ユダヤ人たちは法王を選んだのか? By Clifford Shack 1

ユダヤ人たちは法王を選んだのか? By Clifford Shack その1

旧題:最終的解決を可能にする:ロスチャイルド一族と法王になった彼らの銀行顧客 By Clifford Shack  Updated January 8th, 2006

1931年の秋、ユダヤ教の祝日の最も神聖な日、贖罪の日[Yom Kippur]に、ギー・ド・ロスチャイルド[Guy de Rothschild, 1909-2007]は、初めて大人の取引に携わる一人の大人として、リュー・ラフィット通り[Rue Laffitte]19の大規模な街路門を通り抜けて歩いていた。

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その日は慎重に選ばれた。他のものたちが銀行キャリーアの初めとして理解するだろうもの、一人のロスチャイルドにとってそれは一つの司祭職に入ることであった。

22歳のとき、ギーは書くべき手紙を割り当てられた。

彼の文通相手の一人は、パチェッリ枢機卿[Cardinal Pacelli, Maria Giuseppe Giovanni Pacelli, 1876-1958]、後の法王ピウス12世[Pope Pius XII, 1939-58]であった。枢機卿は、その当時、聖所(宗教裁判所)の財政を担当していて、MM・ド・ロスチャイルド・フレールに小さな預金口座を管理していた。


ジョン・コーンウォール[John Cornwall]は、彼の本『ヒトラーの法王[Hitler's Pope]』の中で、エウジェーニオ・パチェッリ[Eugenio Pacelli]、法王ピウス12世の生涯を記録した。パチェッリはおそらく間違いなく、現代史の中で最も危険な聖職者だった。

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第二次世界大戦中の教皇として、彼は、ヒトラーの最終解決に反対をはっきり言わなかったばかりでなく、彼は自らその最終解決を可能にした!

20世紀の最初の10年間、パチェッリは、前例のない法王権力の一つの新しいイデオロギーを形作るのを支援した優秀なバチカンの弁護士だった。

1920年代は、ミュンヘンとベルリンの教皇大使として、 ドイツにローマの権力を強いるために彼は狡猾で教訓的な脅迫を用いた。

1933年には、彼はヒトラーと一つの条約、帝国教政条約を交渉した。それは、ナチが世界中の最も強力なカトリックの共同体によって反対されることなく、ヒトラー自身の承認によって、ヨーロッパのユダヤ人たちの運命に反乱を起こすだろうことを請け負った。

エウジェーニオ・パチェッリは、いかにして一体全体そのような狡猾から逃げおおせることが可能であったのだろうか。特に、我々は彼がロスチャイルド一族と私的なつながりがあったことを知っている。


ギー・ド・ロスチャイルドは、彼が法王になる8年前、彼の文通者であった。しかし、まてよ・・・

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もしパチェッリがヒトラーの法王であり、そしてヒトラーは一人のロスチャイルドだったとすれば・・・

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とすると、彼はロスチャイルドの法王だった!

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どのようにして、エウジェーニオ・パチェッリはロスチャイルドの法王になったのか?

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エウジェーニオ・パチェッリは、彼の司教職在任中と死後、ごく普通に黒い貴族の一員として述べられていた。

黒い貴族は、イタリアの民族国家の創設への熾烈な闘争の中で、彼らの支配を掌握したのに続いて法王たちによって根拠付けられたローマの貴族ファミリーの小さな集団である・・・

パチェッリの父親と祖父は、彼以前に、彼らの名声を教皇制に仕える在家のバチカン法律家のカースト制の一員であることに負っていた。

パチェッリのローマ法王庁との直接の家族的繋がりは1819年に始まっている。その時、彼の祖父、マルカントニオ・パチェッリ[Marcantonio Pacelli]が、聖職者の叔父モンシイグノール・プロスペロ・カテリーニ[Monsiignor Prospero Caterini]の一人の弟子として、教会法あるいは宗規を学ぶために永遠の都に到着した。

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1834年までに、マルカントニオは、結婚失効のような活動に関与する一つの教会裁判所聖ロタ裁判所の弁護士となった。10名の子供たち(彼の2番目の子供がエウジェーニオの父フィリッポで1837年に生まれている)をもうける一方で、マルカントニオは俗にピオ・ノーノ[Pio Nono]として知られているピウス9世に仕える一人の鍵を握っている官吏となった。

短気でカリスマ的、そして癲癇性のピオ・ノーノ(ジョバンニ・マリア・マスタイ-フェレッティ[Giovanni Maria Mastai-Ferretti] )は、1846年に戴冠したが、遠い昔の時代からの彼の前任者たちがそうであったように、ローマ法王の領土はイタリア半島の中央部を形成しており、聖ペテロの後継者たちの独立を保証することを確信していた。

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もしローマ教皇(最高司教)が、ある「外国の」国の一人の単なる住民であるとするなら、いかにして彼がその地域の影響から自由であると主張できようか?

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参考:Giuseppe Mazzini (June 22, 1805 – March 10, 1872)

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Carl Mayer von Rothschild (April 24, 1788 - March 10, 1855)

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Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston (20 October 1784 – 18 October 1865)


彼の戴冠の3年後(1849)、あたかもピオ・ノーノは永遠の都に対する主権を、共和主義の群衆に敗北し、屈辱的に失ったかに見えた。

1849年11月15日、痛烈な皮肉で有名な教皇領の在家の政府の大臣カウント・ペリグリーノ・ロッシ[Count Pellegrino Rossi]が、ローマの官庁宮殿[Palazzo della Cancelleria])に近づき、そして不機嫌に待機している群衆を軽蔑的な笑顔で出迎えた。

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彼が建物に入りかけたそのとき、一人の男が前に飛び出し、致命的に彼の首を刺した。

その翌日、街の丘陵部にある教皇のクイリナーレ[Quirinal]の夏の宮殿は略奪され、
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そしてピオ・ノーノは司祭の単純な日常法衣と大きな両眼鏡で仮装して、近隣のナポリ王国の安全圏内にあるガエータ[Gaeta]の海辺の要塞に逃れた。 彼は彼の法的・政治的な助言者としてマルカントニオ・パチェッリを伴っていた。

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この要塞から、ピオ・ノーノは「デモクラシーの言語道断の反逆」に対して非難を浴びせ、将来の投票者たちを破門で脅した。

ただフランスの銃剣とロスチャイルド一族からの融資の助けによってのみ、ピオ・ノーノはなんとか 1年後には、ローマ市と法王の領土に残された地域に対して軽蔑された統治を再開するために、バチカンに戻った。

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このことから、バチカンはその存在をこの時点からロスチャイルド一族に負っていることを我々は理解できる。


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James Mayer de Rothschild (born Jakob Mayer Rothschild, 15 May 1792 in Frankfurt-am-Main, Germany; died 15 November 1868 in Paris, France)


聖エウジェーニオ[Saint Eugenio]

聖人列聖は、誰かを一人の聖人にするプロセスであり、そしてある候補が、彼もしくは彼女が聖人に値するような生き方で生活したことを証することを含んでいる。

それは現在、ローマカトリック教会とその随伴者たち、東方正教会、そしてオリエント正教会によって実践されている。

エウジェーニオ・パチェッリは列聖を検討されている。

実際、20世紀の最初の10年、優秀なバチカン弁護士パチェッリは、一つの前例のない法王権力の新しいイデオロギー形成を助けた。

そして1920年代ミュンヘンとベルリンの教皇大使として、彼はドイツにローマの権力を強いるために狡猾で教訓的な脅迫を用いた。

しかし、1933年、帝国教政条約の交渉が進んでいたとき、パチェッリとヒトラーの法律家たちとの間に何かもっとなにか進行していたものがあったであろうか?

その教政条約の交渉は、ヒトラーの法律家たちがドイツのユダヤ人たちを処理することを支援するための覆いをパチェッリに提供したか?

結局のところ、バチカンは「合法的な」実績の数世紀を有しており、そしてユダヤ人たちを取り扱う卓越した専門知識を培ってきた。

パチェッリとバチカンの法律家たちは、この有用な合法的知識をヒトラーの合法的な鷲たちと共有したであろうか?  彼らはその知識を有していた。

その教政条約交渉は、一つの完璧な覆いを彼らに提供した。 彼らは好機を有していた。その証拠は実益である。

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続く

元記事は

Did Jews Choose A Pope?  By Clifford Shack
http://cliffordshack.com/RothschildsNaziPope.html (和訳その1です)

原題

Making the Final Solution Possible: The Rothschilds & Their Banking Client Who Became Pope By Clifford Shack Updated January 8th, 2006

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右:Lionel Nathan de Rothschild (22 November 1808 – 3 June 1879)


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Baron Guy Édouard Alphonse Paul de Rothschild (May 21, 1909 – June 12, 2007)


++
昨年はワクチン攻撃対応で忙しくて、あまり他に頭が回らなかったのですが、今度は戦争や食糧危機がきな臭いので、以前から懸案だったClifford Shackさんの重要記事を訳すことにしました。 4月1日とは、たまには本当のことを言う日でしたっけ?
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by oninomae | 2010-04-01 21:19 | イルミナティ  

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