涙のカタルシス4 王殺しとは何か ロプノールと天空城 a たんぽぽ日記

涙のカタルシス4 王殺しとは何か ロプノールと天空城 2011年07月03日
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石原慎太郎と橋下徹が会談し、首都機能を大阪に分散することで合意したという。私は不思議に思うのだが、首都機能の移転は知事間で勝手に決めることではなく、国家の問題、すなわち国会が決めることではないのか。

橋下と石原の判断で勝手に首都機能の移転を決めることができるなら、全国の市長が、勝手に自分の県や都市を動かすことができるようになってしまい、大混乱をきたしてしまうではないか。

まあ、独裁を求める橋下にしてみれば、このような要求はまだまだ序の口であって、今後、もっと国民が思いもよらないような出来事が起こるだろう。何でも自分の思い通りにならないと気がすまないということは、橋下のいう事を聞かない人間は、橋下独裁政権が誕生した暁には、生きてはおれまい。

この東北や関東が電力不足で窮している時に、「節電なんかしなくていい!」と怒鳴りつけている橋下と、協調するという石原の頭も夏の暑させいか、どうかしているのだ。

このところ、地震や原発などの社会情勢ばかり扱っていたくせに、何をいまさら魔術などという、寝ぼけたテーマを扱っているのか、今の日本はそれどころじゃない!とお怒りの読者の方もいることでしょうが、原発問題に関しては、重大な情報があれば今後も書いていきます。

ただ、私のやるべきことは、なぜこうしたことが起こるのか?つまり、誰が、どのような思想で、何を目的として世界を破壊するのか、という皆さんの疑問に応えること。

また、我々は今起きている事態にどう対処すべきかを、(今はこちらが最も優先されるべき状態であることは分っています)

そして、私たちは彼らといかに抵抗し、戦い、子供たちのために、安全で自由な社会を守っていくべきなのだということを伝えたいのです。

東では、放射能汚染だけではなく、下水道施設や医療が破壊されたため、伝染病の蔓延が心配されます。家を失い、家族を失い精神的に追い詰められている人々がいます。現地に行った人から聞きましたが、とにかく匂いが酷いと言っていました。衛生状態が心配されますが、政府の動きはとても鈍いです。私にはわざと遅らせているようにしか見えません。

西日本はまだ安全ですが、そのかわり橋下徹が危険な発言を繰り返しています。大阪の人々は、ただ有名人であるから、また発信力があるからなどという理由で政治家を選ばないでください。喋るのは下手でも、誠実で、大阪府民のことを思う正しい政治家を選んでください。平松市長の方が橋下よりまともな人間であると私は考えますがどうですか。

政治家に正しい行いの多くは期待できません。菅直人を見ればそのことが良く分ります。

では、私たちはどうすれば良いのでしょうか?その答えは少しでも悪くないほうを選択するということです。

橋下は「日本に必要なのは独裁」とはっきり言っています。独裁は最も危険な政治形態です。ですから大阪の人は、橋下を選ぶべきではないのです。


さて、ここから本題に入ります。

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ジェームズ・ジョージ・フレイザー[James George Frazer, 1854–1941]の金枝篇[ The Golden Bough]に魅せられた人が数多くいます。私もフレイザーのこの書物は非常に参考になると思います。けれど、なんとなくすっきりしないのはフレイザーが宗教を毛嫌いしているからでしょうか。非宗教、合理主義、科学主義者のフレイザーは、徹底した宗教の否定という立場から、この本に生涯を捧げました。

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ただ、この大著がミルチア・エリアーデの世界宗教史に次ぐものだということは間違いありません。そういった意味で、歴史、特に宗教に関心のある人で、まだ読んでいない方にはぜひお勧めします。



アリキア木々の下に眠る
鏡のように穏やかな湖
その木々のほの暗い影の中で
治世を司るのは恐ろしい祭司
人を殺した祭司であり
彼もまた殺されることだろう。

王の称号と祭司としての結びつきは、古代イタリアとギリシャにおいては一般的であった。ローマとその他イタリアの都市には、「供犠の王」もしくは「聖なる儀式の王」と「呼ばれる祭司がいた。

スパルタにおいては、国のすべての供犠が、神の末裔としての王たちによって執り行われていた。

小アジアには、何千もの「聖なる奴隷」が住む、様々な首都があり、中世のローマ法王のように、世俗の権威と霊的な権威をともに行使できる、祭司長によって支配されていた。祭司が治めるそのような都市として、、ゼラ、ペッシヌスがあった。

当時王が身に纏っていた神性は、空虚なことばだけのものではけっしてなく、真摯な信仰の表現であった。王たちは多くの場面で崇められた。単に人間と神を仲介する祭司としてではなく、神自身としてである。人間の手には届かないものと広く認識されていた祝福、超人や不可視の存在に祈りと犠牲を捧げることでのみ追い求められる祝福を、臣民や崇拝者たちに与えることのできる王なのであった。かくして王たちにはしばしば、来るべき季節に雨と火の光を施すことが期待され、また穀物が実ること等々も期待されたのである。

蛮人たちは、自然の移り変わりに対して都合の良いように影響を与える力が、自分には限りなくある、と考える。祈祷、誓約、あるいは威嚇によって、天候の恵みと豊かな穀物を神々から得ることができるだろう、と考える。そして、蛮人がときおりそう信じるように、神が自分と同じ人間の姿を取ることになれば、もはやそれ以上に高次の力に訴える必要はなくなる。

これが人間神という概念が生まれるひとつの過程である。だが、別の過程もある。世界には霊的な力が浸透している、という世界観と並んで、太古の人間には別の概念もあった。

自然の法則という近代以後の概念の、萌芽とみなせるかもしれない概念、すなわち、自然とは個人的な仲介者が立ち入ってくることなどない不変の秩序の中で生起する一連の出来事である、という自然観である。

ここで言う萌芽は、共感魔術と呼び得るものに存する。これは迷信の世界のほとんどで多大な役割を演じている。共感魔術の原理のひとつは、どのような効果もそれを真似ることで生み出される、というものである。


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ジェームズ・ジョージ・フレイザー「初版 金枝篇」ちくま学芸文庫編より抜書き


フレイザーは、高次の存在、または人間神、そして魔術というものを否定、はっきり言えば馬鹿にしている。近代や現代では、ごく普通の考え方であるかもしれない。

フレイザーの場合、両親が厳格なクリスチャンであったので、その反動により、自由を得てからはまったくの反教会思想にひた走ったようだ。思春期の教育というものの難しさ、というものを感じるが、そのおかげで金枝篇を我々が読むこともできたわけだ。だが、フレイザーのような態度は、少なくとも私たち日本人の、旧世代には受け入れにくいものだ。

なぜなら、日本では人間宣言したとはいえ、現人神の天皇家が、今でも最も重要な神事を執り行っている。天皇は新嘗祭や大嘗祭において、神として振舞うことが求められる。

たとえば、特別に設えられた麻袋の中に天皇自身が篭る。これは天岩戸や、イシュタルやペルセポネの冥界降りと同じ意味を持っている。一年を過ぎて、一度弱まった太陽神は、儀式的に一度死を経験することにより蘇る。(死と再生の共感魔術)

日本人は今でもこうした神事を執り行い、また、新年には神社に初詣に出かけ、新しい年が良い年となるように、神々に祈りを捧げている。拍手を何回叩くかによって、呼び覚ます神様の数も違ってくる・・・

まさにフレイザーから言わせれば、私たち日本人こそ、近代科学の時代にありながら、ガラパゴス諸島に住むトカゲのような生き物に見えたことであろう。(金枝篇や世界宗教史には、天皇やあいぬの話が登場する。特にエリアーデは日本が好きだった)

天皇は、大嘗祭においても地に足をつけることなく歩を進めなければならない、それは天皇が今でも人間ではなく、神としてみなされているからである。(私自身は明仁天皇や徳仁親王の言葉づかいやその振る舞いを尊敬している。私にはとても真似できないし、私たち日本人は多かれ少なかれ、みな天皇家の血を引いており、信用できない外国人より、はるかに近しい存在であるからだ。)


われわれならば超自然と呼ぶしかない力が、ある社会ではどの人間にも多かれ少なかれ与えられているとみなされており、そこにおいては、神々と人間の区別が、曖昧であるか、あるいはほとんど立ち現れることさえない。

神々の概念は、永年の歴史の中でゆっくりと醸成されてきたものである。最初は、超自然の力を行使する存在というのは、仮にあったとしても、人間におおいに優るものとはみなされていなかった。つまり、神々とは人間の意志に従うよう威嚇され、強要される存在であった。

だが、知識の発達ともなって、人間は、自然の広大さとそれを目の前にしたときの自らの卑小さ、弱さを、より明確に認識するようになる。

自らがあまりにも脆くか弱いものと感じるとき人間は、自然の巨大な機構を制御している存在が、いかに大きく力強いものであるか、と考えざる得ない。かくして神々との平等という旧来の感覚が徐々に失われていくにつれ、人間は自然の成り行きを、たとえば呪術のような独自の能力によって動かせるという望みを、諦めることになる

そして神々のことを、かつては自分も共有していると主張できた超自然的な力を、もはや唯一保有する存在とみなすようになるのである

それゆえ、知識が最初の発達を遂げた段階では、祈祷と供犠が、宗教的な儀式の主要な場所を占める。そして、かつては超自然的な力と真に同等な位置にあった呪術は、徐々に背景へと追いやられ、妖術・黒魔術のレベルまで貶められることになる。

だがさらに時代が下ると、自然力を個人的な動作主によるものとみなす考え方は、自然の法則という認識に道を譲る。こうなると呪術も、暗黙のうちに、不可避・不変の因果の連鎖という概念に基づくものとなり、個人的な意思からは独立し、それまで埋もれていた曖昧さや疑惑の領域から抜け出し、さらには自然の中に原因の連鎖を探求することによって、直接科学へ通じる道を用意することになる。煉金術は結局のところ化学にいたるのである。 


「金枝篇」より抜書き


聖書でもアダムとイヴは初めのときには神が住む楽園に住んでいた。アダムは肉体を持っていなかったが、善悪の木の実を口にし、肉体を纏うことになる。(堕落し、天界から転落するルシフェル) アダムは神同様の神人であった。

物語や映画、たとえば「ナルニア王国物語」などもそうだが、神と人間、妖精などが、わけ隔てなくまったく同じ場所に住んでいる。これがいわゆるノスタルジー、宗教家支配者が追い求めている原初の時である。そこには神という概念も、そして法律もなかった。

ユダヤ教では律法が重んじられる。じつは法律とは、最も魔術的な行為と言われている。いったんそれを定めたならば、誰もが従わなければならなくなる。人々はその魔術=法律に従い、まったく同じ行動をとる。もちろん、これだけの人間が住む社会では、秩序を保つためのルールは必要である。 だが、なくてもよい、さらには、ないほうが良い法律もある

菅直人が再生可能エネルギー措置法の成立にこだわるのも、われわれに魔法をかけ、がんじがらめにしてしまうためなのだ。孫が太陽光発電を行いたいのなら、自由にやらせればよい。ただ孫の事業に政府が補助金を出したり、また他者の設備を強制的に安く使わせたり、その生み出した商品を強制的に買わせるのは、資本主義のルールに反している。


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ヨーロッパのアーリア民族の宗教史上、樹木崇拝はある重要な役割を担ってきた。これ以上に自然なものはあり得ない。というのも、歴史の夜明けの時代、ヨーロッパは太古の森に覆われていて、その中に開けた地が点在していても、まるで緑の大海に浮かぶ小島程度にすぎなかあったであろうから。

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ケルト人の間でドルイドによるオーク信仰があったことはだれでも知っている。

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プラタイアイのボイオティア人は、二、三年おきに、「小ダイダラ」と呼ばれる祭りを催した。祭りの日、人々は古くからあるオークの森に出かけて行くが、そこに生えた木は非常に太いものであった。

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森では地面の上に茹でた肉を置き、その周りに鳥が集まるのを見る。ワタリガラスが一羽、肉片を運びオークの木にとまるのが見られれば、人々はついて行き、その木を切り倒す。

この森の木は花嫁衣装を着せられた神体となり、花嫁の付き添いの女性と並んで、虚勢牛の引く荷車に載せられる。引かれて行く先は、河神アソポスの河の土手であったらしい。

祭りの神体は片付けられ、60年に一度の「大ダイダラ祭」の祝典まで保管される。

この祭壇では動物が生贄として焼かれ、また祭壇自体が、神体とともに炎で焼き尽くされる。

この祝祭の起源については、次のように説明されている。昔ヘラがゼウスと口論し、ヘラはひどく腹を立ててゼウスの元を去った。彼女を呼び戻そうとしてゼウスは、自分が河神アソポスの娘、妖精のプラタイアと結婚しようとしている、と公表する。

ゼウスはヴェールをかぶりは花嫁の衣装を着せた像を木で作らせ、これを虚勢牛の引く荷車で運ばせた。怒りと嫉妬で我を忘れたヘラは、荷車に飛びかかり、偽の花嫁のヴェールを引き裂くが、その結果、これが自分を騙すための企みであったと分かる。彼女の怒りはいまや笑いに変わり、ヘラはゼウスと和解する。

さて、ひとつの祝祭の始まりは、しばしば、特定の時代に起こった災禍を語る神話物語によって説明されるが、その災禍を避けることこそが、その祝祭の目的となっている

同種の性格がいっそう確信を持って主張できるのは、アテナイで毎年春の「花の月」に行われた、ディオニュソスに妃を娶らせるという結婚の儀式である。というのも、後述するように、ディオニュソスは本質的に植物の神であり、アテナイの妃とは、純粋に宗教的もしくは祭司職な機能を果たすものであったからだ。それゆえ、毎年行われる彼らの結婚では、ディオニュソスは「五月の王」にほかならず、妃はまた「五月の女王」にほかならなかった。

また、詩人や画家たちに好まれる物語、見捨てられ眠り続けるアリアドネが、ディオニュソスに起こされ、彼と結婚する物語は、5月祭にフランス・アルプスの農民たちによって行われる小演劇に極めて類似している―


「初版 金枝篇」より抜書き

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こうした神話に基づく祝祭が、様々な眠り姫、または冥界や塔に幽閉されている姫神の物語の原型であることはほぼ確実であると思われる。

ディオニュソスもまたバールと同様、五月の王であった。ディオニュソスはまたエジプトのオシリスであるとされている。そして、ゼウスもまた同様の神話を持っている。

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ここで、ゼウス、バール、ディオニュソス、オシリスと呼ばれた神が、いかに地球界世界、または大西洋に浮かブリテーン島(歴史的に正しく発音するならべルテーン)まで信仰されていたということは、ギリシャにおけるボイオティア人、つまり古代フェニキア人やユダヤ人などによる布教の成果であると考えることが、最も妥当な見解であろう。

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これらの神々の源流は古代エジプトにあり、その地からこれらの人々が船に乗り、地中海世界を皮切りに、大西洋、そしてアジアの各地へと手を広げていった。ディオニュソスは、アレクサンドロスのようにインドまで遠征したことが知られている。

また、もののけ姫の登場するデェイダラボッチ(デイダラボッチ)の原型であると考えられる、ダイダラ祭についての言及もある。

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狼が住む深い森、その森で切り倒される聖なる木、豊穣と飢饉を司る森の神ダイダラボッチは、古代フェニキア人により信仰され、日本までたどり着いたのかも知れない。

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現在は妖怪と呼ばれている存在は、もとは神として祭られていたものが、他の神や仏との戦いに負けた結果、妖怪に転落してしまったのである。(最高神クロノスがゼウスに負け、地獄に転落してサタンと呼ばれるのと同じ)

もともと古代エジプトの神の顕現であった蓮の台座が仏教のほとけの座として使われ、エジプトで始まったと考えられる戒名、そしてベル(バール)の化身でもある鐘、どれも釈迦の時代にはなかった聖物が、まとめてやってきたのも、陸を越え、海を渡り、はるばる東の果てにたどり着いた結果である。(河童に関しては、私にはどう見ても、ザビエルにしか見えませんが、彼らは海からやってきたので、また古来より仏には水かきがあるとされてきたので、水かきがつけられたのでしょう。頭のお皿は見たままですが)  (引用注:「頭のお皿」は江南の倭人でしょうか)

―書き込み中ですが、途中保存します-


続く


おまけ

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by oninomae | 2011-07-03 17:02 | 魔術=詐欺とイルミナティ  

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