国際的な銀行家によって支援されたボルシェヴィキ革命 by G・アレン&L・エブラハム 3 +「窃盗」?

国際的な銀行家によって支援されたボルシェヴィキ革命 by G・アレン&L・エブラハム 3


ロシアのボルシェヴィキ革命は、明らかに世界史における大きな方向転換の一つだった。この出来事については、ありあまるほどたくさんの誤ったうわさがひろまっている。 "神話製造者"や歴史家は、歴史の本質的なことにふれず、それを保留することに成功している。 ロシアにおける共産主義の確立は、共産主義のもつ二番目に大きな虚言の古典的事例である。すでに述べたように、それは「共産主義は使用者よる搾取に反抗して立ちあがる抑圧されている大衆の運動である」というものである。巧妙にに仕上げられたこの惑わしは、一七八九年の第一フランス革命以来つちかわれできたものである。

多くの人びとは今日、共産主義者がツァー(ロシア皇帝)の暴政後、他の体制を受け入れやすくなっていたロシア人民の人気を勝ちとったことが、ロシアにおける共産主義に成功をもたらしたと信じている。 この考え方はしかし、歴史的事実の傍らを素通りしている。

一九一七年十一月にボルシェビキ革命が起きたことは全くよく知られているのに反し、ツァーがすでにその五月に、つまりこの革命の七ヵ月も前に退位していたということは、あまりよく知られていない。皇帝ニコライ二世[Nicholas II of Russia,1868-1918?]が退位したとき、まずルヴォフ[Georgy Lvov, 1861-1925]によって暫定政府が建てられた。

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ルヴォフはアメリカ政府をモデルにして新しいロシア政府をつくろうと考えていたのであるが、不幸にもこの政府はケレンスキー[Alexander Kerensky, 1881-1970]体制に道をあけた。いわゆる民主社会主義者であるケレンスキー派、共産主義のための過渡的政府を率いたといってよいだろう。

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彼はドイツやその他の中欧諸国に対す戦争にはもちこたえたが、失敗した一九〇五年のの赤色革命後捕らえられていた共産主義者とそのほかの革命家たちに、大赦の恩典与えてしまった

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こうして二十五万の魄(はく)つき革命家が、ケレンスキーの運命を決めるため、母なるロシアにもどって来たのである。

ソ連邦においても、共産主義が権力につくのを助けたのは抑圧された大衆ではなかった。他の共産主義国家や社会主義国家と同じように、ここでも権力は上から下に落ちてきたのである。 

共産主義が権力を掌握するまでの期間を年代記的にあらわしてみよう。

年は一九一七年、連合軍は中欧諸国と戦っている。この戦争にロシア、イギリス帝国、フランス、そして四月からはアメリカ合州国が参戦している。一九一七年三月、計画者は列強国を動かし、ニコライ二世を退位に追いこんだ。彼はこの退位を連合国の圧力のもとで、暴動の後、ペテルスブルクの議事堂で行った。

この暴動は、この都市の生活必需品の供給をストップし、工場閉鎖をもたらした運輸組織の崩壊から起きた。 (引用注:フランス革命を思い出しますね。いや、むしろ現在を? 「魔術とイルミナティ」の通りになってくる。「崩壊の計画」、「終末の始まり」 も参照 彼らは、皆をフールにしておき、過去と同様の手を使ってくる

しかし、こうしたすべてのことが起きているとき、レーニン[1870-1924]とトロツキー[Leon Trotsky, 1879-1940]はどこにいたのであろうか。 レーニンはスイスにいた。

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彼は一九〇五年の追放以来ずっとヨーロッパにいたのである(彼もまた、かの年に失敗した共産革命でツァーを倒そうとした)。 トロツキーもまた亡命中だった。

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彼はそのときニューヨーク市のイーストサイドで共産主義の新聞の記者をしていた。ボルシェヴィキたちはツァーが退位した当時、まだ眼に見えるような政治的力をもってはいなかった。 

彼らは、抑圧された大衆の圧力に従ってロシアに帰って来たのではない。ヨーロッパとアメリカの力強い男たちが、彼らを権力の座につかせたのである。

レーニンは、戦争下のヨーロッパを駆けめぐるという有名な「封印された遠征」に派遣されていた。彼は金で五百万ないし六百万ドルをもっていた。このすべての段どりは、ドイツ最高司令部とかのマックス・ヴァールブルク[Max M. Warburg, 1867-1946]が、

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杜会主義者であり同時に大金持ちのアレキサンダー・ヘルファント、別名「小人(パルヴス)」[Alexander Parvus, 1867-1924]の助けでやった。


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トロツキーが一九十七三月二十七日、S・Sクリスチャニア号で二七五人の革命家をともなってニューヨークを離れた。最初の寄港地はノーヴァ・スコチア[Nova Scotia]にあるハリファックス[Halifax]だった。そこで彼はカナダ人に逮捕され、資金も取りあげられて五日間監禁された。彼については、カナダ人の知るところとなっていた。なぜならトロツキーは、自分がロシアで首尾よく権力を得たらすぐさま「帝国主義的戦争」を終結し、ドイツとは個別的平和条約を結ぶだろうと、しばしばしゃべっていたからであるもしこうなれば、ドイツ部隊のかなりの部分が東部戦線で自由になるだろうから、これはカナダ人の利益には合わたかった。つまり、こうして自由になった部隊は、西部戦線のカナダ部隊と戦うため、西部戦線に移動してくるかもしれないのである。

だが五日間の拘留後、突然イギリス人がクーン=レブの将来のパートナーとなるサー・ウィリアム・ワイズマン[Sir William Wiseman, 1886-1962]を通して、
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またアメリカ人がかの神出鬼没のハウス連隊長["Colonel" Edward Mandell House, 1858-1938]を通して、
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カナダ政府にトロツキーの釈放を要求してきた。
 かくてトロツキーは釈放され、しかもアメリカのパスポートをもって、ロシアでレーニンに会うべく帰国したのである。

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トロツキーとレーニンは、レーニンが「ソ連邦の全権力」と名づけたものを十一月までに手中に収めることに(大衆が彼らの背後に立ったからではなく)、買収、残酷、策略、詐欺、暴力をもって成功したのである。

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共産主義者は、一ダースたらずの都市を征圧することによって権力についた。実際、革命は一つの都、すなわちペテルスブルクでのみ完了したのである。それはちょうど、少数の共産主義者がワシントン・D・Cを征圧して、アメリカ全体が共産主義になるようなものであった。だがソヴィエト(評議会)がその力を全ロシアに確立できるまでには、まだ数年を要した。

かのドイツ人(マックス・ヴァールブルク)がレーニンやトロツキーに資金を出した理由は、一応もっともなようにみえる。レーニンヘの資金援助に対して主要な役割を演じたのは、マックス・ヴァールブルクとロシアから追放されたアレキサンダー・ヘルファントだった。

彼らは、レーニンに資金を援助することによって彼らの国(ドイツ)の事態に奉仕するのだという主張はできた。それにもかかわらずこの二人のドイツ「愛国者」は、ドイツ皇帝に、ロシアに共産主義革命をかきたてるという自分たちの計画を打ち明けることをなおざりにしていた

もしここでマックス・ヴァールブルクの弟が連邦準備の創立者の第一人者で、かの有名なパウル・ヴァールブルク[Paul Moritz Warburg, 1868-1932]だったということを考慮に入れれば、また違った展望が開けてくる。

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パウルは連邦準備理事会の長という地位を利用して、アメリカの戦争遂行を支援するにあたって主要な役割を演じた。兄のマックスがドイツの金融界を指揮しているということが、アメリカの新聞にも匂ってきたとき、パウルは眉を一つ動かすことなくその地位を退いた。 しかしいまや、陰謀はますます凄味を帯びてゆくだけだった。

マックス・ヴァールブルクのもう一人の弟であるフェリックス[Felix M. Warburg, 1871-1937]

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の義父、すなわちクーン=レブ商会の最高のパートナーであるヤーコブ・シッフ[Jacob Schiff,1847-1920]も、トロツキーの資金援助を行った。

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一九四九年二月三日付のニューヨーク・ジャーナル・アメリカンには、「ヤーコブの孫ジョン・シッフ[John M. Schiff, 1904-87]の言葉から、ヤーコブ・シッフは約二千万ドルをロシアにおけるボルシェヴィキの最後的勝利に投資したと今日推量される」と掲載された(図6参照)。

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JFK政権時代のクーンローブのパートナー達。ジェイコブ・シッフの肖像画の下には、(左から)オットー・カーンの息子であるギルバート・ウィリアム・カーン、シッフの孫たち、ジョン M. シッフ[1904-1987]とフレデリック M. ウォーバーグ[1897-1973、 フェリークス・ウォーバーグとフリーダ・F・シッフの長男]。 )

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ハリマン・ブッシュ->ヒトラーシュレーダー[シュローダー]->ヒトラー等の矢印も増やしたいところではありますが)


ボルシェヴィキ革命の資金援助についての最も優れた情報源の一つは、被抑圧人民連盟をフランスで創立し、また有力な白ロシアの将軍であるアゼーヌ・ド・グルヴィッチの著書『皇帝制と革命』である。フランス語で書かれ、ただちに英訳されたこの本で、彼はつぎのように言っている。

  「革命資金の主要な調達者はだが気が狂ったロシアの百万長者でも、レーニンのもつ武装山賊でもなかった。決定的な額は第一に、永い間ロシア革命に関わることがらに支援を行っていたイギリスとアメリカのある集団からやって来た・・・。さらに、アメリカの豊かな銀行家ヤーコブ・シッフがロシアの出来事に際して果たした重要な役割は、今もってなお秘密にされているが、これからも永い間秘密にされつづけることはないだろう(9)」。

ド・グルヴィッチはまた、アレキサンダー・ネチヴォロドフ将軍の言葉を引用して、同書でボルシェヴィキ革命についてつぎのように言っている。

  「一九一七年四月、ヤーコブ・シッフは、自分の資金援助のおかげでロシアの革命は成功したと公式に宣言している。同年春、シッフはトロツキーに補助金を交付しはじめた・・・。同時に、トロツキーとその仲間は、マックス・ヴァールブルクとストックホルムのニエ(Nye)銀行のオーラフ・アシュベルク・・・、そしてライン・ウェストファーリア企業者連合、および後に娘[Natalya Sedova]をトロツキーに嫁がせたジヴォトフスキー[Abram Zhivotovsky]からも補助金を受取っていた」。

シッフはツァーを倒すために何百万も出し、ケレンスキー打倒を可能にするためにはもっと多額の金を投資した。ボルシェヴィキの本当の性格が世界に知れわたってかなりたっても、彼は金をロシアに送りつづけた。戦争によるユダヤ人の生活苦を軽減するため、という名目で総額百万ドルを調達したが、これはその後よい事業投資であったことが証明されたド・グルヴィッチは、われわれに、「ロシア皇帝の最後の駐米大使バクメチェフ氏は、〈ボルシェヴィキは彼らの勝利後、一九一八年から一九二二年の間に六億ルーブルをクーン=レブー商会(シッフの会杜)に振込んだ〉と言った(10)」と言っている。

ボルシェヴィキ革命への直接的な関わりは、もちろん完全に否定されるが、当時の連合軍の秘密情報部の間ではその「関わり」がよく話題になっていた。こうしてボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀であるといううわさがひろまったのである。すでに述べたように、この財政援助は、シッフ-ヴァールブルク集団と並んでモルガンおよびロックフェラーも所属している国際的な銀行家たちのシンジケートから出たものである。ある文書は、モルガン機関は赤色革命の口座に少くても百万ドルを振込んだことを示している(11)。

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写真5 アルフレッド・ミルナー卿富豪のイギリス人でロスチャイルドのロボットである彼はボルシェヴィキ革命のあいだペテルスブルグの国際的な銀行家たちの会計主任として活躍し、その後「円卓」として知られた世界政府をめざす秘密結社の長となった超富豪の一集団はこの計画を実現するため社会主義という仮面の下で世界をコントロールしようとしている。この陰謀のアメリカにある支柱は、外交問題協議会(CFR)と名づけられ、左がかった銀行家によって創設され、その後もずっと彼らによってコントロールされている。


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写真6 ヤーコブ・シッフは、孫のジョンとともにロシアの共産革命に二千万ドルの資金援助をした。彼は長いあいだロスチャイルド家に参加し、国務省の文書によれば、シッフの会社であるクーン=レブ社はスターリンの第一次五ヵ年計画を支援した。シッフのパートナーと一族は連邦準備制度の設立を企てたが、彼自身はクーン=レブ社で働いていた。シッフの末えいは今日CFRで活発に働いている。


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写真7 ニューヨーク、68番通りにあるCFRの建物。このCFRの目標は憲法の廃止と、われわれのかつては自律的であった共和国を世界政府と取りかえることである。CFR会員は最新の六つの政府(政権)をコントロールした。リチャード・ニクソンは会員であった。そして彼は少なくとも百人のCFR会員を彼の要人として迎えた。


革命の他の大口のスポンサーは、大富豪のイギリス人、アルフレッド・ミルナー卿だった。

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彼はロスチャイルド家が援助している秘密集団「円卓」(The Round Table)の創設者であり、またその団長だった。

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これについてド・グルヴィッチはつぎのように言っている。

  「一九一七年四月七日、ヤーニン将軍はロシア総司令部で‘Au G. C. C. Russeの表記のもとでつぎのようなことを日記に記している(Le Monde Slave, Vol.2 1927, pp296-297)。長い話合いでR氏は、私がすでにM氏より聞いていたことを裏づけた。R氏は、R氏とR氏の家族のドイツ人に対する憎悪を語ったのち、イギリス人によって肉づけされた革命にテーマを移した。 この<肉づけ>はより正確にいえば、サー・ジョージ・ブーファナンとアルフレッド・ミルナーによってなされたのであったペテルスブルグにはこのときイギリス人がウヨウヨしていた・・・。彼はイギリスのスパイたちが泊っていた通りの名前も、家の番号もいうことができるそうである。彼によれば、イギリスのスパイたちが暴動を通して金を兵士に配り、彼らを暴徒にけしかけていたという報告もあるそうだ。・・・私的なインタビューで私は<ミルナー卿はロシア革命に二千百万ルーブル以上の資金援助を行った>と聞いている(12)」。

ミルナー卿と(パウル、フェリックス、マックスの)ヴァールブルク兄弟は、第一次世界大戦終了後に開かれたパリ平和会議で「彼らの」それぞれの国を代表した。

たとえレーニンに対するマックス・ヴァールブルクの資金援助が場合によってはドイツ人の「愛国心」によるものであったとしても、シッフ、モルガン、ロックフェラー、ミルナーを動かしたものは、愛国心でなかったことは確かだ。イギリス人とアメリカ人は、同盟国同志としてともにドイツと戦って、そして皇帝制ロシアとも同盟していたのである。 彼らの資金援助の結果、東部戦線で一ダースのドイツ師団が自由になり、再び多くのアメリカとイギリスの兵士がその命を落したのであるから、これらのインサイダーたちは、自国に対して反逆罪を犯したのは明らかである。

ボルシェヴィキ革命との関係で名前が浮かびあがってくる多くの人びとは、このように、アメリカの連邦準備制度、累進所得税制、免税財団などの創設、そして第一次世界大戦のアメリカ参戦にも責任をもっている。 だがさて、ここからこれらはみな偶然ではありえないという(論理的に首尾一貫した)結論を引き出す者は、その名前がアメリカの国の杜会人名簿から消されるのである


G・アレン&L・エブラハム インサイダー 第四章 国際的な銀行家によって支援されたボルシェヴィキ革命 p117-126より
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小泉政権ブレーン・高橋洋一教授窃盗容疑で書類送検2  読売新聞 009年3月30日22時28分  
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090330-OYT1T00754.htm

警視庁練馬署は30日、温泉施設のロッカーから財布や腕時計を盗んだとして、元財務官僚で東洋大教授の高橋洋一容疑者(53)を窃盗容疑で書類送検した。

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 同署幹部によると、高橋容疑者は24日午後8時ごろ、東京都練馬区の温泉施設「豊島園庭の湯」の脱衣所で、区内に住む男性会社員(67)が使っていたロッカーから、現金約5万円が入った財布や、数十万円相当のブルガリの高級腕時計を盗んだ疑い。ロッカーは無施錠だったという。

 男性の通報で駆けつけた同署員が調べたところ、防犯カメラに高橋容疑者に似た男が写っていたため、浴場から出てきた高橋容疑者に事情を聞くと、盗んだことを認めたという。調べに対し、高橋容疑者は「いい時計だったので、どんな人が持っているのか興味があり、盗んでしまった」と供述しているという。

以下略

++
「政府紙幣発行」は「窃盗」だそうです (「郵便貯金をちゃんと渡さない」のは「窃盗」の意味もある?)  

「簡保の宿払い下げ」等は窃盗の意味だったらうれしいのだけれどね..  
(笑、いや笑えない?)
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by oninomae | 2009-03-30 23:56 | イルミナティ  

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