団交に行ったという事実は、注目に値します。決して全ての朝鮮人が、というわけではないでしょうが、一部の朝鮮人たちが日本人の家屋や商店、婦女子を襲い、地元の日本人たちが相当に腹を立てていたという事実が、ここに象徴されている、ということです。


軍隊も同様に、多くの朝鮮人を保護しました

また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。

注意しなければならないのは、先に暴虐の限りを尽くして暴れ回ったのは、朝鮮人たちだった、ということです。 (引用注:「内務省の陰謀的誇張」とは思えないんですがネ?地震に乗じて、現在と同類のことをやっていたような・・   同じことを繰り返しつつあるような・・)

大正12年からはるかに時代が下って、関東大震災からやがて30年が経ち、ひとびとの記憶から朝鮮人の暴行の記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。

この関東大震災における朝鮮人暴徒事件に関して、ふたたび問題が再燃します。関東大震災のとき、朝鮮人達がいわれなく6000人殺された、というのです。


戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に来日した。

そこへ、戦前逮捕されていた共産主義者たちが牢屋から出てきて、日本人が関東大震災時に、朝鮮人6000人を殺害したと、いい加減なデマを流しはじめたのです。

6000人という数字は、いきなり降ってわいた数字です。何の根拠もありません。それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、どれだけの日本人が殺害されたのかを、まず知るべきです。

一説によれば、関東大震災は、震災そのものによる死亡者よりも、その後の人災によるものが20倍の被害を発生させているといいます。その20倍というものが、彼ら朝鮮人によるものだというのなら、朝鮮人による日本人被害者は、13万人ということになります。

冒頭に、関東大震災の死者、行方不明14万人と書きました。けれど、震災による直接の被害者は、おそらく数千名であったろうと言われています。

要するに13万人を超える死者、行方不明者は、震災の二次災害によって亡くなられた。その二次災害というのは、火災、略奪、暴行、強盗、強姦、殺人です。

朝鮮人たちは、自分たちこそが被害者であると言います。日本人は、差別主義の悪逆非道者であるというわけです。

けれど事実は、大震災の発生を奇貨として、不逞朝鮮人達が無抵抗の日本人を相手に、略奪、暴行、強姦、殺人の限りを尽くし、甚大な被害を発生させたというのが、関東大震災の被害です。

これに対する対抗措置として、自然発生的に街の自警団ができあがり、暴徒と化した朝鮮人達から普通の市民を守ろうとしたわけです。

要するに、朝鮮人達が、ふつうに、被災した日本人とともに、互いに助け合い、被災者の救助や街の復興に普通に協力していれば、そもそも何の問題も発生していなかったし、死者、行方不明者もわずか数千名で済んだ筈だったのです

現に、朝鮮人以外の外国人に関しては、まったくこうした暴徒問題は発生していない。たとえば当時、首都圏には多くの台湾人がいたけれど、台湾人が震災の際に暴徒と化したなどという話は、ただの1件も発生していません。

にも関わらず、自分たちの不逞行為は棚にあげ、あたかも朝鮮人こそ一方的な被害者であると言い出し、それも、事件の記憶が薄れ、実体験した人たちがだいぶ減ってきた昭和28年ごろ・・・事件から30年も経ってから、なんの根拠もなく6000人が「殺された」と主張しているのが在日朝鮮人たちです。

非常に卑しい行為です。見下げ果てた行為というのは、このことをいいます。



続く
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by oninomae | 2011-09-13 19:20 | 歴史・歴史詐欺捏造  

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