CFRの誕生と全体主義との初期のつながり by ジェームス・パーロフ 1 米・英に「国際問題研究所」


c0139575_18315410.jpg

モルガンのパートナー、ラッセル・レフィングウェル[Russell Cornell Leffingwell, 1878–1960](右側、モルガン[J. P. Morgan, Jr., 1867-1943]と共に上院審問室を出るところ)はCFRの初代議長であった。大恐慌の設計者はこの男だと言われている


国際連盟との関係

米・英に「国際問題研究所」を結成

上院の批准投票のかなり前に、上院が国際連盟に反対だというニュースがハウス大佐、「インクワイァリー[THE INQUIRY]」メンバー、およびパリに集まっていた他のアメリカ国際主義者たちに届いた。世論を変えるため何か手を打たない限り、アメリカが世界政権王国に加わらないことは明瞭であった。

c0139575_1855051.jpg

ハウスの指示で彼らが平和会議への英国代表団の一部メンバーと共に一連の集会を重ねた。

一九一九年五月三十日のマジェスティック・ホテルにおける夕食会で、二つの支部--一つは合衆国に、一つは英国に--を持つ「国際問題研究所」を結成することが決議された。

アメリカ支部は一九二一年七月二十九日に外交評議会(CFR)としてニューヨークで組織化された。

英国支部は王立外交問題研究所(RIIA Royal Institute for International Affairs = Chatham House)と呼ばれるようになり、その指導権は円卓の騎士のメンバー--ロンドンに本拠をおく半秘密的国際主義者グループ--に握られた。

c0139575_1933134.jpg

c0139575_194531.jpg

c0139575_1944238.jpg

c0139575_1954248.jpg

RIIAはCFRに対応するもので半世紀以上にわたって英国の政策を牛耳ってきた。もしこれが本書の主題であったなら、それについて多々論じることができように・・・。

CFRとRIIAはもともと同系列支部を意図したものであったのに、それぞれ独立団体となった。けれども両者はこれまで常に緊密な非公式連繋を保ってきた。

一九二二年にCFRはその目的を次のように述べた。

「CFRはアメリカの政治、経済、金融問題の国際的局面に関し継続的に協議を行うことを目的とする。・・・国際関係の知識を増進し、特に筋の通ったアメリカ外交政策の展開に関係する人たちのグループにすぎない」(1)

この自己記述は、CFRが長年発表してきた他の多くの記述と全く類似のものである--CFRは単なるおしゃべり外交クラブにすぎず、その狙いは無害で、その見解は穏健公正であるという考え方をあいも変わらず世間に伝えている。

もしこれがCFRの意味するすべてなら、支配階級がそのために何千万ドルも使ってきたのは甚だおかしいことになる。


一極世界支配を指向

一九二〇年代のCFRが、国際連盟へのアメリカの加盟を甚だ非客観的に裏工作していたと論断するのに、その証拠を捜す苦労はさして必要でない。

『フォーリン・アフェアーズ』の初刊の論文は「文明に対するアメリカの次の貢献」と題されていた。それがどういうものであったか、われわれは一人残らず推測できうるのではなかろうか。いわく、

  「わが政府は真剣に現国際連盟に加入し、連盟内で発議されるすべての討議に好意的に関与し、連盟構成国が一致した行動で課するようなすべての義務には進んで割り当て以上の貢献をすべきである」(2)

もちろん問題を誇張したのではあろうが『フォーリン・アフェアーズ』のすべての記事が世界政権をあからさまに煽ったわけではない。しかし典型的な例を言えば、同誌は種々な国際的挿話に関する無味乾燥な学術論文に交えて、一、二の扇動的な記事を載せた。「シンガポールの鉱物資源」とか「国際取引から見た大豆」のような題名には何の陰謀も潜んではいなかった。しかしながら特集記事の多くは一極世界支配を指向する解説を紹介していた

ハウス大佐は、いうまでもなくCFRの創立メンバーの一人であった。CFRの他のメンバーに関しては、たとえばロバート・D・シュレジンジャー[Robert D. Schulzinger]は"Wise Men of Foreign Affairs: The History of the Council on Foreign Relations"のなかで、「彼らのほとんど全員が銀行家と弁護士であった」(3)と述べている。

この定型は五十年経っても変わらなかった。ジョン・フランクリン・キャンベル[John Franklin Campbell]が一九七一年にニューヨーカー誌に、CFRの会員であるということは「通常は投資銀行か法律事務所の出資仲間--時には政府における『紛争調停』役に任命される--であるということだ」と書いている(4)。


そうだとすると疑問がおこる。外交問題がなぜこれら二つの職業分野の手にほとんど独占的に握られねばならないのか。

CFRの創立者たちはさらに今一つの点でも特徴があった。すなわちJ・P・モルガン商会との関連である。前にも触れたがキャロル・キグレー博士はCFRの設立に独特の見識を持っていた。彼は英国におけるCFRの対応グループの中核である「円卓の騎士」会員と非常に親しく、一九六〇年代の初めその秘密記録を調べる許可を得た。キグレーはCFRを「非常に小規模のアメリカ円卓の騎士グループと提携したJ・P・モルガン商会の隠れ蓑グループ」と名づけている(5)。

CFRの創設時の理事長はジョン・W・デーヴィス[John William Davis, 1873-1955, ref.2] で、彼はJ・P・モルガンの個人弁護士であり、もともと富豪であった。

c0139575_1851409.jpg

創設時の副理事長はポール・クラヴァス[Paul Drennan Cravath, 1861-1940]で、彼の法律事務所もまたモルガン財閥の代理人であった。

c0139575_18522064.jpg

モルガンのパートナー、ラッセル・レフィングウェル[Russell Cornell Leffingwell, 1878–1960]は後にCFRの初代議長になった。

c0139575_18525233.jpg

ほかにも諸々のモルガンのパートナー、弁護士、代理人たちがCFRの初期会員名簿を埋めていた。

そのような均一性を意識して、CFRの運営委員会は大学教授連を加えることで名簿の特徴を出そうと提案した。しかしながらその連中の大半はハウス大佐の「インクワイアリー」のメンバーであった。

そのうえ、彼らはJ・P・モルガンの援助を受けた大学の出身者であった。キグレー博士が述べたように、「もともとウォール街のこれら教授たちとの縁故は、大規模に学園寄付を扱うモルガンの影響力から生れた」(6)ものなのである。



ジェームス・パーロフ 権力の影 第3章 CFRの誕生と全体主義との初期のつながり p87-93より














c0139575_3274155.jpg

エドモンド・ド・ロスチャイルド男爵[Baron Edmond Benjamin James de Rothschild, 1845-1934]


c0139575_3513085.jpg

ウォルター・ロスチャイルド男爵[Lionel Walter Rothschild, 2nd Baron Rothschild, 1868-1937]
[PR]

by oninomae | 2009-04-11 19:12 | イルミナティ  

<< CFRの誕生と全体主義との初期... サタンの子分 >>