マヤーク核施設 その1 死んだ川 残された住民

21世紀核の時代負の遺産 ソ連編 

マヤーク核施設 その1 死んだ川 残された住民 (01/9/16)
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/nuclear_age/former_soviet/010916.html

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土が水が 体むしばむ 説明も避難指導もなく

ロシアの首都モスクワから東へ約千五百キロ。大小三千五百以上の湖が点在するウラル山脈南東に位置する旧ソ連時代のかつての秘密都市「チェリャビンスク65[Chelyabinsk-65]」と隣接のプルトニウム核施設「マヤーク生産協同体[Mayak Production Association]」は、視界を遮る深い森の向こうにあった。

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緑の森の向こうにそびえるプルトニウム工場の煙突。兵器用プルトニウム生産は中止されたが、今も原発や原潜などから生じる使用済み核燃料の再処理が続く(チェリャビンスク州のマヤーク生産協同体)

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テチャ川のほとりのシラカバの幹に取り付けられた「立ち入り禁止区域」の標識。放射能汚染については一言も触れていない(ムスリュモボ村近郊)

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「注意 特別の許可なく外国人の立ち入り厳重禁止」。マヤーク核施設へ通じる道ばたに立てられた英語とロシア語の看板。1992年初頭までは、チェリャビンスク市にさえ外国人は入れなかった(マヤーク生産協同体の南側)

[マヤーク核施設]正式名称は「マヤーク生産協同体」。ソ連時代は、施設内の工場などで働く労働者らが住む秘密都市(現オジョスク市)と併せ「チェリャビンスク65(旧チェリャビンスク40)」のコード名で呼ばれ、地図にも表記されなかった。1948年6月、兵器用プルトニウム生産のための最初の原子炉が稼働。半年後の12月には再処理施設も操業を開始。49年2月、プルトニウムを初めて取り出した。その後、同じ目的の原子炉を5基造ったが、90年11月までにいずれも閉鎖された。このほか、約200平方キロの工場敷地内には、現在も使用中の兵器用トリチウムと民生用のアイソトープなどを取り出す原子炉2基、約60個の廃棄物貯蔵タンク、廃棄物貯水池、高レベル放射性廃液ガラス固化体施設などがある。従業員は約1万5千人。 


「あの煙突がプルトニウム工場のものだ」。チェリャビンスク市を拠点に放射線被害者の支援をする市民団体「アイグリ(月の花)」共同代表のガスマン・カビーロフさん(44)が、湖の向こうにそびえる煙突群を指して言った。「マヤークは国内最初の兵器用プルトニウム生産工場だ。そのための原子炉五基をはじめ、再処理工場などがある。ロシアで最悪の放射能汚染を引き起こしてきた」

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マヤーク核施設は、広島・長崎原爆投下直後の一九四五年十月、ソ連政府が最初のプルトニウム生産工場敷地として決定。四九年初頭には照射済みの核燃料からプルトニウムを分離し、同年八月二十九日のソ連初のセミパラチンスク核実験場(カザフスタン)での原爆実験成功に導いた。

東西冷戦下、激しい対立を続けていた米国に遅れること四年余。予想外の速さの実験成功は米政府を驚かせ、より破壊力の大きい水爆開発など米ソ間の新たな核軍拡競争の引き金となった。

が、開発優先のその裏で、環境を省みない化学・放射性物質の川や湖などへの投棄や事故が続発。今も高レベル放射能汚染のため、マヤーク核施設周辺の約三百五十平方キロメートルは「健康保護ゾーン」として、農業や居住を禁止。広島市の面積の二倍余に当たる約千七百六十平方キロメートルが環境上の「モニタリングゾーン」に指定されている。

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テチャ川の河原で放射線レベルを測定するガスマン・カビーロフさん。その場に1日いると、一般人の年間線量限度を超える放射線を浴びる(ムスリュモボ村近郊)

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1950年代を中心に、マヤーク核施設から膨大な量の放射性廃液が投棄されたテチャ川。川べりでは、汚染土壌に生える草を牛たちがはんでいた(ムスリュモボ村)


九四年まで「チェリャビンスク65」というコード名でしか示されなかった現在のオジョスク市[Ozyorsk]。マヤーク核施設で働く従業員と家族ら約八万五千人が住むその町は健康保護ゾーンに隣接し、従業員は高レベル放射性廃棄物などが投棄された湖や人工貯蔵池がある敷地内で今も働く。

放射能汚染の範囲はそんなもんじゃないよ。テチャ川に投棄された放射性廃液はオビ川に流れ込んで、千五百キロ先のカラ海まで汚染したんだ。兵器用プルトニウムの生産は九〇年に中止されたけど、テチャ川流域の汚染は今でもひどいもんさ

カビーロフさんははき捨てるように言うと、煙突群の見える湖畔を離れ、自分の生まれ故郷でもあるテチャ川流域のムスリュモボ村へと、ハンドルを東に切った。

村はマヤーク核施設の下流約八十キロにある。道路の両側にうっそうと茂るシラカバ並木を抜け、田舎道からいったん幹線道路へ。さらに田舎道に入ってしばらく走ると、川幅七~八メートルのテチャ川が見えてきた。

ムスリュモボ村の手前で車から降り、カビーロフさんと一緒に二十メートルほど坂を下って川辺に立った。ガンマ線用の持参の測定器を、足元に近づける。「ピ・ピ・ピ・ピ・ピ…」。警告音を発し始めた測定器のデジタル目盛は、毎時〇・〇六ミリ(六〇マイクロ)シーベルトを指している

広島で浴びる自然放射能による線量は、毎時約〇・〇八マイクロシーベルト。その七百五十倍である。この場に十七時間いるだけで、一般人の年間被曝(ばく)線量限度である一ミリシーベルトを超えてしまう。「新しくたい積した土を二十センチも掘り起こせば、放射線はもっと強くなる」とカビーロフさんは言う

マヤーク核施設は、操業当初の四八年から五一年まで、高レベル放射性廃液をテチャ川に直接捨てた。さらに五六年まで、中・低レベルの放射性廃液の投棄を続けた。 ガンマ線とベータ線を放出する半減期三十年のセシウム137、ベータ線を放出する半減期二十九年のストロンチウム90…。

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マヤーク核施設が生み出した放射性廃棄物の量や周辺の汚染状況を調査した「ゴルバチョフ委員会」の報告(九一年)によると、五六年までに七千八百万立方メートルの高レベル廃棄物をテチャ川[Techa River]に投棄。放射能量はチェルノブイリ原発事故の約五%に当たる十万兆ベクレルに達したとしている。

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マヤーク当局の科学者らは、五一年のテチャ川流域調査で、汚染の進行や、三十八ある村の住民二万八千百人の間に健康被害が出ていることを突き止めていた。そのため、直接川から水を飲まないように井戸を掘ったり、人や家畜が川へ近づかないようにと金網でフェンスを設けたりした。

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だが、住民避難が始まったのは二年後の五三年。マヤーク核施設に最も近い、人口千二百人余のメトリーノ村が最初だった。その後六〇年にかけて、メトリーノ村を含め二十の村の七千五百人が避難した。人口約三千二百人のムスリュモボ村の住民は、なぜか残された。

「村を離れた者にも、残った者にも放射能汚染の説明など何もなかった。だからその後も、みんな川の水を飲んだり、灌漑(かんがい)に使ったり、魚を捕ったり、泳いだりしたよ。避難民も避難するまでに外部被曝も内部被曝もしているけど、残された住民は避難民以上にその影響を長く受けているんだ」

車に戻ったカビーロフさんはこう説明しながら、テチャ川に架かる橋を渡り、川沿いの民家が立ち並ぶ未舗装道路へ入った。川べりでは牛や馬が草をはみ、川へ下りないように張られたフェンスの内側では、老夫婦がジャガイモ畑の手入れをしていた。

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テチャ川そばの畑でジャガイモの手入れをするシェスラム・ハンマドフさん(64)と妻のライアさん(66)。「病気もあるし、ここで住むのは怖い。でも、この年では行くところもない」と口をそろえた(ムスリュモボ村)


「ここはマルクス通り。家はあっても家族が死んだり、引っ越したりでほとんど空き家だよ。ほら、この家は私の妻の家族が三年前まで住んでいた家だ」

スレート屋根、緑のペンキがはげかけた板壁…。カギを開けて中に入る。残された古い衣類などが、かつての暮らしの面影を伝えていた。

カビーロフさんの妻ミーリャさん(41)は、兄四人、姉二人の七人兄弟の末っ子。父親のルヌムハメッド・シャギアフメトフさんは、マヤーク核施設所属の警察官として、テチャ川に人や家畜が近づかないように監視する「川の警察官」だった。

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放射能のことも、父が白血病で死んだことも全部秘密だった」 と、悔しそうに話すミーリャ・カビーロフさん(チェリャビンスク 市の自宅)

亡くなったミーリャさんの家族

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父親のルヌムハメッド・シャギアフメトフさん

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母親のサルバルさん

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長兄のムハメッドジャンさん

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三兄のラシードさん


その父は六二年、四十四歳で白血病で死亡した。

母親のサルバルさんは夫の死後、生活のために月二回、川の水と土壌をサンプル用に瓶に集め、マヤーク核施設からやってくる専門家に提出した。冬場は凍らないように家の中に持ち込み、ベッドの下に置いていた。そのベッドでミーリャさんら子どもたちも寝ていたという。

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3年前まで、ミーリャさんの家族が住んでいた家の内部。マヤーク核施設のため、母親のサルバルさんがテチャ川から採取した水や土壌の入った瓶は、このベッドの下に置かれていた(ムスリュモボ村)


母親は長い間患った後、九八年に八十歳で死亡。が、母親よりも四年前の九四年、上から三番目の兄ラシードさんが、四十三歳で心臓病のために死去。九五年には長兄のムハメッドジャンさんも、五十二歳で胃がんで亡くなった。

八一年に結婚したカビーロフさんとミーリャさんには、養子が一人。二人とも体内被曝の関係で生殖細胞に影響を受け、子どもが生まれないのだという。


後日、村から南東へ約五十キロ離れたチェリャビンスク市のアパートでミーリャさんと会った。夫とともにアイグリの活動に打ち込む彼女は、家族のアルバムを広げて言った。

村では私の家族だけでなく、たくさんの人が死んでいた。親より先に亡くなる若者も多くて…。みんな『川の病気にかかった』と伝染病のように話していたわ。放射能の影響を知るようになったのは、八六年に起きたチェルノブイリ事故の影響が明るみに出始めてから。私たちが知ったのは九〇年のことよ

カビーロフ夫妻をはじめ、ムスリュモボ村であった多くの住民は、放射線が人体にどのような影響を与えるか、自分たちが実験動物のように扱われた、と感じている。

なぜ避難しなかったのか、いまだに納得のいく説明がないんだから、そう思うのも当然だろう。テチャ川流域の汚染は長く続く。今は一人でも多くのヒバクシャの認定を勝ち取り、私たちの人間としての尊厳を取り戻したい」

夫の言葉にうなずくミーリャさんらの闘いは、まだ緒についたばかりである。



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http://www.youtube.com/watch?v=fTO14WLBOSw&feature=player_embedded

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by oninomae | 2011-08-13 08:21 | 放射能・ラジオハザード  

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